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さまよい刑事  作者: 永橋 渉
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第5話 他界


 毎日の通勤で使っている電車の車内には、疲れきった顔つきが多いいつもの光景だった。

薮中が(すわ)る席の前に、()っている中年男性が()(かわ)に掴まりながら

電車の揺れに合わせて左右に回転している。

それはあたかも風向きによって向く方向が変わる風見鶏(かざみどり)のようでもあった。

しかも中年男性の向きを変えようとする風向きが色々あるらしく、どこか物悲しく(せつ)ない姿にも見えた。

中年男性が切なそうに愚痴(ぐち)を語りはじめた。

「部長が何だぁ〜部下が何だぁ〜。俺は課長様だぞ。板挟(いたばさ)みじゃねぇーか。

くそ〜会社で()まれていまーちゅ!」

「中途半端な立場は(つら)いな……」

薮中は愚痴る中年男性を気づかうようにつぶやいてしまった。

そして(さら)に二分ほど電車に揺られながら物悲しい風見鶏男を眺めていると、

薮中の下車する夕日ケ丘(ゆうひがおか)駅へと到着した。乗客たちがぱらぱらと改札口から出てくる、その中に薮中もいた。

「はぁ〜改札を出ると帰ってきたなぁーって感じがするが、まだまだなんだよなぁ〜」

駅の改札口を出てからも、まだ家路(いえじ)が長いのにも関わらず地元に帰った安堵感(あんどかん)から

気分だけは自宅の玄関前だった。


 夕日ケ丘駅前にある閑散(かんさん)とした商店街のアーケードを薮中は歩いている。

辺りの店はいつもと同じように営業を終えてシャッターを閉じている。

前方にどら屋の重厚(じゅうこう)な木製の看板が見える。

ここは薮中が事件を解決した週末に必ず自分へのご褒美として買うことを(さだ)め、

ひいきにしている甘味所(かんみどころ)なのである。

薮中の心を掴んで離さないこの店のどら焼きは、国産小麦を丁寧(ていねい)に加工し、しっとりとしてはいるが、

ふんわりとした食感をも()(そな)えた繊細(せんさい)な生地に、上品な甘さの舌心地(したごこち)のいい粒あんを

たっぷりと(はさ)()んでいるのが評判で、甘味を愛する者たちにとって、

夕日ケ丘における甘味の聖地として(たた)えられる程の人気店である。

夜も遅いせいか、いつものようにどら屋のシャッターが閉まっている。

だが、薮中はいつもは貼られていない貼り紙に気づき、店の前で足を止めた。

貼り紙には「長い間ご愛顧(あいこ)(いただ)き、(まこと)にありがとうございました。どら屋店主」と書いてある。

何故(なぜ)人気(にんき)もあり繁盛(はんじょう)していたはずの店なのに、どうして。

薮中は考えた、株の信用取り引きに手を出してしくじったのか、

何かの理由で仕事に対する気力を無くしてしまったのか、いや、理由などどうでもいい。

薮中はただがく(ぜん)とした。そそり立つ岸壁(がんぺき)から、突然、突き落とされるような驚きと衝撃を受けたのと同時に、

失意(しつい)のどん底に突き落とされてしまったのだ。

「どら屋が閉店なんてぇ〜。はぁ〜、ここのどら焼きはもう食えんのかぁ……

新たな甘味処を開拓(かいたく)しなくてはな」

突然の別れに憔悴(しょうすい)しきってしまった薮中は、足を引きずるように去って行った。


 唐突(とうとつ)な愛する甘味との別れが日々の仕事疲れを助長(じょちょう)させたのか、いつもは十分程度でたどり着く場所に

二十分もかかってしまった。

目の前に小高い山を切開(きりひら)き開拓して作られた新興住宅街しんこうじゅうたくがいへ続く(ゆる)やかな坂道が見えてきた。

坂道の手前には車道をまたぐような形でアーチ型の大きな看板がある。

看板には「Welcome to sky residence」(ようこそ天空住宅(てんくうじゅうたく)へ)と表示されている。

薮中は看板の(わき)にある歩道を歩きながらアーチの脇を通過しようとしていた。

緩やかな坂道を車高(しゃこう)の高い四輪駆動車(よんりんくどうしゃ)が登りはじめた。古いディーゼル車なのであろうか、

その車のマフラーからは、明らかに人体に害を(おびや)かすであろうと容易に予測できる、

激しく勢いづく不快な黒煙をモクモクと吐き出しながら、進んでいる。

辺りに拡散(かくさん)した煙に薮中はむせ返り、()()んでしまった。

エンジン音を静かな(あた)りにうならせ、坂を上り去って行こうとする四輪駆動車に怒りが込み上げた薮中は、

後日、交通課の警官を引き連れて、去り行くあいつを締めに行くことを固く決意した。

不快な気持ちを抱きながら少し歩くと、脇に山肌の形状にそって作られた急な階段が見えてきた。

薮中は立ち止まり、その階段を見上げた。

目の前から頂上の住宅地まで続くこの階段は、急傾斜(きゅうけいしゃ)の階段であるばかりか、337段と長く、

日々の疲れを背負ったビジネス戦士たちにとっては辛い道のりとなる。

だが悪いことばかりではない。

この階段は緩やかな坂道を上って行くより、薮中の自宅まで距離にして三分の一ほど短くなり、

住む場所によっては住民たちの大切な近道として、若干の魅力を感じさせる道のりでもある。

薮中はいつものように、緩やかな歩道と急な階段を眺めて悩んでいた。

それは緩やかな坂で時間をかけるか、それとも急な階段で近道をして時間を短縮するかという

日々()せられた決断の時が来てしまったからだ。

今日はどら屋との唐突な別れがあったものの、空き巣犯を事件発生日に検挙(けんきょ)するというスムーズで

段取りよく事が運んだのを思い出して気を良くしたのか、少し体を(きた)える意味も込めて、

一週間ぶりに階段を登ることを決意し、ゆっくりと階段を上りはじめた。

流石(さすが)に日々悪党と戦う激務に耐える刑事らしく、足取りも軽く息の乱れも無かった。

だが、100段を()えた辺りから息づかいが少しづつではあったが荒くなり、

登っているうちに元気な顔つきが、疲れた顔つきに変わっていき、ぼやきはじめた。

「はっ、はっ、はっ、長いよなぁ〜この階段は。出世は望めないから、せめて家だけはと

小高い場所に建てたが、唯一の近道がこれじゃあなぁ〜。家は平地に建てた方がいいなぁ〜」

薮中は残された力を振り絞るようにして最後の30段を登りきった。

「はぁ〜。ここからまた歩くのかぁ〜」

まだ家にたどり着くためには、ここから700メートル程歩かなくてはという現実を

ただただ否定したい気持ちでいっぱいだった。

薮中は人気のない住宅地の通りを気力を振り絞り一人で歩いている。

辺りに見える家々からは一家団らんの暖かい笑い声が聞こえてきた。薮中は思わずつぶやいた。

「近道に近い場所を買えばよかったなぁ……」

ん〜確かにそれは一利ある。


 突然、明かりの(とも)っていない家の庭から、金属製のバケツらしき物が転がるような音がした。

薮中の()ぎすまされた刑事のカンが、その音に犯罪のニオイを感じ取った。

音の発生源であろう、明かりの灯っていない家の前に走り寄ると、道路から家の様子を(うかが)おうとした。

だが、敷地を囲む垣根(かきね)邪魔(じゃま)で、敷地内の様子が容易に確認できない。

わずかに開いている植物の隙間(すきま)から、庭側に面した一階の窓が開け放たれていることを確認した。

まだ犯人が敷地内に居ることを薮中は直感で感じ取っていた。

 誰かが自分の存在に気づき近づいて来ることに気づいた空き巣犯は、垣根の手前でじっと身を(ひそ)めて、

薮中の様子を窺っている。薮中は音を()てないようにゆっくりと門を開けて敷地内に入ると、

上着のポケットから手のひらサイズの小さなLEDの懐中電灯を取り出して庭を()らした。

LEDの明かりが垣根沿いを移動しながら照らしている。

すると垣根の手前に160センチくらいのもみの木が()わっていた。

薮中は一瞬、その木が人に見えて驚き、安堵した瞬間、目を()らしてそのもみの木の脇を見ると、

空巣を働き、逃げ損なって気配を消そうと小さくうずくまる空き巣犯の空巣(あきす)が居ることに気づいた。

薮中はドスの効いた声で叫んだ。

「警察だ!お前は誰だ!」

「やべっ!」

空巣は急に起き上がると垣根を突き破り逃げ出した。

「コラッ!待て!泥棒ー!」

薮中が発した大声に辺りの住民が気づいた。

近所の主婦が家の窓から顔を出した。

「どっ、泥棒?何処(どこ)、何処?」

この時、(すで)に空巣も薮中も走り去った後だった。

薮中は既に疲れ切っているはずの体ではあったが、刑事の闘志(とうし)に火が付いたのか、

陸上競技の選手が記録を追い求めるような無駄のない華麗(かれい)なフォームで走り続けて空巣を追って行った。

二人の間は急速に(せば)まり、薮中の通勤における近道とされる長い階段の手前で追い付いた。

追い詰められた空巣は立ち止まり振り向こうとした。その時だ。

「逃がさんぞ!」

薮中は両手を広げて空巣に飛び掛かった。

薮中は空巣の襟首(えりくび)を掴み

「大人しくせんか!」

と声を荒げると、空巣は渾身(こんしん)の力を振り絞って抵抗をした。

いつもの薮中なら先制攻撃で犯人にかなりのダメージを与えて犯人をもて遊ぶかのように

()らしめる制裁(せいさい)をはじめるころ合いなのだが、今日は日々の疲れが(わざわ)いしたのか、

思うように犯人を制圧できないでいた。

もみ合っている最中に薮中の着ているシャツのボタンが取れてシャツがはだけた。

その拍子(ひょうし)に、急な階段の前でよろめいた薮中は必死の形相(ぎょうそう)で体勢を立て直そうとした。

その(すき)をつくかのように、空巣は薮中の胸元を両手で突き飛ばした。

「うっ、うぁー!」と叫ぶ薮中は、どこかの映画にあった階段落ちよりも(はる)かに長い階段を

ただただ激しく痛々しく、助けることなど恐くて誰にもできないような、

激しい体勢で転げながら階段を落ちて行った。

薮中の意識は次第(しだい)(とお)のき、ただ止まることも抵抗することもできない人形のように

何の抵抗もできないまま落ちて行った。

階段の下まで落ちて行くと加速のついたまま転がり、その通りの脇にあった縁石(えんせき)に後頭部を激しくぶつけた。

一瞬、体を大きく()(かえ)すと、すぐにぐったりとして身動き一つしなくなった。


 時を同じくして薮中の家では、激務を終えて帰宅をしてくる夫の帰りを待つ、薮中の妻、

明香里が台所で母と息子と夕食で使った食器を洗っていた。

すると一瞬、脳裏に「うぁー」という薮中の叫ぶような声が聞こえた。

驚いた明香里は手を(すべ)らせて食器を落として割ってしまった。

「あっ!やっちゃった」

一人息子の開が、台所で叫ぶ母の声を聞き付けて居間から心配する声を投げかけた。

「大丈夫〜」

「んっん〜」

明香里は床にこれでもかと散乱した食器の破片を眺めて顔をしかめた。

「この食器割れにくいんじゃなかったっけ」


 明香里や開がいつもとさほど変わらない時を過ごしている頃、

家路に向かう道のりの途中で身動き一つしない薮中の体から、(うっす)ら辺りを()かして見える半透明の薮中が、

後頭部を手の平で(さす)りながらゆっくりと立ち上がった。

「痛ってーなぁ〜んっ?いったいどうなっているんだ?」

薮中は自分が幽体離脱していることを理解できないでいた。

幽体離脱した薮中など見えるはずもない空巣は、階段をかけ降りてくると、

恐る恐る薮中に歩み寄り声をかけた。

「おい、刑事さん、大丈夫か?」

薮中に何の反応もなかった。それどころか(みゃく)はおろか、息すらしない遺体となっていたのだ。

だが、そのようなことに気づいてもいない薮中は、

「大丈夫なわけないだろーが、早く救急車を呼べ」

と言ってはいたが、この世に届く声ではなかった。

何を思ったのか空巣は辺りを見回して人が居ないことを確認すると、

薮中の着ている服のポケットを(あさ)りはじめて財布を抜き取り、

紙幣(しへい)が入っていることを確認すると薮中を見捨てて逃げて行ったので、薮中は激怒した。

「こらー!まだ罪を重ねる気か!私の小遣い一万八千円を返せ!

……おい自分、しっかりしろっ、犯人を追えっ!」

薮中は自分に起きた出来事を今一つ理解できないでいた。

「ダメだ。思うように自分が動かない、困ったなぁ〜。

……あぁー?こっ、これは!幽体離脱ってことか?…ひょっとして…飛べるのか?」

薮中は腕を上下に動かして鳥のように羽ばたくと宙に浮いてしまった。

「ワァーオ、こりゃ面白い」


 年の頃は二十代前半でほろ酔い加減の若い女性が、鼻歌を歌いながらハンドバックを振り回しつつ

独りで歩いて来た。そして目の前で頭から血を流して倒れている藪中がいることに気づいた。

「んっ?……ギャー!」

空間を唐突に引裂くような絶叫が辺りにとどろいた。

薮中は倒れて動かない自分を何とかしなくてはいけないと悟った。

「遊んでる場合じゃないぞ、戻らなくては」

薮中は体に戻ろうと、自らの体を倒れて身動きすらしない自分に何度も重ね合わそうと、

いろいろな体勢を(こころ)みるが戻れない。

とうとう意識を持って離脱した体が空へ向かってゆっくりと(のぼ)って行きはじめた。

「うぁうぁうぁ、どっどうなるんだぁ〜」

薮中の体は、持ち主の居なくなったヘリウムガス入りのゴム風船のように、

ゆらゆらと(ただよ)いながらゆっくりと天に向かって昇って行った。



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