第8話 憑依
夕日ケ丘商店街の裏手に続く飲み屋街では、居酒屋の閉店時間により
酔いどころを奪われた五十代くらいでよれよれのスーツを着たサラリーマン風の男性が、
泥酔しながら千鳥足で歩いている。
すると突然、ベルが空から降ってきた。
ベルは落ちた衝撃の激しさに驚き、後ろ足で立ちながらマイケルジャクソンを彷佛とさせる
激しいステップを踏んでいた。
「キャンキャンキャンキャン…あぅ?」
酔った五十代でよれよれのスーツを着たサラリーマン風の男性がベルを見つめていた。
「おぅ?犬が降ってきたぞ」
「えっ、私が見えるんですか?」
「当たりめいだっぺ。ほれ、目はちゃんとあっぞ」
「おじさん、死にかけてますよ、飲み過ぎです。このままじゃ急性アルコール中毒で本当に死にますよ」
「うっ、うっせー!この世の中は飲まなきゃやってらんねぇーんだよ。あっち行けっ、このクソ犬!」
ベルは泥酔した五十代くらいでよれよれのスーツを着たサラリーマン風の男性に
後ろ足で土をかけるマネをすると、その場から走り去って行った。
あまりの無礼な振る舞いに、興奮して頭に血が上った男は
「ばっきゃろー、俺はうんちじゃねー」
と大声で叫ぶと、崩れるように倒れて痙攣をしはじめた。
ベルは薮中の身を案じて必死に走った。
ただ本能が導くままに耳とベロを振り乱し、時折、よだれを辺りにまき散らしながら走り続けた。
その頃、薮中はベルとはじめて出会った思い出の地である夕日ケ丘森林公園の遊具施設エリアに居た。
街灯に照らされたその場所の端にあるブランコに座り、うつむいたまま抜け殻のようにただじっとしていた。
「私はこの先どうすれはいいんだ……」
そうつぶやき、ふと顔を上げると、暗闇の先から黒いシルエットの物体が走り寄って来るのが見えてきた。
それは耳とベロを振り乱し走ってくるベルのシルエットだった。
ベルは息を切らせながら薮中の前にやっとたどり着いた。
「ご主人様…はぁ〜はぁ〜」
そう言って自らの動悸が治まるを待った。薮中はベルを見つめ力無く応えた。
「ここに居たら、またお前に会える気がしたんだ」
二人は思い出の地で、この世の存在ではない幽体離脱した微妙な立場で改めて再会することとなった。
「まいったなぁ〜」と切なそうにそうつぶやく薮中の足に、
右前足を添えてじっと薮中の顔を見つめるベルであった。
二人の場所からそう遠くない公園内通路を二十代前半であろうOL風の若い女性が歩いていた。
ここは広い公園内を縦断する通路で、朝の通勤通学の時間帯は多くの近隣住民の近道として使われているが、
夜間ともなると比較的明るく照らされてはいるのだが、
家路を急ぎたい近隣住民でも近道として使う人が少なくなる通路でもあった。
人気のない公園内通路の街灯に照らされながら歩く女性の前から、人影が近づいてきた。
若い女性は緊張した面持ちで身構え、バックのひもを握りしめた。
前方でシルエットに見えていた人影が街灯に照らされて顔がハッキリと見えた。
一見優男にも見える若い男は、二十代半ばくらいに見えた。
その若い男はさほど近くに寄らなくても酒に酔っているであろうことが容易に分かる程、
顔が赤く酒のニオイを漂わせていた。
若い女性は見て見ぬ振りですれ違おうと心に決め込んだが、
男は、女性とすれ違いざま不敵な笑み浮かべて女性の行く手に立ちふさがった。
「ねぇ彼女ー、こんばんはっ」
女性は無言のまま男の脇を通り過ぎようとしたが、酔った男の手が女性の持つハンドバックのひもを捉えた。
「やめてください!」
「いいじゃないか、二人でいいことしょうぜぇー」
酔った男は女性がバックを引き戻そうとする力をあざ笑うかのように不敵な笑みを浮かべながら、
女性に抱き着いた。
「キャー!」
その悲鳴は、同じ公園の遊具施設エリアに居た薮中とベルの鼓膜まで電光石火のごとく届いた。
「ご主人様、今女性の絹を引き裂くような悲鳴が聞こえませんでしたか?」
「ベル、南南西の方向だ。行くぞ!」
「はい!」
薮中とベルは悲鳴の聞こえた方向へと走って行った。
樹木が生い茂る森の木々を避けることなく突き抜け、ただ真っすぐ、南南西の方向に向かって走って行った。
森を抜けた通路の脇で、女性が酔った男に腕をつかまれたまま詰め寄られている。
女性は身を震わせて脅えていた。
「お金ならあげますから放してください」
「金なんかどうでもいい。溜まってんだよ、なっ、二人でいいことしようぜぇ、彼女〜ヘッへへへ」
酔った男は不気味に笑い、今にも女性を押し倒して襲い掛かりそうだった。
その姿を目の当たりにした薮中は、迷うことなく右ストレートを酔った若い男に目掛けて力強く放った。
だが、当たる訳もなく、勢い余って酔った若い男の体をすり抜けてしまった。
これから起こる強行をただ指をくわえて待たなければいけないのかと、薮中は焦った。
「どうすればいい、どうすればいい」
「女性に乗り移ってください」
と当たり前のようにベルが言い放った。
「どうやってだ!」
「助けたいという気持だけを持ち、女性にぶつかってみてください」
「えっ?どういうことだ?」
「とにかく、やってみてください!」
「分かった」
薮中は目を閉じると深呼吸をし、心の中で「私はあの子を必ず助けるぞ!」そう念じて目を見開き、
女性に向かって「たぁー!」と掛け声を上げながら体当たりをした。
薮中の体は女性の体をすり抜けることなく乗り移ったが、勢いあまって女性もろとも倒れた。
薮中は女性に憑依できたものの、女性に乗り移ったことなど気にする様子もなく、
ついいつもの口調で喋り出してしまった。
「いったいなぁ〜」
何事が起きたのか知る由もない酔った男は薄ら笑いを浮かべながら、
薮中が憑依しているとも知らずに女性に詰め寄った。
「言うことを聞いたら、痛くはしないぜ」
「お前何言ってんだ。か弱い女性を手籠めにしようなんて、この薮中が許さんぞ!」
「なっ何だよ!急に男みたいになってさぁ」
「柔道五段の腕前を見せてやる」
「えっ?」
女性に憑依した薮中は、酔った男を派手に投げ飛ばした。
「おりゃー!」
「ひぇー!」
酔った男は華麗に宙を舞い、地面に叩き付けられると転がった。
酔った男は女性の唐突な豹変にびっくりしたのか、捨て台詞を吐いて逃げて行った。
「いってー。何すんだばっきゃろーこの男女、覚えてろ!」
薮中は去り行く酔った男を指差した。
「女性を口説く技を覚えろ!愚か者め」
そう言って、女性の衣服に付いた汚れを手で払い落とした。
「ご主人様、大丈夫ですか?」
「大丈夫だ。この女の子にもケガはさせていないようだ。さて、この子をどうしよう。
このまま置いて行くわけにもいかんしな」
「警察を呼べばいいじゃないですか」
「ケガも無いようだし、そうするか」
薮中が憑依中の若い女性が持っていたバックから携帯電話を取り出すと、
いつもの癖でかけなれた場所に電話をはじめた。
ちょうどその頃、曙警察署の捜査課では堤が、いつも犯人から恨みを買っている薮中に対して
復讐を企てそうな前科者がいないか、今まで薮中が扱った事件の捜査資料に目を通していた。
ふと辺りを見回すと、薮中のデスクの上に、小さな額に入った薮中の遺影と白い百合の花が一輪
飾られているのか目に入った。堤は薮中の遺影を見つめて硬い決意を口にした。
「薮中さん。俺たちで犯人を捕まえますから」
と、その時だ。捜査課の電話が鳴り出した。
事件の予感を感じた堤は、さっそうと右手を延ばし受話器を手にすると、耳にあてがい眉間にしわを寄せた。
「はい、捜査課です!」
本来はここから緊迫した事件の状況が伝えられる所だが、今日はそうではなかった。
若い女性の声で、あたかも親しい友人に語りかけるような声だった。
「おぅ堤か」
「はい?」
堤の声が裏返ってしまった。
「しっ、しまった!」
薮中は焦ってしまった。今の自分は自分ではなく、強姦未遂にあった若い女性であることを
今さらながら理解し、必要もないのに声色を変えて女性に徹しようとした。
「曙町の夕日ケ丘森林公園で、若い女性が男に襲われて倒れています。
早く助けてあげてください!急いで!」
ミスをとり作ろうかのように慌てて喋る若い女性に対して、堤は冷静で端的な質問をした。
「あなたは誰ですか?」
戸惑う薮中は若い女性になりきれぬまま怒鳴った。
「誰でもいいから早く助けろ!」
そのまま電話を切ってしまった。
堤ははじめて聞く声ではあったが、言い知れぬ親近感を感じ、
戸惑いながらも犯人の強行を阻止すべく無線のスイッチを押した。
「緊急指令。曙町の夕日ケ丘森林公園で若い女性が男性に襲われているとの通報。
警ら中の各移動は現場に至急急行してください」
無線から、巡回パトロール中のパトカーから連絡が入った。
「機捜3了解。現場に向かいます」
堤は首を傾げて悩んだ。
「いったい今の女性は、誰だったんだ?」
堤は首を傾げて悩み続けながら、ゆっくりと捜査課から出て行った。
若い女性に憑依中の薮中は、電話をかけ終えると反省しきりで携帯電話を見つめていた。
「しまった。ついいつもの調子で電話をしてしまった」
「ご主人様、今はこの女性ですよ」
「やれやれ、他人になりすますのは結構難しいなぁ〜ん〜」
薮中は憑依中の若い女性の携帯電話をバックにしまうと屈み込んだ。
そして両手で辺りの砂を集めて砂山を作りはじめた。ベルはその山のニオイを一嗅ぎすると質問をした。
「ご主人様、これから何をするんですか?」
薮中が憑依中の若い女性は、山のてっぺんにまっすぐに伸びた一本の枯れ枝を差し込み笑顔で応えた。
「お迎えが来るまで棒倒しをするぞ」
若い女性とベルは、しばらくの間、暇を持て余すように棒倒しをいそしんだ。
「おい、お前の番だぞ」
「はい」
ベルは器用に前足の指先を丸めながら砂をはらった。
二人にとって一分が一時間にも感じられる悶々とした時間であった。
「警察を呼んだはいいが、来るまでこの格好で待っているのも結構辛いなぁ〜」
「取りあえず警察が来るまでは、この女性を守らなくては」
「確かに。なぁベル、私は死んでも警官なんだな」
「いいじゃないですか、そういうご主人様、私は好きです」
「ありがとう」
薮中はそう言ってベルの頭を優しく撫でた。ベルはしっぽを振りながら笑みを浮かべて喜んだ。
しばらくするとサイレンを鳴らしたパトカーが夕日ケ丘森林公園の前で止まった。
「やっと来たようだぞ」
薮中が憑依中の若い女性は、手に付いた砂を叩き落としながら立ち上がった。
「ご主人様、早く抜け出してください」
「そっ、そうだな。でもどうすればいいんだ?」
「抜けようと思ってちょっと力を入れればすぐ抜け出せます」
「そうか、どれ、こうかな?」
薮中は憑依中の若い女性から、服を脱ぐように幽体離脱すると若い女性は背骨を抜かれたように
崩れながらその場に倒れてしまった。
生い茂る木々の隙間から微かにパトライトの明かり見え、そこから二人の制服警官が、
倒れている女性に向かって走ってきた。たどり着くと、若い女性の肩を優しく叩いた。
「大丈夫ですか、しっかりしてください」
若い女性は何の反応も見せずただ倒れている。ひとりが女性の脈を確認した。
「おい脈はあるぞ、救急車の手配だ!」
「はい」
もうひとりの警官は無線機を手にすると本部へ連絡を入れた。
「曙町の夕日ケ丘森林公園内の遊歩道で、若い女性が倒れていました。息があります。
至急救急車の要請をお願いします」
「本部了解」
薮中とベルは、ほっと肩をなで下ろした。
五分程経った頃であろうか、救急車が到着するとストレッチャーを押した救急隊員たちが
倒れている若い女性と警官たちの元に到着した。
救急隊員は若い女性のバイタルサイン|(呼吸や脈拍など生きている状態を示す指標)を確認すると、
そっと担架に乗せてストレッチャーに固定し、救急車へと運んで行った。
若い女性が運ばれて行く光景を薮中とベルは側からじっと眺めている。
だが、その姿は制服警官や救急隊員たちにも見えない存在であり、
労をねぎらってもらう気配さえ感じることもできない、隠密で誰からも褒め称えられない存在ではあったが、
薮中とベルは大いに満足していた。
「ベル、これで一安心だな」
「やりましたね、ご主人様」
若い女性がストレッチャーで運ばれて行く姿を満足げに眺めていると、
運ばれて行く若い女性とすれ違うように堤が現場に走り寄って来た。
薮中はとっさに近くにあった木の後ろに身を潜めた。
「おっ、ヤバい。堤が来たぞ」
「お知り合いですか?」
「さっきの電話、いつもの癖でつい捜査課に直接かけてしまったからな」
堤は警官たちに声をかけた。
「捜査課の堤ですが、被害女性の他に女性は居ませんでしたか?」
警官の一人が首を傾げて答えた。
「いえ。被害女性が倒れていただけですよ。どうしたんですか?」
「匿名の女性から、この公園で女性が襲われていると、捜査課に通報があったんですよ」
「何でいきなり捜査課なんですか?」
「さぁ〜。ただ、聞き覚えのある感じだったんだけど…思い出せないんですよ」
堤が抱く疑問に薮中はいささか困っていた。
「ヤバいなぁ〜あいつは感がいいからな、私たちは早くここから逃げよう」
「良い事をしたのですから、逃げるのはおかしいです」
「いいから、行くぞ」
薮中は樹木を避けながら歩き出した。
ベルは薮中のとっている行動に首を傾げつつ、走って薮中の後を追って行った。