第13話 制裁 前編
火葬場からそう遠くない範囲のある真新しい舗装道路の脇にある歩道を薮中とベルが並んで歩いていると、
背中を極端に丸めた八十歳前後に見えるお婆さんが、車道をゆっくりと横断しはじめた。
そこへ勢いよく走るダンプカーが、速度を下げることなくお婆さんに近づいて行く。
ベルがダンプカーの運転手をなにげに見ると、運転手は無線のマイクを左手に持ち
お婆さんに気づく様子など無く、大笑いしながら何かしゃべっている様子だった。
「ご主人様!あのご老人が危ない!」
「んっ?あっいかん!」
薮中はベルより速く突然全力で走り出すと、お婆さんに体当たりする勢いで憑依した。
するとお婆さんの姿勢が、突然、まっすぐになり「急がねば!」との掛け声と共に幅跳びの競技選手のように
軽快な足取りで車道を走り抜け、ダンプカーと衝突するすんでのところで避けることができた。
薮中がお婆さんから幽体離脱すると、お婆さんは急に背中を極端に丸め、
何事も無かったかのようによたよたと歩きはじめた。
薮中は思わずお婆さんの目の前に回り込み説教を口にした。
「婆さん、車に轢かれるところだったぞ。無茶な横断はよしなさい」
お婆さんは立ち止まり「はいよ〜」と返事を返すと、再びよたよたと歩きはじめた。
ベルがしっぽを振って薮中に走り寄った。
「危なかったですねぇ〜」
「ん〜大事に至らなくて本当に良かった」
「しかし、ご主人様は、何げにあのご老人と会話をしておられましたが?」
「あぁ、そういえばそうだったような?」
二人は去り行く老人の後ろ姿を疑惑の眼差しで眺めた。
薮中とベルは、これといった目的を抱くこともなくぶらぶら歩き続け、曙町の繁華街まで来ていた。
薮中とベルが並んで歩いていると後方から、黒い詰め襟の学生服を着た男子高校生が、
煙草をくわえながら追い抜いて行った。薮中は未成年の喫煙を注意すべく大声で凄んだ。
「こら、そこの子ガキ!成長期に煙草を吸うと背が伸びんぞ」
本来、死者の声など届くはずのない男子高校生ではあるが、唐突に後ろを振り向き
「うっせーな!」
と毒づいた。
だが、後ろには誰も居ない。男子高校生は首を傾げて
「何言ってんだ俺」
と少し戸惑いながら歩き去って行った。
薮中はとても驚いていた。
「なっ、何だ?」
「ご主人様の声が聞こえたんですかね?」
「さぁー。でもびっくりしたぞ」
薮中は死者として持っている自分の能力に困惑して、うつむきながら腕を組んで考え込んだ。
ふと顔を起こし辺りに目をやると、タバコを吸いながら両手をズボンのポケットに差し入れ、
風を切って歩く男の存在に気づいた。なにげなく見つめた男の顔に薮中は驚いた。
「んっ?…あぁーっ!あいつこんな所に居やがったのか!」
「ご主人様、どうしましたか?」
「あそこで煙草をふかしている奴だ。あいつはな、空き巣犯で、私が奴を追いかけていた時に、
階段から突き落とされて死んだんだ。……くそー落とし前はきっちり着けさせてもらうぞ」
薮中とベルは、歩き去ろうとする空巣の後を気づかれぬように物陰に時折隠れながら追って行った。
「ご主人様、あの方は何処に行くんですか?」
「仕事に行くようには見えんなぁ〜」
繁華街をぶらぶらと宛てもなさそうに歩いていた空巣ではあったが、軍艦マーチが流れる
パチンコ屋の前で急に立ち止まると、不敵に笑みを浮かべパチンコ屋の中に入って行った。
「何だぁ、まっすぐ帰らんのかぁ」
「ご主人様、どうします?」
「私たちも店に入るぞ」
「はい」
薮中とベルは、パチンコ屋のドアをすり抜けて店に入った。
店内に入ると空巣はパチンコ台を物色しながら通路を歩いている。
薮中とベルは、通路の端から眼光鋭い眼差しで空巣の行動を眺めていた。
空巣が通路の中央付近の空いているパチンコ台を見つけると、その前に座って打ちはじめた。
「あそこでやる気だな」
薮中とベルは、空巣に歩みよると背後からパチンコを楽しむ空巣を見つめた。
ほどなく空巣の台に当たりがきた。
「うぉーいいねぇ〜今日はついてるぞ」
薮中はじゃらじゃらと大量に出てくるパチンコ玉にご立腹の様子だった。
「ん〜奴がついているなんて、絶対許せない。くそぉ〜」
薮中は警棒を右手で掴み、左手の平に警棒を打鳴らしながら、何か画策している様子であった。
「何をなさるんですかご主人様!」
薮中は警棒の先を見つめて目を閉じた。何かぶつぶつと微かな声で念じていた次の瞬間、目を見開き、
パチンコ台のぶっ込み部分に向けて警棒の先を突き立て、細かく高速で左右に振りながら
パチンコ玉の道筋を邪魔しはじめた。その行為によって、パチンコ玉はあたかも意思を持ったように
不可解な動きを示しながらアタッカーを避けて下って行った。空巣はこの不可解な玉筋にいらつきはじめた。
「何だぁ〜」
薮中は玉筋を操作する喜びを感じはじめていた。
「これはいいぞ」
薮中の努力したかいもあって当たりも程なく終わり、
本来ならドル箱いっぱいになっていなければいけない玉数になっていてもおかしくないはずだが、
片手で持てる程度しか残っていなかった。
「むかつく台だなぁ!」
空巣は今までやっていたパチンコ台に見切りをつけると、立ち上がり移動しはじめた。
薮中とベルは、空巣の後にぴったりとくっ付いて行った。
空巣が唐突に振り返り薮中とベルをすり抜けてパチンコ台の前に座り、パチンコを再び打ちはじめた。
「お前に当たりはないからな」
薮中はパチンコ台のぶっ込み部分に警棒を突き立て、常に微調整をしながら、
パチンコ玉がチューリップを避けて行くようにしむけ続けた。
そうとも知らず空巣は、次から次へとお金を継ぎ込み、パチンコをむきになって続けた。
薮中の不意をついてパチンコ玉一個がチューリップに入りそうになった。空巣は微笑みながら喜んだ。
「おっ、いいぞ」
薮中はパチンコ玉一個すらチューリップに入れさすことは許せなかった。
「逃すか!」
薮中から逃げようとするパチンコ玉一個は、薮中の鋭い警棒さばきで弾き飛ばされ、
すべてのチューリップを避けて行った。
「ふざけんなよ!」
「ふざけてはいない。私は真剣にやっているぞ」
「熱いご主人様、素敵です」
ベルは微笑み、しっぽを左右に振りながら薮中を見つめた。
薮中は尚もムキになってパチンコをする空巣の邪魔を続けている。
小一時間ほど空巣と薮中の格闘は続いたが、とうとう根負けした空巣は、
怒りながらパチンコ屋を出て行った。
「いったい何なんだよ!このパチンコ屋はよー」
薮中は空巣に聞こえるはずのない声で
「パチンコ屋が悪いのではない。お前の行いが悪いだけだ」
とツッコミを入れた。
空巣はいら立ちを抑えきれずに辺りにある立て看板や空き缶を蹴散らし、更に苛立ちを募らせながら、
風を切って歩いていた。そんな空巣の後ろ姿を観ていた薮中の心は、爽快感と共に晴れ晴れしていた。
「はぁ〜愉快愉快」
「ご主人様、いたずらは楽しいですね」
「いたずら?これはいたずらじゃないぞ。制裁だ。まあでもこれからもっと楽しくするぞ」
薮中とベルは、小走りで空巣を追って行った。
数十メートル歩いたところで居酒屋が見えてきた。
空巣はポケットから財布を取り出し中身を覗いて確認すると、店ののれんを潜り、引き戸を開けた。
店主の「いらっしゃいませ!」という威勢のいい声が店の外まで聞こえてきた。
「あいつ、昼間っから飲む気かぁ」
「ご主人様、どうしますか?」
「ちょっと中の様子を見てくる」
「ご主人様、私は」
「食べ物屋の中はまずいな、表で待っていてくれ」
薮中が店の引き戸をすり抜けて消えた。
ベルはせつなそうに引き戸の脇にうずくまり「クゥ…」と悲しげな声を上げた。
店の中には、まだ午後三時のわりにはそこそこの数の客が居た。
薮中は店内に入るとカウンター席に座っている空巣の真後ろに立った。
空巣は薮中が背後にいることなど気づくこともなく注文をした。
「生ビールとイカ焼き」
「はい、喜んで!」
薮中は空巣の背後から耳元に顔を近づけて嫌みたっぷりに囁いた。
「昼間っから、いい御身分だなぁ」
「何ぃ?だっ、誰だ!」
空巣は振り向いて辺りを見回した。だが後ろには誰もいなかった。
「お客さん、どうかしたんですか?」
「いゃ、別に、何でもない」
空巣は自分の思い過ごしに少し困惑しながら、気分を落ち着かせるために煙草に火を付けて
大きく吸い込んだ。薮中はそんな空巣の顔を覗き込んだ。
「おたく、霊感があるみたいだねぇ〜」
店主がジョッキに注がれた生ビールを空巣の前に置いた。
「生ビールお待ちどう様」
空巣はいらつく思いを洗い流すようにビールをがぶ飲みした。
薮中はビールをがぶ飲みする空巣を見て思った。
「ここでもめるのはまずいなぁ〜。ひとまず店の前で出て来るのを待つか」
そうつぶやくと、空巣の肩をポンと叩き、「早く済ませろよ」
と一言添えてその場から消えた。空巣は肩に何かが触れた感触に驚き振り向いた。
「何だよ。…あれっ……」
薮中とベルは、一時間ほど店の出入口が見渡せる対面の細い路地から様子を見守った。
「ご主人様、まだですかね」
「焦るな」
酔いきれない空巣が、店の引き戸を開けて出てきた。
待ち人が出てきた喜びから、おすわりしていたベルが、しっぽを振って立ち上がった。
「出て来ましたよ」
空巣は左右を見渡し、辺りを警戒するように歩きはじめた。
酔って気分を晴らしたかったが、度重なる不可解な現象に酔うこともできずにふてくされているようだった。
そんな空巣を背後から距離を置いて追う薮中の視界に、スナックの前で若いヤクザが
黒いアメ車に背を向けて立っているのが見えた。その瞬間ニヤつく薮中の目が輝いた。
「奴を使わん手はないな」
薮中は不敵な微笑みを浮かべてベルを見た。
「ご主人様はいけない事を考えていますねぇ」
ベルは薮中の微笑みにショータイムの予感を感じ、大きく左右にしっぽを振りながら不敵に微笑みを返した。
「行くぞ」
「ワン!」
薮中とベルは、小走りで空巣を追い抜くと、薮中は辺りを見回し、路上に落ちていたジュースの空き缶を、
警棒を使って器用に弾きながら空巣の前に転がした。
空巣は音を発てて目の前に転がってきたジュースの空き缶に目を奪われた。
そして空巣は空き缶を思いっきり蹴り込んだ。すると空き缶が空高く飛び上がってしまった。
薮中は想定外に高く蹴り上げた空巣を野次った。
「へたくそ!」
薮中は助走をつけると、人間離れした跳躍力で飛び上がり、警棒で空き缶を勢いよく弾いた。
弾かれた空き缶は空中で急に方向転換したかと思うと加速し、一直線で若いヤクザの後頭部に
大きな音を発てながら突き刺さる勢いで当たった。
「痛ー!」
と若いヤクザが大声を張り上げて振り向くと、後ろには何が起こったのか理解できずに
呆然としている空巣がいた。
「コォラーお前か!」
「いゃ、その、あの……」
空巣は逃げ出すこともできず、震えながら脅えていた。
「舐めんなよ、コラッ!」
若いヤクザが毒づいて、空巣の襟首を左手で掴み、右ストレートで顔面を殴った。
鈍い音がした後、空巣は転がるように路上に倒れた。
若いヤクザはまだ気持ちに収まりがつかないのか、路上に倒れている空巣の襟首を掴み上げて
殴る蹴るの暴行を加えた。反抗すれば三倍返しで返ってくるであろう制裁を避けることもできず、
空巣はサンドバックのよう殴られ、時に蹴られ、ぼろ布のようになりつつあった。
顔や腕に擦り傷が現れはじめ、殴られる度に路上に倒れる空巣の胸ぐらを若いヤクザは、
左手で絞り込むように掴み、右手の拳を大きく振り上げて、トドメの一発をくらわそうとした時、
二人の脇にあったスナックの扉が突然開き、店内から派手な格好の若い女性が出てきた。
「あら、拳(けん)ちゃんどうしたの?」
若いヤクザは振り上げた拳を急に下ろして、空巣の服に付いていた汚れを叩きはじめた。
「いゃその、この人が酔いつぶれたみたいで、介抱していたんだ。そうだよな!」
空巣は脅えながら口裏を合わせた。
「そっ、そうです」
「拳ちゃんって、優しいね」
派手な格好の若い女性が若いヤクザに微笑んだ。
空巣は今が逃げるチャンスであることを悟ったのか、若いヤクザに
「あっ、ありがとうございました」
と頭を下げ、よたつきながら走ってその場から逃げた。
派手な格好の若い女性が、若いヤクザの腕につかまりおねだりをした。
「ねぇ拳ちゃん、早くお出かけしよーよー」
若いヤクザは鼻の下を伸ばし、かわいい口調で答えた。
「そうしようねぇ〜」
薮中とベルは、命辛辛、若いヤクザから逃げることができた空巣の去り行く姿を、
不敵な笑みを浮かべながら見つめた。
「ご主人様、警官があんなことをしていいんですかねぇ〜」
「何か問題でも?」
薮中は社会通念上若干の問題があったとしても、薮中通念上の捜査手法に問題は無いことを主張した。
「いえ、別に。くふふふふ」
ベルは薮中の捜査手法にこの上無い喜びを感じて、しっぽを左右に大きく振りながら微笑んでいた。
飲み屋街の細い路地に逃げ込んだ空巣は、後ろを振り向き、追っ手がいないことを確認すると
力なく歩きはじめた。殴られて流血した顔の傷が痛いのか空巣は、顔の傷口を指先で確認するように触った。
「いってーなぁーもぉーまったくー何なんだよ、あの空き缶は……」
空巣のすぐ後ろには、憑依してしまいそうな距離感で薮中とベルが連なり、
ピッタリとマークしながら歩いていた。
三人が行進するかのように夕日ケ丘商店街のアーケードを歩いている以外、辺りには誰も居ない。
交差点の前にある店先に無人のトラックが置いてあった。
空巣はそのトラックに歩み寄り、バックミラーに顔を映して傷を確認した。
「畜生、目立つなぁ〜」
背後から自分を見つめる薮中がミラーに映っていることに気づいた空巣は、驚いて後ろを振り向いた。
だが辺りには誰も居ない。空巣は怯えながら走り出した。
「おや、私が見えたのかなぁ〜」
「いい感じですねぇ〜」
ベルはしっぽを振ってご機嫌だった。
「ご主人様、早くあの方を追わないと楽しい時間が過ごせませんよ」
「ベルよ、お前も悪よのぉ〜」
「ご主人様程ではございません」
二匹は見つめ合って不気味に笑うと、小走りで空巣の後を追って行った。
途中、よそ見をし過ぎて空巣を見失いかけたが、住宅街を横断する歩道の無い道路で、
空巣を補足した薮中とベルは、空巣に走り寄ってすぐ後ろを歩きはじめた。
辺りは静まり返り人影はない。
空巣は独りで街灯に照らされた道を歩いていた。目の前に車がやっと通れるくらいの路地があり、
その出口に反射鏡が設置されていた。空巣がふと反射鏡を見上げると、そこには自分だけでなく、
すぐ後ろを歩く薮中とベルまでもが映っていた。空巣は後ろを振り向いたが誰も居ない。
「嘘だろ!」
薮中とベルが空巣のすぐ目の前で、歩き姿のままフリーズしている姿を見ることはできなかった。
「ご主人様、また見えたんですかね?」
「そうみたいだなぁ〜、映りこむ姿が見えるのか。あいつやっぱり霊感があるのかな」
空巣が走って細い路地に逃げ込んだ。
「あっ行っちゃいますよ、ご主人様、早く追いましょう」
薮中とベルは、小走りで空巣を追って行った。
空巣は古い家屋が立ち並ぶ住宅密集地の路地を辺りの気配を気にしながら怯えるように歩き続けた。
気分を落ち着かせたいのか、ポケットから煙草を取り出すと、ライターで火を付けて大きく吸い込んだ。
だが先ほど若いヤクザの暴行を受けた時、煙草も犠牲になっていたようで、煙草の中央部が少し裂け、
火は付いたものの、うまく吸い込めない状態になっていた。
「いったい何なんだよ、畜生!」
空巣は火の付いている煙草を勢いよく後ろに投げ捨てた。煙草の吸い殻が放物線を描き宙を舞う。
「いかん!」
薮中は壁を蹴り込んでジャンプをすると、警棒を振りかざして煙草の吸い殻を叩き付けるように打った。
打たれた煙草の吸殻は、赤い炎を棚引かせ空巣の着ていたパーカーの帽子にゴールした。
薮中は地面に着地すると、指先で器用に警棒を回して身構えた。
「こんな家の密集地で火の手が上がったら大変だ。吸い殻は正しく灰皿に入れないとな」
「さすがです。ご主人様」
「当たり前の事をしたまでだ」
空巣の着ているパーカーの帽子が燻りはじめた。空巣は周囲に漂う焦げ臭いニオイを嗅ぎはじめた。
「焦げくせーなぁ……あっちぃ!」
火の手が自らの背後にあったことに熱さで気づいた空巣は、パーカーの帽子を手で何度も叩いた。
そしてパーカーの帽子を引き伸ばして内部が焦げているのを確認した。
「何で煙草がこんな所に入ったんだぁ?」
薮中は思わずツッコんだ。
「お前が捨てたからだろーが」
「はぁ〜まったく……今日はついてないよ」
空巣は肩を落としてとぼとぼ歩きはじめた。
「おっ!」
薮中が何かひらめいたようだった。
「ベル、先回りだ」
「はいー」
薮中とベルは、空巣をすり抜けて追い越していった。そして路地の出口まで先回りすると、
しゃがみ込んで両脇から路地を覗いて待った。空巣がとぼとぼと歩いて近づいてくると、
薮中は聞こえるはずのない声で声を掛けた。
「おい、足元に注意しろよ」
薮中は空巣の足元にタイミング良く警棒を突き出した。
警棒につまずいてよろけた空巣が悲鳴を上げた。
「うぁー!」
そのまま勢いよくころげて電柱に激しく頭をぶつけて倒れた。
その拍子に服が音を発てて破れ、顔に新たな擦り傷まで出来てしまった。
「いってー」
空巣は辺りを見渡すとその場から立ち上がり服に付いたホコリを叩いた。
「ふぉっふぉっふぉっふぉっ」
ベルが空巣を見つめながら前足で口をおさえて、わざとらしく笑った。
「ご主人様、あの方、結構痛そうでしたね」
「まだまだ」
薮中は不敵に微笑んだ。
辺りには古くからある家々が立ち並んでいる。
どの家も築三十年以上は経っており、時代の年輪というか老朽化というか、
補修や立て替えの必要性を感じる家も少なくない。
それらの家の間を車がやっと行き来できるくらいの幅の道路を空巣はふてくされながら歩いていた。
すると路上にスモークを貼ったシャコタンでピカピカに磨きあげられている黒いセダンが駐車してあった。
空巣はその車に歩み寄ると、車の窓に自分の顔を映して顔の傷を確認した。
「いってーなぁー」
と独り言を言う空巣に、背後から窓に映る空巣の傷を見た薮中はつぶやいた。
「痛そうだなぁ」
空巣は自分の背後から死んでいるはずの薮中の姿が、車の窓ガラスに映り込んでいることに気づくと、
驚いて後ろを振り向いた。だが辺りには誰も居ない。
「嘘だ!……」
空巣は怯えた形相で辺りを見回すと走りだした。
ベルは走り去ろうとする空巣をしっぽを振りながら見つめて微笑んだ。
「またまた、ご主人様のことが見えちゃったみたいですねぇ」
「そのようだな」
薮中とベルは、見る者の背筋に悪寒が走る程の不気味な笑みを浮かべ、空巣を見つめていた。