第11話 この世への心配
薮中とベルは国道沿いの歩道を歩いていた。
歩道を歩く人たちは、その存在に気付くことなく薮中とベルの体をすり抜けて行ってしまう。
ベルは何もしゃべらない薮中に声を掛けた。
「ご主人様、少しは気持ちの整理がつきましたか?」
「あぁ、トンネルの出口から光が差し込んできた感じがするよ」
ベルは歩きながら薮中を見つめた。
街道沿いのコンビニにある駐車場で、輪止めの上に中途半端なあぐらをかき、
スナック菓子をぼりぼり頬張る、かわいいけどだらしない身なりの女子高生二人がいる。
薮中はその女子高生に気づくと立ち止まり二人を眺めた。
「ご主人様、どうしたんですか?」
「そういえば腹が減らんなぁ〜」
「死んでますからね」
「死ぬと食べる楽しみがなくなるのか、切ないなぁ〜」
「食費はかかりませんよ」
「ある意味大きな利点なのかな」
女子高生の一人が手に付いたスナック菓子の油をスカートの裾で拭うと、
ポケットからコンパクトを取り出して化粧をはじめた。
薮中は呆れた様子で首を左右に振ると、自らの声など聞こえもしない女子高生相手に
ささやかな説教をはじめた。
「若いのに化粧するなんて。いいか若い肌はな、それだけで魅力的なのに化粧で隠すなんてもったいないぞ。
素顔が一番いい年頃だとは思わんのか。実にもったいない」
「ご主人様は、ロリコンだったんですか?」
「しっ、失敬な事を言うな!いいかベル。若い肌はな、代謝が激しいから化粧なんか塗りたくっていたら、
皮膚呼吸ができなくなって肌荒れの原因なんだぞ」
「でも、若いからこそ化粧でより良く見せたいんじゃありませんか」
「良く見せたいなら、こんな所に座って菓子食ったり、化粧したりするより、心を磨くほうが大事だろう」
「どうやって磨けば良いのでしょう」
「そっ、それはだなぁ……」
薮中とベルが熱き思いをぶつけ合っていると、堤が車でコンビニの駐車場に現れ、
薮中の脇にある駐車スペースで止まった。
「おっ堤じゃないか、何しに来たんだ?おい堤、堤?今日は非番か?おい、シカトか?」
「ご主人様、彼に私たちは見えていません」
「あっ、そうだったな」
薮中はイマイチ、自分の存在を理解していないようでもあった。
堤が車から降りてコンビニの中に入っていった。
薮中もその後を追ってコンビニの中に入ろうとする、ベルは薮中に問いかけた、
「ご主人様、私はどうすれば?」
「ちょっと外で待っていてくれ」
薮中はドアをすり抜けて店内に入ると、すぐに出て来てベルを指差した。
「ベル」
「はい、何でしょうか?」
「拾い食いするなよ」
「食べ物必要ないですから!」
眉間にしわを寄せてふんがいするベルを余所に薮中は店内へと消えて行った。
店内では堤が買い物カゴを持ち商品を物色している。
薮中は堤の背後からピッタリとマークし、まるで金魚の糞のようにくっ付いて歩いた。
堤がコンソメ味のポテチと枝豆味のスナック菓子、柿ピーとバターピーを買い物カゴの中に入れた。
薮中は買い物カゴを覗き込んでぼやいた。
「おい、いきなりお菓子か?」
堤は通路の端まで歩くと冷蔵庫を開けて350mlのビール一缶と発砲酒三缶をカゴに入れた。
「何だぁ〜つまみを買いに来たのかぁ〜」
薮中は納得した様子で腕を組んだ。
堤がカップラーメンのコーナーで商品を手にして見比べている。
コンビニと人気ラーメン店とがコラボして作ったとんこつ味と醤油味ラーメンのどちらにするかで
真剣に悩んでいる様子だった。
「お前は非番の時はこんなもんばっか食ってるのか。塩分の取り過ぎだ、白飯を食え」
薮中が堤の健康を案ずる思いが届いたのか、堤はカップラーメンを棚に戻してつぶやいた。
「カップラーメンじゃ味気ないよなぁ〜」
「そう、それでいいんだよ」
薮中は納得したように何度もうなずいた。
堤が次に向かった先はお弁当コーナーだった。
商品の補充がされたばかりなのか、種類も在庫も豊富だった。堤は黒豚の生姜焼き弁当を選んで微笑んだ。
「お前なぁ〜スーパーにでも行ってちゃんとした材料買って作らんか」
薮中は堤の健康を案じていたが、その思いが堤に届くはずはなく、
しかし若干は健康に気を使おうとしているのか、堤はお弁当売場の横にあったお惣菜コーナーから、
食物繊維が豊富なごぼうサラダを一つ手に取り、買い物カゴに加えてレジへと向かった。
だが薮中は呆れていた。
日々、知力も体力も必要とする刑事が塩分や油分の取り過ぎであろうバランスの悪い食事を
していることに憤りを感じていた。
「まったく、いつもしょうがない奴だなぁ〜」
堤はお弁当を温めてもらうと、店から薮中と共に出てきた。薮中は堤にぼやいた。
「結局お前の食事はいつもコンビニ弁当だ。栄養の片寄りで、三十代半ばには生活習慣病になるぞ。
早く結婚でもしてしまえばいいのに。なぁ、いい人を紹介するぞ」
ベルが薮中にツッコミを入れた。
「ご主人様、相手は幽霊ですか?」
「そっか、私は死んでいたんだっけ」
薮中は堤に聞こえるはずのない意見に気づいた。
堤が車に乗り込もうとしている。
薮中はその姿を見て何かひらめいたようであった。
「ベル、私たちもあの車に乗るぞ」
「勝手にそんなことしていいんですか?」
「つべこべ言うな、早く乗れ」
薮中とベルは、リアドアをすり抜けて後部座席に乗り込んで座った。
「おっすり抜けずに座れたぞ。明確な意思があればすり抜けずに済むもんだな」
「何をぶつぶつ言ってるんですか、ご主人様」
堤がシートベルトをすると、薮中が思い出したようにシートベルトをしようとしたが、
ベルトをつかむことすらできなかった。
「ご主人様、どうしたんですか?」
「シートベルトをしようと思ったんだが、ベルトすらつかめんのだ」
「万が一事故に遭っても、これ以上死ぬことはないですよ」
「しかし私は警察官だしな。法規くらい守れる時は、守っておこうと常日頃から思っているんだよ」
「本当ですかぁ〜」
ベルは薮中を疑わしい目つきで見つめた。
堤が運転する車がコンビニから走り出した。
堤は車内に微かに漂う黒豚の生姜焼き弁当の匂いを嗅ぎながら家路に向かって運転している。
薮中とベルは、後部座席に座って、歩く苦労から開放され、気分はご機嫌だった。
「ご主人様、車での移動は快適ですね」
「歩いている時間がもったいないからな」
「時間なら無限にありますが?」
「それもそうだなぁ」
薮中とベルが高笑いをした。
「んっ?」
堤が一瞬後ろを向いて首を傾げるとしきりにルームミラーで後ろを気にしはじめた。
「私たちに気づいたのか?」
「それはないと思います」
「堤は感のいい男だからな、気を付けなければ」
しばらく堤の車に便乗さてもらっていると車が曙埠頭前の赤信号で止まった。
「おい、ここで降りるぞ」
「ここで、ですか?」
「早く降りないと車が動きだすぞ」
薮中とベルは、車のドアをすり抜けて降りた。信号が青になり堤の車が走り出した。
「堤ー、また頼むなぁー。さぁ行くぞ」
ベルは薮中の言葉に首を傾げながら、ニ歩後ろから付いて行った。
薮中は曙埠頭の出入口から突堤を眺めている。
思い詰めたように突堤を見つめる薮中にベルは問いかけた。
「ご主人様、ここはいつもの港ですよ」
「ここは何となく落ち着くんだ。当面はここを私たちの寝蔵にしよう」
「えっ、もう少しいい所を探しませんか?」
「幽霊用の不動産屋でもあるのかぁ?」
「そっ、それは…無いですけど……」
「行くぞ」
薮中は突堤の先に向かって歩きはじめた。
「待ってください。ご主人様ー」
ベルは薮中の歩みに追い付くと、すぐ脇を歩く速度を合わせて付いて行った。
突堤には大型の貨物船が係留されている。
貨物船の上では、五階建てのビルほどの高さでコンテナが積み重ねられている。
その脇にはそそり立つようなガントリークレーンがあり、港湾職員が命綱も付けずにコンテナの上に立って
クレーンのフックを手慣れた手付きで固定を確認し、右手を上げて合図を送った。
ガントリークレーンが音を立ててワイヤーを巻き上げると重いコンテナをいとも軽々と
貨物船から釣り上げて突堤に横付けされたトレーラーの荷台の上にピッタリと何の迷いもなく運んでいる。
薮中は港湾職員たちの手際のよさに感心していた。
「日本は輸入大国だから、この人たちがいなくなったら大変だなぁ〜」
「そうですねぇ〜」
「ケガのないように頑張ってほしいですね」
「まったくだな」
薮中とベルは、日本の物流を港で支える港湾職員たちの様子をただじっと眺め続けた。
日の光も西に傾き、辺りが夕日で紅く染まりはじめた頃、貨物船に積まれていたコンテナは無くなり、
港湾職員たちもいつのまにかいなくなっていた。
貨物船が汽笛を鳴らしてゆっくりと突堤から離れて行く。
薮中は積み荷を下ろして去って行く貨物船に、自らの行く末を見い出そうとしていた。
「あの船は何処に行くんだろうなぁ」
「遠い異国へ行くのだと思います」
「そうだよな、行き先くらいあるよな。……なぁベル、安全な航海になるといいな」
「はい……」
曙埠頭の出入口を最後のコンテナを積んだトレーラーが夕日を浴びながら出て行った。
すると埠頭を警備していたガードマンが大きな門をゆっくりと閉めた。
日もすっかり沈み辺りが暗闇に包まれると、人々が日中忙しく働き、大型トレーラーがひっきりなしに
通っていた事が嘘のように辺りは静寂に包まれていた。
薮中は係船柱に座り両肘を膝の上に立てて、沖に停泊している船舶のわずかな明りを眺めていた。
「なぁベルよ」
「はい」
「私の側にお前が居てくれたから、私は自分を見失わないで、今こうして居られるような気がするんだよ」
「ご主人様……」
「ありがとうな、ベル」
薮中は脇でお座りしているベルを感謝に満ちた眼差しで見つめながら、優しく頭を撫でた。
ベルは薮中が自分に感謝をしてくれていたことがとても嬉しかった。
ベルは薮中の足元に背中を凭れるようにして寄り添うと、横になってすぐに眠りについた。
薮中は時が止まったかのように沖に停泊する船舶のわずかな明りを尚も見つめ続けた。
西の空が白みはじめ、辺りを明るく照らしはじめた頃、
薮中は係船柱に座ったまま、ひとときの眠りについていた。
十五分程度経った頃であろうか、白いつばのついたヘルメットを被った港湾職員たちが、
貨物船からガントリークレーンを使って荷下ろし作業をはじめた。
薮中はクレーンの発するモーター音で目覚めてしまった。
足元ではベルが周りの音など気にすることもなく、うずくまり寝ている。
薮中の目の前すれすれをトレーラートラックやフォークリフトが通過して行く。薮中はベルを見つめた。
「ベル……」
ベルは薮中の問いかけで目覚めた。
「はぁ〜あ、よく寝た」
「ベルよ」
「はい」
「とうとう今日が来てしまった」
「ご主人様、今日、何かあるんですか?」
「私の告別式だ」
「えっ、行くんですか?」
「当事者が行かなくてどうする」
ベルは首を傾げて戸惑った。
薮中はベルの様子など気にすることもなく、立ち上がると「行くぞ」と歩きはじめた。
「待ってください、ご主人様ー」
べルは薮中を小走りで追いかけた。
「ご主人様、これからどうやって家まで帰られるんですか?」
「しまった。我々には行き当たりばったりの交通機関しかなかったんだ」
「バスとか電車とかを使いますか?」
「交通機関の無賃乗車はマズイだろ」
「確かに。ではどのように移動します?」
「一番最短距離を歩こう」
「まっすぐ通り抜けて行くんですね」
「そうだ。我々の大きな利点だ」
「なるほど、流石ご主人様」
薮中とベルは、倉庫街、オフィス街などの建物を避けることなく、敷地内を突っ切って行った。
数多くの不法侵入を繰り返して十五分ほど歩いた頃だろうか、
街並の憩いの場所とも言えそうな古い公園が現われた。
この公園は複雑な形状をしており、公園の形状に沿うように側溝のような幅で
水の流れがほとんどない小川があり、その川は外周三百メートルほどの沼に繋がっている。
薮中とベルは、小川沿いに歩いて沼の方へと向かった。
「あぁ〜懐かしいなぁ〜」
「どうしたんですか、ご主人様」
「ここはな、五年前、開とザリガニ捕りにきた場所なんだ……」
薮中は五年前、この公園で起きた出来事を思い出していた――
薮中が三十五歳、息子である開が六歳の頃だった。
日頃、事件の捜査で忙しく働く薮中パパは、会社勤めのように土日に決まって休めることは少なく、
たまの休日が子どもの休みと重なると、親子の交流を大切にしたいと、家から開を連れ出し、
自然と接する遊びをさせたいと、いつも画策していた。
この日、曙警察署・捜査課の同僚で夕日ケ丘に四十三年も住んでいる梶原から聞いていた、
通称ザリ沼と言われているザリガニスポットに念願叶ってやってきた時のことだ。
この日のためにホームセンターで開に買い与えたアルミフレームで長い枝のついた軽量網を
薮中パパは右手に持ち、濁った水面をじっと見つめていた。
微かに水面が小さく揺らめき、微かではあったが赤いアメリカザリガニが見えた。
「おっ開、あそこに居たぞ!」
「どこどこ?」
薮中パパは大きく立派なハサミを持った魅力的なザリガニにそっと網を近づけた。
「いいか開、ザリガニは逃げる時、後ろ側に素早く逃げるから、網はしっぽの方からさっと近づけろ、
いいか、見てろ!」
「うん」
薮中パパが電光石火の早業でザリガニの後方から網を近づけた瞬間、
ザリガニは薮中パパの攻撃をいとも簡単に躱して逃げ去って行った。
「くそ!ザリガニの分際で、敏腕デカから逃げるとはちょこざいな!」
「お父さんへたくそだなぁ〜。僕が取るから網を返してよ」
「父親に向かってへたくそとは何事だ!お父さんが飽きるまでお前には貸してやらん」
「この網、僕のだよ」
「うるさい、放せ!今は持っている人の物だ!」
父の威厳をいとも簡単に踏みつぶしてくれたザリガニという逃亡犯の強硬な態度で、
思わず沸点に達した薮中パパは、我を忘れてザリガニを捕まえたい一心で、
やたらと沼に網を突っ込みはじめた。
「私は奴を逮捕するまでは決して諦めんぞ!」
「網を返してくれたっていいじゃないかぁ〜。僕だって獲りたいよぉ」
大人気ない薮中パパの振る舞いに、開は失意のどん底に蹴落とされ、大泣きしてしまった。
「…すまん開。お父さんが熱くなり過ぎた、許してくれ。なっ、ほら網使っていいぞ」
「もーやぁだー」
泣きじゃくる開を止める手立ては、もはや薮中パパには無かった。
「はぁ〜やってしまった」
薮中は自身が五年前に犯した罪をベルに語って聞かせた。
「ご主人様は、大人気ない一面もあるんですよね」
「まぁな。あの時はつい子供の頃を思い出して熱くなり、開にすまんことをしてしまった」
「子供心を忘れないご主人様は本当に素敵です」
「そうかな」
「さぁ行きましょう」
薮中は懐かしくほろ苦い記憶を思い出したからなのか、足取り重く歩きながら、
いつしか自宅の前までさまよい着いた。
家の周りには家族葬にもかかわらず数多くの大きな花輪が飾られており、薮中は驚いていた。
何故こんなに花輪があるのだと……。
薮中は花輪に書かれた差出人の名前を一つ一つ確認して歩いた。
夕日ケ丘商店街の商店主たちが贈った花輪や 曙警察署や近隣の警察署からの花輪もある。
その多くは薮中刑事を慕う者たちが贈ったものだ。
その中に個人名のみで薮中の聞きなれない「永橋 渉」という名前が記された花輪があった。
「永橋 渉?はて、誰だぁ?」
薮中は首を傾げ悩みながら、喪服姿で集まって来る沢山の人たちを見つめた。
その中に夕日ケ丘商店街の商店主たちも徐々に集まって来る、皆、薮中を慕い、
頼りにしていた人たちばかりだった。薮中は今日、自らが火葬にされてしまう事を痛感してうな垂れた。
その前を捜査課の堤、藤堂、梶原、泉、豊田が黒いスーツ姿で通り過ぎて立ち止まった。
薮中は五人に歩み寄った。
「忙しいのにわざわざ皆で私の告別式に来てくれたんですか、すみません」
そう言って頭を深々と下げた。
局部的な風が堤の頬を後ろから撫でた。
「んっ?」
堤は振り向いて辺りを見回した。
誰も居ない後ばかりを気にする堤を見て梶原が堤の肩をポンと叩いた。
「どうした、堤?」
「今、誰かに後ろから話しかけられたような感じが……」
豊田が辺りを見回して身をすくめた。
「おっ、脅かすのはやめろよなぁ」
「気のせいだったのかなぁ〜」
梶原が不敵な笑みを浮かべて豊田を見つめた。
「もしかすると、薮中の幽霊かもな」
「本当ですか」
「梶さん、非科学的ですよ」
泉が根拠のない話しを否定した。
藤堂は少し呆れた様子で「みんな行くぞ」と言いながら先頭を切って薮中の家に入って行った。
家の周りにいた喪服姿の人たちも次々と薮中の家に入って行く、
薮中はその光景を見つめ大きなため息を一つついた。
「ぼちぼち、私たちも出席しようか」
「はっ、はい」
薮中とベルは、家に入ろうとする参列者をすり抜けて家に入って行った。