第1話 おサイフケータイ
読みやすくするため、改行を増やしました。
また、誤字脱字を修正しました。(2017/3/27)
平成十八年十一月、日中は、日射しの暖かさで心地よさを感じる日も少なくはないが、
早朝ともなるとそれは一変して、肌寒さに身震いしてしまいそうな風が、
時折、何処からか囁くように吹き付ける度に、凍てつくような寒い冬が
すぐそこまで近づいていることを予感させる、ある水曜日の出来事だった。
曙町四丁目の幹線道路沿いは、日の出前の早朝ともなると、日中見られる車の往来や
人々の歩く姿などは無く閑散として静まりかえっている。
辺りはまだ暗く、東の空が微かに青みがかりはじめた午前五時を少し回った頃、
街並の屋根から飛び抜けるようにそびえる、白い七階建てのエスケープマンションの西側を向いたベランダに
朝日が当たりはじめてきた。そのベランダが見渡せる道路の路肩に、
銀色のニッサン・スカイラインセダンが止まっている。
その助手席には、体格がよく鋭い眼光を持ち、一見やくざの幹部とも思えるいかつい男性と、
運転席には、その男性とは対照的な、スレンダーで爽やかな好青年を思わせる甘いマスクの男性がいる。
二人は工事現場でよく見られるようなライトグリーンの作業着に、
紺色で襟にファーの付いた防寒用の作業着姿で、スカイマンションの上層階を
うかがうようなそぶりを時折見せながら座席に座っている。
彼らの身なりは一見して工事現場への出番を待つ作業員にしか見えないが、
実はそうではない。だからといって早朝からひっそりと愛を確かめ合う
同性愛のカップルでもなければ、決して悪事を働こうとする怪しい者でもない。
彼らは世の中の治安を守ろうと、日々犯罪と戦い、市民生活の治安維持を担う、
曙署捜査課が誇っているに違いないと、日々、自画自賛している刑事(デカ)たちだ。
いかつい顔をしている男性は薮中 守(やぶなか まもる)刑事、
甘いマスクの男性は堤 嵐(つつみ あらし)刑事だ。
この日は、先月管内のパチンコ両替所で起きた強盗傷害事件の容疑者として
内定捜査をしている犯人が、内縁の妻と行動を共にしていたという情報を聞き付けて
張り込みをしているところだった。その張り込みをしている脇をスーパーカブの荷台に
うずたかく積み上げられた新聞を配達している配達員が、軽快なシフトチェンジの音を
静まり返った辺りに轟かせながら走り去って行った。
前方にそびえるエスケープマンションの四階にあるベランダ側の窓が、突然、開いた。
室内から淡いピンク色で、薄らと下着が透けて見えるレースのネグリジェを着た三十代半ばと思われる
女性が現れた。その女性はベランダの手すりから身を乗り出すようなそぶりで辺りを見渡している。
その姿は、待ち人の訪問を心の底から待ちわびるように、辺りに見える細い路地をも
隈無く見渡しながら独り言で何かつぶやいている様子だった。
女性はいま警察に追われている犯人の内縁の妻で、この部屋で暮らしている。
女性は午後四時を過ぎると、このエスケープマンションから五分程歩いた所にある雑居ビルの二階で、
自ら経営しているスナックに出向き営業準備をするのが日課で、捜査課が聞き付けた情報では、
明け方になると犯人が女性のマンションへ寝に帰ってくるというものだった。
女性がベランダに出てすぐから、スカイラインセダンの助手席では、薮中が手で握ると
すっぽりと隠れてしまう程に小さい筒型の望遠鏡で、落ち着かない様子の女性をじっと見つめている。
運転席では堤が犯人の顔写真を見ながら辺りを見回してつぶやいた。
「来ますかねぇ」
薮中は小さな望遠鏡のレンズに蓋をすると上着の内ポケットにしまい込んだ。
「奴の女は今あそこだ。それに逃走資金もないはずだから、必ず女と接触するはずだ」
「女の口を割らせた方が早いのでは?」
「あの女はな、この辺のお水の世界じゃ有名な、でたらめ話しの達人なんだぞ?
そう簡単に本当のことを吐くとは思えんな。それに奴が来なくても、女は金を持って必ず動くはずだ」
「刑事のカンですか?」
「奴だって腹は減るだろう」
「それはそうですけど……」
堤は先輩である薮中の経験に裏打ちされた犯人の深層心理に迫った心理分析を期待していたので、
いささか拍子抜けをしたようでもあった。
彼らの後ろから、白いホンダ・ステップワゴンが微かなエンジン音を発てて近づいてきた。
運転席には、自動車の整備士が着ているような赤いつなぎに、紺色ジャンパーを着た
豊田 真一(とよた しんいち)刑事と、助手席には、紺色のハイネックセーターに、ダークブラウンの
コーデュロイジャケットを着た梶原 健志朗(かじわら けんしろう)刑事が乗っている。
薮中と堤が乗る覆面パトカーのセンターコンソールに埋め込まれた無線機から、
突然、低音でドスの利いた声が聞こえてきた。
「ご苦労さん、交代に来たぞ。今後ろだ」
薮中はその声が四十八歳のわりに若干老けて見える梶原の声だとすぐにわかった。
薮中は無線のマイクを手にした。
「梶さん助かります」
「薮中、現状はどんなあんばいだ」
「犯人はまだ現れていません。奴の女は何度かベランダから辺りをうかがうように出ただけで、
部屋に居ます。梶さん、後を頼みます」
「了解した」
薮中は無線のマイクをセンターコンソールのフックに引っ掛けると、緊張から解き放たれた
開放感からなのか、ため息を一つついた。
「堤、署に戻ろう。出してくれ」
「はい」
堤はエンジンを始動させるとエンジン音を上げずに、ゆっくりと滑るように覆面パトカーを発進させた。
辺りを走る車は早朝とあってまばらではあったが、辺りを照らす朝日の明るさが増すに連れ、
歩道には出勤途中の人々が垣間見られるようになってきた。
早朝出勤であろうか、中年で少しくたびれた感じのする紺色のスーツを着たサラリーマン風の男性が、
缶コーヒーを飲みながら歩いている。薮中はその光景を目にすると思い出したように堤に話しかけた。
「張り込みの時は水分補給がままならないからのどが乾いたな。何か飲物でも飲まんか?おごるぞ」
「ありがとうございます」
薮中は少し右側のお尻を浮かせる姿勢を取ると、ズボンのポケットから財布を取り出した。
しかし、急に何かを思い出したように財布をポケットに戻してしまった。
堤はその光景を横目で見ながら問いかけた。
「どうしたんですか?」
薮中はズボンのベルトに付けていた真新しい黒い牛革製のケースに入ったおニューの折りたたみ式
携帯電話を取り出すと、堤に向けて印篭のようにかざし、斜に構えて微笑んだ。
「これの使える自販機を見つけてくれ」
「それ、おサイフケータイですか?」
「そうだ。この機能に憧れて先月替えたんだ。しかし、取り扱い説明書が辞書みたいに分厚くてなぁ。
一度は、挫折してしまったんだが…」
薮中は事の経緯を静かに語りはじめた――
それは一ヶ月ほど前、薮中が溜まりに溜まった捜査報告書を夜勤の間に書き上げ、
精も根も使い果たした朝、自宅にやっとの思いで帰った直後に起きた事件からはじまった。
家では薮中の帰りを待ち切れない妻、明香里(あかり)が見切り発車で洗濯機を回しはじめたばかりの時、
薮中は最後に残されたわずかな力を振り絞り、玄関のドアを開けて囁いた。
「ただいま~」
「お帰りなさい。すぐお風呂にするでしょ、もう沸かしてあるから」
「あぁ、ありがとう」
「それから、今、洗濯しはじめたばかりだから、今着ているもの洗濯機に入れて、そのままお風呂に入ってよ」
「分かった」
薮中は洗濯機の作動音にせかされながらも、心の中では、暖かい湯船に浸かりながら、
長い一日の疲れを癒やせるという逸る気持ちを押さえ、ジャケットを脱ぎ、シャツや下着類を脱いでは
回転を続ける洗濯槽の中に投げ込んでいった。
浴槽の蓋を開けると暖かい湯気が一気に立ち上った。
体を洗い湯船に浸かると、心の中で段取りよく事が運んだ朝に満足し、安らぎと暖かい包容感に包まれていた。
そして浴槽にもたれ、耳をすましていると、洗濯槽が回転する音が浴室内に小さく
反響していることに気づいた。だがそれは、突然、いつもとは違う音へと唐突に変わった。
その音は何か硬いものが洗濯槽の回転に合わせて内壁にぶつかっているように聞こえた。
薮中はさほど気にする様子もなく、湯船にのんびりと浸かっていた。
「あれっ、なんか変な音するなぁ」
明香里の声が脱衣所から聞こえてきた。
「なんかいつもと違う音だよ、なんでだろう…あっ、もしかして……」
明香里はとっさに洗ってはいけないものが洗濯されていると直感し、洗濯機の蓋を開けて
洗濯槽にすぐさま手を入れてまさぐった。するとすぐに怪しい感触にたどり着いてしまった。
「やだもぉー何で携帯まで入れちゃうのよー」
薮中の携帯電話は泡まみれになったまま洗剤を滴らせ、別れの言葉も告げず既に永眠していた。
携帯電話の損失は今後の捜査活動にも大きな支障きたすと考えた薮中は、入浴もそうそうに切り上げると、
携帯電話を軽く水洗いし、ドライヤーで丁寧に乾かしてから、恐る恐る電源のスイッチを入れてみた。
だが既に息途絶えていた携帯電話が再び目を覚ますことはなかった。
薮中は、いちるの望みを抱き、蘇生の可能性を導き出そうと、逸る気持ちを押さえて、
駅前の携帯ショップに出向いて行った。
携帯ショップでは、にこやかで笑顔の素敵な若い女性店員が対応してくれたのだが、
修理には一週間以上もかかり、直る保証もなければ費用もかなりかさむと、笑顔とは正反対に残酷で
否定的な話しばかりを投げ付けてきた。薮中は月一万八千円のお小遣いから修理費をどう捻出しようか、
その場でうつむき深刻な面持ちで悩んでしまった。薮中と苦楽を共にして死別した携帯電話は、
四年前に購入した物で、機種としては既に古い物でもあり、女性店員の
「この機会におサイフケータイに変えてみては?割引価格でご提供できますし」との勧めで、
ショップの電話を借りて、自宅にいる明香里におうかがいの電話をかけてみた。
「もしもし、父さんだけど」
「どう、携帯直りそう?」
「ダメだって」
「どうするの、仕事で困るじゃない。新しい携帯を買うんでしょ?」
「いいかなぁ」
「手持ちのお金で何とかなるの?」
「ん~、でもお小遣いが一瞬にして消えてしまうよ」
「今回は特別予算を組んであげるから、買っちゃいなさいよ」
「ありがとう……」
些細な電話のやり取りの結果、最新機種であるおサイフケータイを割引価格で購入する事となった。
それから三十分後、薮中は死別した携帯電話の事などすっかり忘れ、意気揚々と携帯ショップの
小さな紙袋を持ち、今にもスキップしそうな足取りで家路を急いでいた。
家に着くと自室の六畳間にこもり、携帯ショップの小さな紙袋から携帯電話の入った箱を取り出し、
箱を開け、真新しい携帯電話を嬉しそうに眺めて座卓の上に置いた。
そして箱の中から説明書を取り出してがく然とした。それは文庫本をひとまわり大きくしたような
かなり分厚い取り扱い説明書で、中にはびっしりと小さな文字で、携帯電話に注がれた
ありとあらゆる機能の総てが記されている。当時としては最先端のアイテムを手に入れ、
気分は絶好調に盛り上がっていたはずなのに、取り扱い説明書という小さく厚い壁に阻まれ、
薮中の気分は、奈落の底に突き落とされてしまった。
それからしばらくの間、薮中の携帯電話は、電話としての機能以外使われることはなかった。
そして数週間が過ぎた頃であろうか、聞き込みで訪れた、夕日ケ丘駅の改札脇にあるキヨスク前から、
捜査課へ現状報告を新しい携帯電話で済ませ終ったちょうどその時のことだ。
ヤンキー一人と女子高生二人が薮中の脇を通り過ぎると、すぐ脇にあった自販機の前で立ち止まった。
薮中がなにげにその三人を見ると、ヤンキーがポケットから携帯電話を取り出した。
それはまさしく薮中が今持っている機種と色まで同じ物であった。
ヤンキーは当たり前のように、その携帯電話を自販機にかざすと「好きなやつ、選べや」と
女子高生二人に囁いた。女子高生たちは、ささやかな笑顔をヤンキーに投げかけながら飲み物を選んでいた。
薮中はそのナチュラルなまでに生活に溶け込んだ光景を目の当たりにして、手に持っていた携帯電話を
見つめながら力強く握りしめた。それは何か強い意志をはっきりと持った決意の現れのようにも見えた。
その日の夜、勤務を終えて家に真っすぐ帰った薮中は、自室の六畳間に置かれた座卓の上に、
携帯電話、充電器、ハンズフリーキット、ベルトに装着可能で脱着が容易な黒い牛革製のケース、
サービスガイドブック、更に携帯ショップの女性店員の勧めで買ったパトカーの携帯ストラップ、
交通課の友人がくれたピーポくんの携帯ストラップを綺麗に並べ、座椅子にもたれながら
眉間にしわを寄せ、小さく分厚い取り扱い説明書を食い入るように読んでいた。
その姿は入学試験を目前に控えた受験生のようでもあり、失意に向かって引きずられそうな表情にも思える。
時折「ん~」と疑問を感じさせるうなりを発しては携帯電話を手に取って操作を行い、
作動を確認しては機能を理解したように深くうなずくこともあった。だが思うように進まないことの方が多く、
首を傾げてはため息をつくという行為を二時間以上も繰り返していた。
「お父さん、ご飯だよー」
と叫ぶ妻、明香里の声が何度もしていたのだが、
小さく分厚い取り扱い説明書とガチンコ勝負を繰り広げる薮中の耳に届くことはなかった。
何の返事もくれない夫に業を煮やした明香里は、この事態を打開すべく刺客として
息子で小学五年生の開(かい)を夫のこもる六畳間へと送った。
開が恐る恐る引き戸を開けて部屋の中をそっと覗き込むと、携帯電話を持ったまま
取り扱い説明書を見て身動きすらしない父の姿が見えた。
「お父さん何をしているの?もう晩ご飯だよ」
薮中はこの時、この携帯電話の最大の売りでもある、おサイフケータイ機能の設定に悩んでいた。
「このおサイフケータイを使えるようにしたいが、父さんの脳がそれを拒もうとする」
開は父の言葉に首を傾げた。
「?……僕に貸してみて」
開は携帯電話を右手に持つと、右手の親指を器用に使い、軽快なタッチで操作をはじめた。
薮中は両手を使わずに操作を続ける息子の姿を感心しきりで眺めて、開に尋ねた。
「何故、両手を使わない?」
「えっ?片手で十分だよ」
薮中はこの時、息子が父親の今まで培ってきた能力を越えたと、ちょっぴり嬉しくもあり、
父の能力を追い抜かれた悔しさを一人で噛み締めていたことや、新たな機能を持った
携帯電話についての出来事などを移動中の覆面パトカーの中で、携帯電話を見つめながら、
堤に熱く話して聞かせていた。
「結局、最後は息子に手伝ってもらって何とかチャージしたよ。知っているか、チャージ」
「はい」
堤は覆面パトカーを運転しながら微笑んだ。
堤には薮中が抱いている、ささやかで決意に満ちた強い思いが理解できたのであろうか、
通り沿いにある自販機の一つ一つに目を配りながら運転を続け、やっとの思いで一台の自販機前で
覆面パトカーを止めた。
「ここの自販機なら使えますよ」
薮中にとって待ちに待った決意の時がきた。
「いよいよこの時がきたかぁ」
「頑張ってください」
「んっ、行ってくる」
薮中は堤の声援に後押しされて覆面パトカーを降りると、緊張した面持ちで自販機に向いながら、
微かな声でつぶやいた。
「私にもできる私にもできる私にもできる。いよいよだ。はぁふぅ~」
薮中が自販機に携帯電話を力強くかざすと、商品選択ボタンの明かりが赤く灯った。
薮中は早る気持ちを抑えて、医療従事者の評判がもっとも良いスポーツドリンクを選ぶと、
その選択ボタンを押した。
自販機からガラガラと音を発ててスポーツドリンクの500mlペットボトルが出てきた。
「おっ、何だぁ、猿でもできるじゃないか」
薮中は満足そうな笑みを浮かべ、スポーツドリンクのペットボトルを二つ手にして覆面パトカーに
乗り込むと、すぐさま堤に一つ手渡した。
「ほれ」
「頂きます」
「水分が取れる時はこまめに取れ。でないと血液がドロドロになって、脳に血栓ができたら
あっという間にあの世行きだぞ。確か、みのさんが言っていたなぁ~」
「はっはい」
堤は唐突にはじまった薮中のプチ講議に微笑んでしまった。
「何かおかしいことでも言ったか?」
「いや別に……頂きます」
堤は水分補給をしながら車を走らせた。