第19話 事件発生
曙埠頭では、薮中はいつもの係船柱に座ったまま、月明かりに照らされ輝く細波を眺め、
ベルは薮中の隣でうずくまりながら深い眠りについた。
午前七時半頃だろうか、港湾職員たちが仕事をはじめるために集まってくると、
ベルは港湾職員たちの足音で目覚めた。
「はぁ〜あ、よく寝た」
ベルは大口を開けてあくびをすると、となりにいる薮中の顔を見上げた。
「あれ、ご主人様は寝ていないのですか?」
「あぁ……」
薮中はベルが起きるのを待っていたかのように立ち上がった。
「行くぞ」
「ご主人様、何処に行くんですか?」
「朝のパトロールだ」
薮中とベルは曙埠頭を離れて、市街地や夕日ケ丘駅前をさまよいながら
辺りに不審人物などがいないかパトロールをした。
そして、いつしか街道沿いの歩道を歩き、明香里が働いているスーパーグレートチープの前に来てしまった。
まだ店は開店十五分前ではあったが、出入口の前には特売品という獲物を狙う
主婦の皮を被った狩人たちが出撃を待つ列を作っていた。
薮中は開店準備中の店内に出入口のドアをすり抜けて入って行った。
ベルは店内に入れないことを理解しているらしく、出入口の脇でおすわりをすると大きなあくびをした。
薮中が店内に入って通路を歩いていると、明香里が陳列棚に商品を並べていた。
薮中は身を潜めながら通路の端から明香里を見つめた。
明香里の表情に、悲壮感や疲労感は感じられず、むしろ前向きに強く生きるたくましさが
満ちあふれているようにも見えた。
薮中がぽつりとつぶやいた。
「元気でやっているようだな」
薮中は安心した様子で店を出て行った。
スーパーグレートチープの店長である老舗(しにせ)が薮中と入れ替わるように現れると明香里に歩み寄って行った。
「薮中さん、ちょっと」
「はい?」
「今日、ラストまでのバイトが急に休んじゃって、替わりをやってもらえないですか」
「えっ、はい。分りました」
「申し訳ありませんがよろしくお願いします」
そう言って老舗は去って行った。
その後、明香里は午前中、ずっとレジ打ちをこなし、昼休みには事務所で同僚と
日々のおもしろい出来事を持ち寄り、女子高生がたむろして話しているかのようなしゃべり方で、
楽しそうに昼食の憩いを楽しみ、午後もレジ打ちや商品補充などをこなして働き続けた。
薮中とベルはこの日、明香里の様子を見た後、曙警察署の捜査課に出勤し、
刑事たちが沈黙しながらコンピュータに向かい報告書を打ち続ける音に囲まれながら、
自分のデスクで、自分の遺影を見つめて静かな一日を過ごした。
そして午後七時を迎えた時、自分の遺影を静かに倒して、ベルと共に壁をすり抜けて去って行った。
そしていつもの曙埠頭に帰って来ると、いつもの係船柱に座ってうつむきながら考え込んでしまった。
ベルは薮中の隣におすわりをして海を眺めながら、時折、薮中の様子を窺うように
仰ぎ見ることを繰り返したが時が止まったように動かない薮中を案じて声を掛けてみた。
「ご主人様、大丈夫ですか?」
薮中は大きなため息をついてぼやいた。
「自分の存在がもどかしいんだよ」
「ご主人様はベストを尽くされていると思います。悲観的に考えてはいけませんよ」
「そうだな、そうなんだけどな。……何だかじっとしていると気が滅入る。夜のパトロールにでも行くか」
「はい、ご主人様」
薮中とベルは休息もそこそこに曙埠頭を離れて夜のパトロールに出かけて行った。
その頃、スーパーグレートチープの事務所では、店長の老舗が今日の売り上げの計算をはじめると、
閉店後の片づけを終えた明香里が事務所に現れた。
「店長、店内の片付けが終わりました」
「今日は突然ラストまでお願いして本当にすみませんでした」
「いいえ、とんでもありません。店長、残業代、弾んでくださいね」
「まいったなぁ薮中さんは抜け目がないですねぇー。ちゃんと気持ちは付けときますから安心してください。
お疲れ様です。今日はもうあがってください」
「お疲れ様でした」
明香里はさらりと残業代の要求を伝えると事務所を出て家路に向かった。
午後十時を回った頃だろうか、薮中とベルが夕日ケ岡駅前商店街のアーケードを
ぶらぶらと歩きながら不審者が居ないかパトロールをしている。
辺りの店は総てのシャッターが閉じられ、昼間のにぎわいが嘘のように閑散としていた。
薮中は暗く閑散とした場所を女性が独りで歩く気持ちを想像してベルに語った。
「人通りの少ない夜道を、女性が独りで歩くのは緊張するんだろうなぁ」
「最近は訳の分からないお方が多いですからね」
「そうだな。そういう奴らは唐突にやってくるから、か弱い女性じゃ逃げようがないしな」
「大声で叫ぶとか、噛みついて逃げるとかしたら、どうなんですか」
「人間が突然恐怖に襲われたら、大声はおろか声すら出せないもんなんだぞ。
それに変な奴のこと噛むのはばっちいだろ」
「なるほど」
「でも何か対処法を考えてあげないと」
「確かに」
「どんなにマッチョな男に襲われても逃げる隙を作れる対処法はないんですか?」
「ん〜襲われる状況が同じじゃないから一概には言えないが、急所を蹴るか殴るかすれば、
逃げる隙くらい作れるかな」
「急所とは?」
「おちんちんだよ、おちんちん。あそこはベンチプレスやランニングマシーンじゃあ鍛えられんだろ」
「確かに。でも、やはり私たちで悪い奴らをあぶり倒して、
懲らしめないといけないのではないでしょうか?」
「そうだな。…おっ?」
薮中は前方を歩く女性が明香里らしき人であることに気づいて独り言を言った。
「おっ、あれはひょっとして、明香里じゃないのか?」
ベルが薮中を仰ぎ見た。
「どうしたんですか?」
「あれだよ、あれ」
と薮中は前方を歩く女性を指差した。
「あれですか?」
と言いながらベルは目を細めて前方を見た。
「よし、確認するぞ」
「はい」
薮中とベルは、明香里らしき人に走り寄って顔を覗き見た。
「あぁ、やっぱり明香里じゃないか、こんな夜遅くに、いったい何をしているんだ」
「残業じゃないでしょうか」
「スーパーのバイトで残業か?」
明香里が歩きながら携帯電話をかけはじめた。
「あっもしもし開、お母さんだけど」
受話器からは開の声が聞こえてきた。
「どうしたの、今残業帰りなの?」
「そう。今商店街のアーケードを歩いているから、あと二十分くらいで帰れると思うから」
「了解。お風呂沸かしとくね」
「ありがとう」
明香里はそう言って電話を切った。
ベルが薮中を仰ぎ見てこう言った。
「ご主人様、これからどうします?」
薮中は迷うことなくこう言った。
「愛する妻を守るのは夫の役目だろ」
薮中とベルは明香里の後ろに連なって歩いた。
商店街を抜けてしばらく歩くと地下道がある。
昼間は車の往来や人の行き来もあるのだが、夜十時も過ぎると辺りに人陰は無く、
薄暗い電灯も手伝って不気味な地下道を演出していた。
ここを夜に通る女性たちの多くは、人気が無いと辺りを特に気にしながら歩く定番スポットでもあった。
明香里が小さな声でつぶやいた。
「ここ、夜通るの恐いな」
明香里の囁く声が聞こえた薮中は、明香里に聞こえるはずのない声で囁いた。
「私がついてるよ、安心しろ」
前方から男が街灯に照らされたシルエット姿で浮びながら歩いてくる。
明香里は前方から歩いてくる男のシルエットに言いしれぬ恐怖を感じたのか、
肩から下げているハンドバックのひもを握りしめ、身構えながら冷静を装って歩き続けた。
男との距離が次第に狭まってくる。
明香里の鼓動が高鳴り、男とすれ違う、その瞬間、男は着ている黒いコートの前を両手で広げながら、
明香里の前に立ち塞がって唐突に威嚇してきた。
「うがぁ〜」
黒いコートの中はなんと、粗末なきのこをそそり立たせた全裸だった。
明香里は突然、前に立ち塞がる男がしてきた予想外の威嚇行為に驚き危機迫る猛烈な悲鳴を高々と上げた。
「キャー!」
「何!」
薮中は一瞬何が起こったのか分からなかった。
明香里が絶叫してその場に崩れるように倒れると、薮中は目の前で明香里に全裸を見せつけて
薄ら笑いを浮かべる男に気づき、怒りが頂点に達した。
我を忘れて男に殴り掛かったのだが、薮中の右ストレートは男の体をすり抜け、
勢い余った薮中は路上に倒れた。
この事件が発生している地下通路に通じるそう遠くない道を一日の捜査を終えた月影が、
家路に向かって歩いていた時に、明香里の危機迫る猛烈な悲鳴が聞こえていた。
「何?痴漢!」
月影は危機迫る猛烈な悲鳴の聞こえてきた地下道を目指して走って行った。
地下道の中央付近では明香里が路上に倒れている。
男は裸体を隠し微笑んだ。
その時、危機迫る猛烈な悲鳴を聞き付けて駆け付けようとする足音があることに男は気づいた。
だが男は、余裕の笑みを浮かべながら、黒いコートの裾をたなびかせて走り去って行った。
薮中は悔しかった。
柔道五段である自分がどうあがいても、犯人の男にパンチの一つも与えられず、
愛する妻を守ることすら出来なかったことに苛立ち、
我を忘れて屈み込み必死になって明香里に声を掛け続けた。
「明香里、おい、しっかりしろ!おい、明香里、明香里、聞こえるか、明香里!」
明香里のことを案じて我を忘れ、必死になって明香里に聞こえない叫びを続ける薮中に、
ベルがムキになって吠えた。
「ご主人様!犯人が逃げてしまいます!」
薮中は明香里から視線をそらすこともなく叫んだ。
「明香里を放っておけるか!」
ベルは議論の余地は無いと思い去り行く男を追って走り去って行った。
月影が倒れている明香里に向かって走ってくる。
薮中は尚も明香里に声を掛け続けた。
「おい、頼む、しっかりしてくれ!」
その時、明香里が微かに目を開けた。
そこには自分の身を案じて必死になって声を駆け続ける薮中の姿が微かに見えていた。
「あなた、あなたなの……」
薮中はわずかな時間であったが思いを伝えた。
「明香里、犯人は私が必ず捕まえるからな」
薮中は明香里に駆け寄る月影を見て安心したのか、男が逃げた方向に走り去って行った。
月影は倒れている明香里に駆け寄り顔を確認して驚いた。
「大丈夫ですか!警察です。あっ!薮中さんの奥さんじゃないですか!
大丈夫ですか、お怪我はないですか!」
月影は明香里のバイタルサイン|(呼吸や脈拍など生きている状態を示す指標)を確認すると、
自分のバックから携帯電話を取り出して110番に電話を掛けた。
するとすぐに県警の通信指令室にある受付係に繋がった。
「はい、110番です。事故ですか、事件ですか」
「もしもし、西曙町一丁目の地下道から悲鳴が聞こえて、駆け付けたら女性が倒れていました。
救急車の手配もお願いします」
「あなたのお名前は?」
「曙警察署、捜査課の月影です」
「警ら隊をすぐに向かわせます」
「お願いします」
月影は電話を切ると少し安心したのか、小さなため息を一つついた。
薮中は人気のない住宅地の道を宛ても無く刑事のカンが導くまま、
捕り逃がした男の行方を追って走り続けた。
ベルもまた人気のない住宅地を走って男の行方を探していた。
路地の交差点で薮中とベルが偶然出会い、お互い息を切らせながら情報交換をした。
「どうだった」
「ご主人様、ダメです。見失ってしまいました」
二人の脇を警ら隊のパトカーが走り去って行った。
「まだ近くに居るはずだ。別れて探すぞ」
「はい」
二人は別々の方向に走り去って行った。
その頃、被害現場の地下道には、最寄りの交番から出動した制服警官がカブ一台で現れると、
倒れている明香里に寄り添う月影に事情を聞こうと走り寄った。
「捜査課の月影さんですね」
「はい」
「救急車の手配はできています。ここで倒れている女性が被害者ですか?」
「はい。あの〜、一人だけなんですか?」
「はい、そうですが?」
「女性が襲われたんですよ!」
「通報を受けて、すぐに警ら中のパトカーにも応援要請をしましたし、
見た限りでは被害女性にケガがないようなので何よりじゃないですか」
そのデリカシーのない制服警官の発言を聞いて鶏冠にきた月影がムキになって吠えた。
「そんなの結果論です!深刻な被害者が出る前に早く捕まえないと」
「もちろんそうです。ですから警ら隊員たちが辺り一帯を現在捜索中です」
「でも」
「後は我々警ら隊で処理しますから」
「そうですか…じゃあ、おっお願いします」
月影は納得できない様子ではあったが、明香里の側に居てあげることしか出来ない
自分にも苛立ちを募らせていた。