第7話 再会
薮中の生きていたこの世では、薮中死亡の情報が家族にまで伝わってしまった。
そんなことなど知る由もない薮中は、何処に行くのかも分らない状況の中で、
運命にもて遊ばれるかのように、白い雲の中をただ落ちて行った。
すると突然、雲の切れ間が見えたと思った瞬間、椅子から転げ落ちるかのようにお尻から地上に着地した。
痛みを感じないことにいささか戸惑いながらも辺りを見渡すと目の前には霧が立ち込め、
穏やかな流れで幅の広いであろう川が見えるのだが、分厚い霧がかかっているため対岸までは見通せない。
薮中のいる川岸には、赤や黄色などの色鮮やかな草花が今を盛りと美しく咲き広がっている。
薮中は両手でお尻の汚れを叩きながら立ち上がり辺りをきょろきょろと見回したが人影は見当たらなかった。
薮中はありったけの声で叫んだ。
「誰か居ませんかー!」
だが、誰からの返事もなかった。
薮中はここがどこかも分らぬまま、川岸と平行して続く少し高くなった道をヨタヨタと歩きはじめた。
しばらく歩くと霧がかった前方に微かではあるが看板らしき物が見えてきた。
薮中は逸る気持ちのおもむくまま、看板らしき物に走り寄った。
そこには木製の朽ちかけた看板に微かに読み取れる黒い文字で
「ようこそ三途の川へ、手続きは対岸で受け付けております。」
と書いてあった。薮中は半口を開けたまま死んだように身動き一つせずに驚いて立ち尽くした。
その時、微かに霧の中から疾走する足音が聞こえてきた。
それは人が走る音とは到底思えない程の速い速度で着実に薮中に向かっているようであった。
音は次第に大きくなり、目の前で聞こえたと思った瞬間、突然、大きな物体が薮中に飛びついてきた。
それは薄ら黄色いというか、薄ら黄ばんだ白のような体毛で、
一見ラブラドール・レトリバーに見える大型犬だった。
その犬は「ワンワンワン」と嬉しそうにしっぽを勢いよく左右に振りながら、
舌を垂らせて薮中を舐め倒そうとまとわり付いてきた。
薮中は一瞬戸惑いを見せたももの、すぐその犬が何者であるかを理解した。
薮中は興奮しきりの犬をなだめようと抱き締めながら頭を撫でた。
その犬は薮中が小学三年の秋頃、拾った犬だった。
母親と住んでいた会社の独身寮で、薮中少年がエサやりや散歩の世話をすることを条件に、
寮の番犬として飼うこととなり、ベルと命名され、薮中と共に母親も家族の一員として可愛がっていた。
しかし薮中が十一才歳の頃、不運な交通事故により死んでしまったのだ。
久しぶり再会に薮中は心の底から嬉しかった。そして思わずしゃべりかけた。
「おっおぉ〜。お前はもしかして、ベルか!久しぶりだなぁ〜元気か?」
「はい、何とか元気でやっていました」
満面の笑みを浮かべて喜んでいた薮中ではあったが、唐突に起きた事態に目を見開いて驚いた。
「ベっ、ベルがしゃべった!」
ベルは今までの興奮を押さえておすわりの姿勢になると淡々としゃべり出した。
「はい、しゃべれますが、何か問題でも?」
「いゃ、だって戸惑うだろ、ワンワンとしか鳴くことしかできないお前が、しゃ、しゃべるなんて」
「あの世に言葉の壁はありませんから」
「そっ、そうなんだ……でも戸惑うなぁ〜」
「誰とでもしゃべれる感覚ですので、慣れれば快適です」
「ん〜」
「どうしたんですか?」
「やはり私は死んでしまったのか?」
「そうですが、私たちはまだあの世と呼べる場所には居ませんよ」
「微妙な立場なんだだなぁ」
「ここは、あの世とこの世の中間ですから…そうだ。数年前、ご主人様が警官になってすぐの頃です。
公園で倒れていた子犬にパンをあげた時のことを、覚えていませんか?」
「……おぉ、覚えているぞ。死にそうに見えてなぁ、お前を拾った時を思い出したよ」
「あれは私があの犬に乗り移っていたんですよ。あの後、あの犬は元気になって、
優しい人に拾われたので離れました」
「そんな事ができるのか?」
「皆さんではないようですが、できる方も多いと思います。ご主人様はできますか?」
「私はこの世界に来たばかりだから何も分からないよ。……なっベル、何で三途の川を渡らなかったんだ」
「独りじゃ寂しいですし、ご主人様のことが心配で」
「お前は義理堅い奴だな。一緒に過ごした日々は二年ぐらいだったというのに……
あれから、かれこれ…三十年近いじゃないか…気を使わせてすまんな」
「いえいえ」
薮中はあり得ない現実に戸惑ってはいたが、愛犬ベルに会えた喜びなのか、
独りではなくなった喜びなのか、落ち着きを取り戻しつつあった。
薮中とベルは、三十年近い空白をうめるように語らいながら、川沿いの少し小高くなった道を歩いて行った。
500メートル程歩いた頃であろうか、霧がたなびく程であろう微かな風が後ろから吹き去って行った。
川岸に厚くたれ込めた霧が揺らめき、その間から小さな木製の桟橋が見えてきた。
そこには木製で船尾に「極楽」と書かれた手漕ぎボートらしき船が一艘、
ロープで繋がれていることに薮中は気づいてしまった。
「はぁ〜とうとうこれに乗る日が来てしまったのかぁ〜」
薮中はやるせない思いを抱きながら、死者がこの世との境界線である三途の川を
渡らなければいけないのかという固定概念に包まれ、
疑いやそれを否定しようとする思いすら微塵も無かった。
薮中はうな垂れながら木製の桟橋に歩み寄った。
そして手漕ぎボートの船底にオールがニ本置いてあることを確認すると振り返り
「ベル、行こうか」
と力無く小さな声で囁いた。ベルはただ
「はい」
とだけ応えて、ボートに乗り込む薮中を追うようにして手漕ぎボートに乗り込んだ。
薮中は桟橋に繋がれたロープを解くと、桟橋を手で強く押し返した。
手漕ぎボートがゆっくりとした川の流れの中に船出をした。
薮中はため息を一つつくと、ニ本のオールを使いボートを漕ぎはじめた。
霧が立ち込めて遠くを見通すことはできないでいたが、川の流れは穏やかなもので、
オールが水面をける音だけが辺りに聞こえる程であった。
「ボートを漕ぐの、何年ぶりだろう。高校の時にデートで乗った時以来だなぁ」
薮中がそうつぶやきながら辺りを見回すと、霧がかる対岸で白い着物をまとい
白髪で白く長いヒゲを蓄えた、一見、仙人ではと思わせる程、かなり年老いて見える老人が、
大きく手を降りながら何か叫んでいるのが微かに垣間見られた。
「おーい…おーい…おーい……」
ベルの耳が微かに動き、吐息のようにしか聞こえない老人の声をキャッチした。
「ご主人様、あそこで誰かがこちらに向かって、何か叫んでいるようです」
霧の合間から微かに見え隠れする老人は、尚も手を振りながら叫んでいた。
「何も見るなぁ〜ただ漕いで早く来い〜」
薮中とベルには老人がいったい何を伝えようとしているのか、言葉の内容までは伝わらなかった。
薮中はオールで漕ぐ速度を速めて、つぶやいた。
「私に言っているんだよなぁ。いったい何を言っているんだぁ?」
次第に老人の姿がハッキリと見渡せる50メートル程手前に差し掛かった時、
必死な形相で手招きをしている老人の声がやっと聞き取れた。
「お前は誰だぁー早く来〜い」
「薮中 守と申します〜」
薮中の耳に言葉が届いたことを理解した老人は安堵の表情を見せた。
薮中はその老人を冷めた眼差しで見つめながら、ぽつりと囁いた。
「まったく、この川を渡る人は多いんだから、橋くらい作ろーや」
老人は地獄耳の持ち主なのだろうか、その囁きが聞こえたのか何度も下流を指差しながら叫んだ。
「何故お前は橋を使わんのじゃ〜」
薮中とベルは老人が指し示す下流の方を見つめた。遠くに微かではあるが大きな橋が見える。
その橋には大勢の老若男女が連なりながら歩いている。
薮中は思わず肩を落としうな垂れ、苦労したことがなんの役にも立たないこと知りがく然とした。
「手続きがあるから〜、早くこっちへ来んかぁ〜」
「はーい。まっ、乗りかかった船だ。この際これでもいいや」
「ご主人様、ここはとても薄気味悪いです。急ぎましょう」
「そうだな」
薮中はそう言って漕ぎ続けようとした。その時だ、十数メートル程後方で水中から、突然、
五十代前後に見える中年のやつれた男性が青ざめた形相でもがき溺れはじめた。そして
「助けてー!」
と何度も絶叫する声が聞こえてきた薮中は、すぐさまボートを反転させると
「今助けに行くぞー!」
と男性を安心させるべく叫び、必死になってボートを漕いだ。
だが、男性に近づくにつれ、ベルには言い知れぬ嫌な思いが沸き上がっていた。
「ご主人様、あの人、何か変です」
「困っている者を助けるのも私の使命だ」
正義感に満ちた薮中にとって
「たっ、助けてー!」
と何度も叫んでは沈みかける男性を放っておけるはずもなく
「大丈夫!今助けますから!」
と力強く語りかけながら、必死な思いで手を差しのべていた。
「さぁ早く、私の手に掴まって!」
男性は、突然、溺れることをやめて不敵な笑みを浮かべた。
「ご主人様、危ない!」
ベルの発した叫びよりも早く男性の手が薮中の手首をしっかりと掴んで力強く川へと引き込もうとした。
「うっうぁ〜!」
薮中はとっさの出来事に何の抵抗もできないまま、水中へと引きずり込まれて消えてしまった。
「ごっ、ご主人様ー!」
ベルは、じたばたしながらも打開策を考えようとはしたが、何も思い付かない。
「どっ、どうしよう」
ただオロオロするベルは意を決して川に飛び込んだ。
川の中は暗く何もない。底知れぬ空間だけが広がっている。闇の奥底から
「どうなっちゃうの〜うぁ〜!」
薮中がもがき苦しみながら発しているであろう、痛ましい声を聞き付けたベルは、
闇に引き込まれる引力の速さよりも速く突き進むかのように必死な思いで、耳とベロを振り乱しながら
「ご主人様ー!」
と何度も叫びつつ、犬かきをして薮中の後を追った。
薮中とベルは行く先の分らない闇の世界で、ただ運命にもてあそばれるように
暗闇に吸い込まれて消えて行ったのであった。
深夜、薮中の勤める捜査課の藤堂課長から薮中の悲報を受けた明香里と開が、
曙警察署から迎えにきたパトカーに乗り込み、曙警察署の正面出入口に到着した時のことだ。
正面出入口では、二人の到着を待っていた藤堂課長がパトカーに走りよって、パトカーの後部ドアを開けた。
「誠に申し訳ございませんでした」
藤堂課長は深々と頭を下げた。
明香里の耳にその言葉は届いてはいたのだが、会釈をするのが精一杯で返せる言葉はなかった。
三人が署内に入ると、薮中刑事死亡の悲報を聞き付けていた夜勤の地域課や交通課の制服警察官たちが、
明香里と開に起立したまま無言で頭を下げた。
明香里はその光景を見て、否定したいと願っていた思いが現実として迫ってきたことを実感していた。
刻一刻と近づいてくる現実の重みに心が押し潰されそうになりながらも、
悲しみをこらえて気丈に振る舞おうと歯を食いしばり、長い廊下を歩いていた。
うつむきながら歩く明香里に、開がすがる思いで訪ねた。
「ねぇーお父さんが死んだなんて嘘だよね?ねぇーお父さんは何処に居るの?」
明香里はその言葉に耐えきれなくなり、涙ぐんでよろけてしまった。藤堂課長はとっさに手を差し伸べた。
「奥さん、気をしっかり持ってください」
「……はい」
明香里は早く夫に会いたいという思いとは裏腹に、目の前に近づいてくる現実を
確認しなければいけないことを考えると、足取りが重くなった。
今はただ静かな廊下に時を刻むように三人の足音が響き渡っていた。
廊下の突き当たりに遺体安置室と書かれた扉が見える。
その奥では薮中が天井をすり抜けて音もなく落ちてきた。
「クソー、また落っこちたのか!」
薮中は辺りを見てすぐにこの場所の察しが付いた。
「んっ、ここは……」
薮中の目の前には、キャスターの付いた寝台の上に、白い布で覆われてはいるが
背格好も着ている服装もまさに自分と同じ容姿の遺体がある。
薮中は顔にかけられた白い布を捲ろうと布の端を摘まもうと試みるが、摘まむことすらできないでいた。
廊下を歩く明香里たちの足音がドアの向こうで止まった。
ドアが開き藤堂課長に続いて明香里と開が入ってきた。
薮中は明香里たちをただ呆然と立ち尽くして見つめた。
明香里は戸惑いながらも夫の顔にかけられた白い布をそっと捲った。
「嘘よ…あなた…どうして!……」
明香里は崩れ落ちるように、ただ眠っているかのように目を閉じている夫の遺体にすがった。
「お母さん、お父さんは寝てるだけだよね、そうだよね」
「これは夢よね。夢だと言ってあなた」
明香里はその場にへたり込み泣き崩れてしまった。
一人息子の開は亡き父の顔を見つめて拳を握りしめていた。
「嘘だ!お父さんが死ぬはずがない。約束したんだ…
僕が警官になるのを見るまで絶対死なないって、約束したんだっ!」
薮中は開との約束が果たせなくなったことを心の底から悔やんでいた。
「そうだったよな…ごめん、開……」
藤堂課長は震えながら拳を握りしめる開の肩に優しく手を添えた。
「開くん」
開は振り向くと目を真っ赤に腫らし大粒の涙を流しながら、
藤堂課長の上着を両手でつかみ、激しく揺さぶった。
「何でだよ!何で毎日平和のために働いているお父さんがこんな目にあうんだよ!
おかしいじゃないか!おかしいじゃないかぁ……」
開は大声で泣き続けた。
藤堂課長はなぐさめの言葉すら思いつかず、ただ開を強く抱きとめてやる以外できなかった。
薮中は自分が死んだことより、明香里と開の悲しむ姿を見ていることの方がとても辛かった。
「私はここに居るんだけど……」
薮中は届くはずのない思いをつぶやくと壁をすり抜けて、行く宛てもないままその場を去って行った。