第16話 それぞれの想い
曙警察署の捜査課に勤務し、管轄内の周辺住民たちからは、見た目はよくないが
街の治安を守ってくれると信頼され、逮捕した犯罪者たちからは、正義の皮を被った悪魔と恐れおののかれ、
巡査部長という階級の刑事として治安維持に日々貢献し、
無念の殉職を迎えて二階級特進の警部となってしまった薮中 守と、
薮中をご主人様と慕い、無念の事故死から薮中を見守り続け二十五年、
薮中の死で久々の再会ができたと胸踊るベルとで、
この世とあの世をさまよい歩く刑事としての捜査は既にはじまっているのだが、
世の中では、小説になるような目立つ事件などそう頻繁に起こってばかりいるものではなく、
この後しばらくの間、平和で淡々とした日々が過ぎて行った。
曙警察署・捜査課が誇る最高の刑事と自画自賛していた薮中 守|(享年四十歳)が
空き巣犯との格闘中に、337段の見事な階段落ちの末、縁石で後頭部を強打し、
無念にも他界してから四十九日が経った日、
薮中の自宅にある一階の六畳間では、僧侶の読経が響いていた。
その後ろでは薮中の妻、明香里|(三十五歳)と開|(十一歳)が
神妙な面持ちで正座をしながら足のしびれと戦い、更にその後ろでは、
あの世とこの世の中間で自らの姿をチラ見させながら、
悪と戦い続ける薮中が自らの四十九日を追悼すべく複雑な心境で正座していた。
薮中をご主人様として慕い続け、日頃から陰日向で薮中を手助けしているベルが、
薮中のとなりで礼儀正しくおすわりをしながら、
僧侶の読経による睡魔の誘いに目を閉じながら体を前後左右に揺らめかせていた。
僧侶の前にある床の間には、小さな仏壇に位牌が安置され、その前に小さな棚があり、
薮中の遺骨や鈴、線香などが並べられていた。
壁の上には短橋写真館で、ダンディーな刑事をイメージして撮ってもらった
四つ切りサイズの写真を額装した、薮中お気に入りの写真が遺影として飾られている。
ベルを眠りの世界へとやさしく牽引していた僧侶の読経が終りを迎えて、僧侶が鈴を鳴らした。
鈴の荘厳な音色に何を勘違いしたのか居眠り中のベルが
「おはようございます」
と寝ぼけ眼で囁くと、僧侶がタイミングよく振り向いて会釈した。
「お疲れ様でした。それでは次がございますので、失礼いたします」
「ありがとうございました」
明香里はお勤めを終えた僧侶を玄関まで導いて行った。
僧侶は履物を履いて玄関のドアをそっと開けながら振り向いた。
「では、失礼いたします」
「ご苦労様でした」
六畳間では開と薮中が自分の遺影を見つめいる。
明香里が僧侶を見送った後、六畳間に入ってくると開に話しかけた。
「お父さんの四十九日の法要、終っちゃったね」
「ねぇ、お父さんの遺骨、どうするの?」
薮中は仁王立ちで腕を組み、二人に聞こえるはずのない声で意見を述べた。
「私は絶対、墓には入らんからな」
明香里は夫である薮中の性格を理解しているようであった。
「お父さん、狭い所が嫌いだから、お墓に入れるのは可哀想だよね」
薮中は明香里の意見にしきりにうなずいた。
「あっ、そういえば、開が生まれる前、刑事になりたての頃だったかな」
明香里は十二年前、薮中が二十九歳、明香里は二十四歳の頃の思い出を語りはじめた――
それは、二人でドライブデートをしていた帰りに、車窓から見えた海辺の夕日があまりにも綺麗で、
道路沿いにあったコインパーキングに車を止めて、浜辺に降り立ち夕日を見ていた時のことだ。
波打ち際に寄せては返す波は穏やかであったが、時折吹き付ける風が肌寒く感じさせたのか、
明香里が少し身をすくめた。
薮中はとっさに着ていた上着をぬぐと、無言のまま明香里の背中にそっとかけた。
「…ありがとう……」
明香里は薮中のいつも変わらぬ思いやりに包まれていることを実感していた。
薮中が夕日を見つめながら神妙な面持ちで急に自らの思いを語りはじめた。
「…私は念願の刑事になれた。これからもっと危険な任務につくこともあるだろう。
もしも、もしもだ。私が死ぬことがあったら、
遺骨は粉にして綺麗な海か明香里の故郷の海にでもまいてくれ。頼むな」
その言葉を聞いて明香里は急に力なくうつむき、目に涙を浮かべてしまった。
薮中はその場の気まずい空気を何とか変えようと微笑みながらこう付け加えた。
「もしもの時だよ、もしもの時。私は狭い所が嫌いだから、狭い所に閉じ込められたくないんだよ。
生きてる時じゃないと言えないだろう?ただそれだけなんだよ」
明香里は薮中を見つめて微笑んだ。
そして二人はしばらくの間、手を繋ぎ夕日を浴びながら歩いた。
明香里は十二年前の出来事を開に語り終えると薮中の遺影を見つめた。
「お母さん…どうするの?」
「ん〜お母さんが、お婆ちゃんになって死んじゃったら、お父さんと一緒に
田舎の海にまいてもらおうかなぁ」
開が急にうつむいて落ち込んでしまった。
「どうしたの、開?」
「……長生き、してよね」
明香里は微笑みながら開を抱き締めた。
「長生きするよ、お父さんの分までね。後、五十年くらいは長生きしなきゃね」
「その頃はしわしわのお婆ちゃんだね」
「しわしわは、よけいだぞ」
明香里と開は、微笑みながら薮中の遺影を見つめた。
薮中は自分の遺影を見つめる二人の後ろ姿を見つめながら、不満そうにつぶやいた。
「常々二人に注意しようと思っていたんだが、このような場合、私はたいがい後ろにいるんだよ」
「ご主人様、お二人にご主人様は見えていないのですから」
「ん〜もどかしい立場だなぁ」
「そのうち慣れますよ」
この日、薮中は珍しくいつもの曙埠頭に戻ることなく自宅の六畳間でベルと共に一夜を過ごした。
薮中が久々に我が家で一夜を明かした午前七時半頃だろうか、
清々しい晴天に気づいたベルが、薮中の肩を前足で揺さぶって起こすと、
外に出て朝日を浴びようと薮中を誘った。
ベルと薮中が玄関のドアをすり抜けて歩道まで出た時、
薮中は立ち止まり青い空を見上げて大きくのびをした。
「なぁベル、今日の天気は気持ちいいなぁー」
「そうですねー」
自転車に乗った人が薮中とベルの体をすり抜けて身震いしながら去って行った。
薮中は体を何かがすり抜けた感覚を感じた。
「今、ひき逃げされたか?」
「ひき逃げと言うより突き抜けじゃないですか?」
ベルは冷静な口調で薮中に答えた。
薮中邸の玄関ドアが唐突に開いて、靴の爪先を何度も路面に突き立てて靴を履こうとしている開が現れた。
「行ってきまーす」
そう言うと、ドアの向こうから明香里の声が聞こえた。
「行ってらっしゃい。車に気をつけてねー」
開は元気よく答えた。
「分かってるって。行ってきまーす」
開は玄関のドアを閉めると走って歩道に飛び出した。
だがすぐに後ろを振り向き明香里が見ていないのを確認すると、急にうつむいて力なく歩きはじめた。
薮中は急に態度を変えた開の去り行く後ろ姿を見つめ続けた。
ベルが開の去り行く後ろ姿を見つめながら薮中に話しかけた。
「開くん、ご主人様が亡くなられてから、独りになると元気ないですね」
「開の奴、母親に気を使っているんだな。
言うことを聞かないワルガキだと思っていたが、案外優しいんだなぁ」
「開くんは昔から見た目はともかく、中身は繊細で優しい子ですよ」
「知っているのか?」
「産まれた時から接してきましたから」
「ずっと側に居たのか?」
「ずっとではないですけど。……そう言えば」
ベルは十年前に薮中邸の庭で起きた出来事を話しはじめた。
「私が庭で遊ぶ開くんの側でおすわりをして、開くんを見ていた時のことです。
開くんが私の方を見ながら「ばぶーばーぶー、ワン、ワン、ワンワン」て言ったんです。
そして私がその場から動くと後を追うようにして付いてくるようになったんです。
それから私を見かけると、よくワンワンって、言ってましたよ」
「お前のことが見えていたのか?」
「一度や二度じゃないですから、多分見えていたのではないかと」
「そう言えば開の奴、赤ちゃんの頃、確かに訳の分からない方向を見て
ワンワン、ワンワンって、言ってた時があったなぁ〜。あの時お前が見えていたんだなぁ」
薮中は十年前、庭で開をあやしていた時のことを思い出していた。
開は確かに何もない方向に顔を向け「ワンワン…ワンワン」と興奮した様子でしゃべっていた。
それを見て「お前には何が見えているんだぁ?」と疑問を抱いていたことを思い出していた。
ベルは、腕を組んで過去を思い出している薮中に問いかけた。
「ご主人様、今の開くんには私のことが見えないみたいですけど、
人間は赤ちゃんだとみんな幽霊を見ることができるんですか?」
薮中は唐突で難しい問題に答えが出せず持論を唱えた。
「さぁ〜。でもな、子供は大人と違って物事を感覚的に捉えて判断するから、案外見えるのかもなぁ」
「そうですかぁ…ん〜」
ベルは釈然としなかったのか、眉間にしわを寄せてうつむいた。
薮中が歩道にしゃがみ込んで頬杖をついてベルの方を見た。
ベルは薮中の前におすわりをして耳を傾けた。
「ご主人様、どうしたんですか?」
「明香里が以前言っていたんだが、赤ちゃんはお乳の匂いで自分の母親が分かるらしいぞ」
「へぇ〜、犬並みに凄い鼻ですねぇ〜」
「私なんかオッパイ並べられても、多分わからんぞ。…そうだ!一つ聞きたかったんだが」
「何でしょう?」
「お前たち犬は、確か人間の一千万倍も鼻が敏感にできているんだよな」
「はい、そうですが?」
「じゃあ犬はうんちをした後、うんちに鼻を近づけて臭いを嗅ぐだろ、あれは物凄ーく、臭くないのか?」
「あぁ〜あの行為ですかぁ。ん〜臭いと思ったことはありませんよ」
「何だか釈然とせんなぁ〜」
「お役に立てなくてすみません」
「行くぞ」
「はい、ご主人様」
二人は立ち上がって玄関に歩み寄ると、玄関のドアをすり抜けて中に入って行った。
薮中とベルが居間に入ってくると、明香里が庭側の窓を開け放ち庭をぼーっと見つめていた。
すると洗面脱衣室の洗濯機から洗濯完了を告げる電子音が居間まで聞こえてきた。
「明香里、洗濯できたぞ。干さなくていいのか?」
薮中は軽い気持ちで聞こえるはずのない声を明香里に語りかけた。
「あなた……」
突然、明香里がその場で泣き崩れた。薮中は明香里のすすり泣く後ろ姿をただ呆然と見つめていると、
急に力なくうつむいてしまった。
「ご主人様のことを、心から愛していらっしゃったんですね」
ベルはそう言って右前足を薮中の足の甲にそっと添えて薮中を見上げた。
するとベルの顔に一滴の涙が落ちてきた。
「明香里、すまない。……ベル、行くぞ」
「はい」
薮中はうつむいたまま急いで居間を出て行くとベルもまた薮中を追って走り出した。
薮中とベルが走り去ると、居間の天井から吊されている
丸く乳白色で薄いカピス貝と沢山の小さな白い貝殻を組み合わせて作られた風鈴が、
部屋に吹き込む風も無いのになぜか揺れながら優しい音を発てた。
明香里は涙を手で拭いながら後ろを振り向くと、
そこには新婚旅行の時、薮中が明香里のために買ってくれた思い出のカビス貝の風鈴が、
部屋に差し込んでくる光を反射させてキラキラと輝きながらゆらめき、海を感じる爽やかな音色を奏でていた。