見習い錬金術師と夜の森
錬金術。それははるか昔より伝わる秘術。
この世を構成する物質全てを読み解き、構成を理解し、操る根源の探究。これは長い年月を掛けて人々の間に錬金術が普及し始めた時代、とある見習い錬金術師の物語。
とある夜、広大な森の中に建てられた木製の小屋の一室、さほど大きくはないこじんまりとした部屋に天井から吊るされた古いランタンが二人の高さの違う人影を床に揺らしていた。あたりは錬金術に関する参考書の置かれた本棚や実験器具が壁際から並べられており、本棚で挟まれた壁際に一人分のスペースの確保されたテーブルが確保されており何か研究や実験をするには適切の大きさとなっている。
「こら!聞いているの?」
腰まで届く長い黒髪を揺らした彼女は机の脇で立って机をトントンと音を立て、椅子に座り机に向かって眠りにつきそうになっている一人の少年に向かって集中を促した。
「聞いてますよ鬼師匠。もうばっちりなほどに……って痛っ!」
少年は目を閉じたまま、また眠りにつこうとした。だがそれを見た師匠は少年にゲンコツを落とした。すると少年は目を開け、体制を整え、再び机に並べられた錬金術についての書物に向き合うこととなった。
「誰が鬼師匠ですって?寝るんじゃないの。まだ夜といっても子の刻は過ぎていないし、寝るにはまだ早すぎるよ」
「そんなガミガミしていたらせっかくの美人が台無しですよ?……痛っ!」
また一発。
「くだらないことを言っているんじゃないよ。この私が直々に面倒を見てやっているのだから、まじめにやりなさい。あなたが最初に言った言葉忘れてないでしょうね?」
そう、今から一週間前。少年はこの錬金術師の女性に師事を仰いできた。
あれは太陽が沈み始めた暮れgの頃。一人で森を彷徨っていた少年が森の熊に襲われているのを見つけ、助けたことから出会いは始まった。
「誰か助けてくれー!!」
クマに襲われていたその少年は大声で誰かに助けを求めていた。だがこの辺境の森で助けを求めても人など来ないだろう。彼女以外には。
だからこそ、彼女は駆け出した。
互いに被害が少なくなるよう慎重にかつ迅速に。だが、今の手持ちはかなり少ない。先ほど調合して持っていた『火』の元素。火とはいっても本当の火ではなく、どちらかといえば蜃気楼のように空気が揺らぎ熱を発生させる程度のものであるが、この場においてはおそらく有効だろう。幸いなことに見た感じ、熊もそこまで凶暴な種ではないようだ。おそらく近くに縄張りでもあるのだろう。それをこの少年が偶然に踏み入れ襲われ今に至るのだろう。
「そこの少年!少し下がっていて!」
少年は無言で頷くと熊から目を離さずゆっくり下がった。
それを確認してから彼女は少年と熊の間に入り、バッグから『火』の元素が詰まった小さめの瓶の蓋を開け、中身をあたりにばらまくようにして何回か振った。
「何を……?」
少年は疑問の声を上げた。それに背を向けたまま彼女は答えた。
「まあ、見てなさい」
そう言うと彼女はまた別の瓶を取り出し、蓋を外した。今度は、あたりにまかず蓋を開け笛を吹くように蓋をなぞるように口から息を吹き掛けた。
すると、突如にして微量の火が目の前の熊に襲い掛かった。火を被った熊は軽く鳴き声を上げ一目散に退散していった。
しばらく経って森に静寂が宿る。まず先に彼女から言葉を開く。
「何故こんなところに居たの?ここは人があまり出歩かない動物が多く暮らす危険な森なのだけど?」
「あ……いえ、そんな危険な場所とは知らなかったんです。」
少年は慌てたように答えた。彼女はその答えにむしろ余計に呆れてしまっていた。
「知らないって……あなた見たところ15か16くらいよね?お父さんやお母さんはそんなことも教えなかったの?」
「あの……俺、両親がいないんです」
予想外の返答に今度は彼女が驚いてしまった。そして、こんな変な返答をしてしまった。
「両親がいない……?」
地雷を踏み抜いてしまった。そう思ったが予想に反して、少年は軽く答えた。
「ええ。小さい時に行方不明となっているんです。それで今も見つかっておらず、住まいも何年も前に追い出されて、今では浮浪の旅のようなことをしている身でして……」
存外、少年は明るく答えたが今までの人生住まいもなくこんな若い子供が楽に暮らせていたとは到底思えなかった。彼女はどうしたものかと考えた。この場でこの少年を保護しようとも考えたのだが、彼女の住まいはあいにくこの森の中だ。今もちょうど帰路の途中であった。今しがたクマに襲われたような森で匿うわけにもいかなかった。少し経ってから彼女は慎重にそっと言葉を繋いだ。
「あの……その変なことを聞いてしまって悪かったわね。お詫びに近くの街まで案内してあげる。そこで私の知り合いに尋ねて仕事の斡旋もできる限りしてあげる。それで許してもらえないかしら?」
彼女としてはこの目の前の不幸な少年に対してなるべく気を遣いながら彼女ができるなりの最大限の手助けをしてあげようと思った。だが少年からの返事は意外なものであった。
「いえ、それは結構です。ただ……一つだけお願いがあります」
「何かしら?」
「俺にその不思議な術を教えてください!」
少年から発せられた言葉は彼女が予想もしていなかった言葉だ。少年はこの術、つまりは錬金術を教えてほしいと願ってきたのだ。
いまでこそ、錬金術というのは大衆に広く認知されてきてはいるものの今でも高度な術であり習得は難しい。それをこの無一文の放浪少年は教えてほしいと願ってきたのだ。当然、彼女としてはそう簡単には容認できない。
「それは無理です」
ばっさりと断ると、少年は顔面蒼白となってしまった。
「え……。お願いします!ここに来るまでの間、何度かその不思議な術を見たことがあります。そして、その術を使って仕事をする人も見たことがあります。だから、これから生きていくために仕事をするための一芸としてその不思議な術を教えてほしいんです!」
少年に必死に頼み込まれてしまい、彼女は少し悩んでしまった。そして、しばらく悩んでからあきらめたようにため息をつき、返答した。
「少年、この術は錬金術という。錬金術は誰でも出来るような簡単な術じゃない。そして習得するのにも長い年月を要する。修行も厳しい。それを耐える覚悟はある?」
ある程度、脅しておくことも必要だ。生半可な気持ちで来られても困るからだ。だが、少年からは力強い返答が返ってきた。
「あります!」
「分かった。この近くに私の小屋がある。そこに少年もしばらく住まわしてあげる。代わりに少年、君は見習い錬金術師として今日から修行だ。まずは学問からだけどね。実技は後回し」
彼女はついてきてと手で合図しそのまま歩きだして行った。その後を少年がついていく。少し歩いてからふと
何かを思い出したように立ち止まり少年の方に振り返った。
「そうだ。まだ自己紹介していなかったね。私の名はリン=アルケミスト、二十五歳よ」
「あ、俺の名はハル=パルケルスス、十六歳です」
少年はそう答えると、リンと名乗った彼女はニコッと笑顔を向けた。
「じゃあ、ハル!うちに来なさい」
こうして、ハルとリンの師弟関係は始まった。
「ハル、君は一週間前、そうたった一週間前に修業はつらくても耐える覚悟があると言った。それが、昨日もそうだったけど、人が錬金術の仕組みを話しているときに眠っているな!!」
「それ分かってるよ師匠。でもさすがにちょっと限界。今日も朝早くからずーっと修行漬けで大変だよ」
ハルは師匠であるリンに不平を漏らしていた。だがその不平さえもリンはビシッと遮った。
「だから言っただろう、厳しくなると。並大抵の努力じゃ錬金術は操れないんだ。君は耐えると宣言した。だから頑張ってもらうよ。男なんだから約束は守らなきゃね?」
言葉は優しいが、眼は決して優しくない。リンの鋭い眼はハルを貫いていた。
「分かってるよ。早く一人前の錬金術師になって一人立ちできるようになって師匠に恩返しする」
その言葉にリンはふいにふっと笑みが零れた。
「全く、あの時のお礼はいいの。ハルが一人前の錬金術師になってくれることが恩返しだから」
「あ……」
『ありがとう』
ハルがそう返そうとしたとき、またもやリンに遮られてしまった。
「でも!それにはまずは目の前の勉強に集中しましょうね。早く再開するよ」
「ぐっ、やっぱり師匠は鬼だー!」
静寂な森にハルの叫びが響き渡ったのだった。