プールに行くのだ
土曜日の午前十時まであと二十分程。温水プール行きのメンバーが、駅前に揃いつつあった。
少年と少女が表れたのは、ちょうど五分前であった。
「おはよ」
「はよーっす」
「生美ちゃん、おはよう。今日も彼氏と一緒なんだ」
「うん、途中でね、偶然出くわしちゃって」
少女は、少しはにかんだように答えたが、これが偶然ではない事は、毎朝の登校のときと同じだ。
「十時十二分の列車で行くからね。皆、切符買っといてよぉ」
「えと、いくらだったっけ?」
「二駅先だから……、えーと、二百八十円だよ」
「ありがと。二百八十円ね」
「おはよう、遅くなってごっめーん」
「あ、国枝さん、おはよう」
「おはよう、久実ちゃん。そして、このムサイのが、お兄ちゃんの光太郎で~す」
「ムサイとは何だ、失敬な。久実ちゃん、久しぶりだね」
「お、おはようございます、先輩」
「みんな揃ってる? え~と、ひいふう、みい、の……揃ってるみたいね。んじゃぁ、そろそろ駅に入ろうか」
「皆、駅に入るよー。遅れないで着いて来てねぇ」
由香里が先頭に立って改札をくぐると、十数人の男女もそれに続いた。
目的の温水プールは、到着した駅からさほど離れていないところにあった。
「わぁ、結構大きいね」
「他にも、保養施設なんかも入っているんだってさ」
「皆、チケット持ってる? じゃ、入るよ」
「女子こっちね。男子は向こうだから。シャワーくぐった先で集合ね」
プールの入口でチケットをもぎってもらった後、少し進んだ先で男女に分かれる。
「じゃぁ、生美、後でな」
「うん、博くん。後でね」
更衣室で着替えを済ませた少年は、言われた通りにシャワーをくぐった先に腰を降ろした。
まだ、女子達は来ていなかった。女の子は、何をするにも時間がかかるものだ。
(さぁて、生美はどんな水着で来るのかなぁ。昨日の夕方、『皆で買いに行く』って言ってたからなぁ。期待しててもいいのかなぁ)
などと、いつに無くくだらない事を考えていると、ようやく女子達がやってきた。
「おおー」
男性群からどよめきが聞こえた。学校指定のスクール水着と違って、肌の露出の多い水着がほとんどである。ワンピースを来ている娘も、身体のラインがはっきり浮かび出て逆にきわどい印象を与える。
「阿久津、俺、お前の近くの席で良かったよ。たとえ人数合わせでもいい。誘ってもらえて、来てよかった。ここで一生が終わっても悔いは無い」
「ああ、それは良かったな」
少年は棒読みで友人に応えながら、少女を探していた。
(あれかな?)
髪をアップにしているので判別がつきにくかったが、一番後ろでピンクの浮き輪を持っているのがそのようだ。だが、様子が変である。何故か前かがみなのである。ただでさえ小柄なのに、更に見つけにくくなっていた。
「おおい、生美。何やってんだよ」
「あっ、博くんだ。……ごめんね、髪直してたら遅くなっちゃった」
少年から声をかけられて、少女も彼の方へ顔を向けた。どうやら、大きな何かを抱えているように見える。
「お、荷物があるんだったら持ってやるよ。かしな」
「い、いいよ、ダイジョブだから」
「ほんとにいいのか?」
「うん、だ、ダイジョブ」
少年の申し出を、少女は断った。何かしら、頬を赤くしている。それでも、級友達の後に続くと、少年達の待っているところまで、おっかなびっくりではあったが、着いて来ていた。
「じゃぁ、これからは基本的に自由行動ね。貴重品は個人で管理するようにして。あと、そこの男子達。ナンパぐらいは良しとするけど、覗きや痴漢行為は厳罰だからね。それじゃぁ解散!」
『は~い』
全員の声が聞こえて、着いた早々に、たちまち自由行動になってしまった。
「さてと、俺達はどうしようか。取り敢えず、座れるところを確保しておいてからかな?」
「そだね」
「あの辺りが空いていそうだな。生美、行くぞ」
「あっ、は、はーい」
少年と少女は連れ立って、芝生の植えられている一角へと向かった。
少年は適当なところを見つけてシートを広げると、そこに腰を下ろした。後から着いて来た少女も、そこへ腰掛けると、胸の前に抱えている荷物を降ろした。
「さて、早速一泳ぎするか。行こうか、生美」
少年が声をかけたものの、少女は座ったままタオルの下に隠れてモジモジしていた。
「ん? どうしたんだ。具合でも悪いのか?」
「ダイジョブ。……ダイジョブなんだけど」
そんなやり取りをしているところへ、少女の級友達がやって来た。
「いっく~みちゃん、上手くやってる?」
「あ、由香里ちゃん」
声をかけられたものの、少女は未だモジモジしていた。
「あ〜あ、何て格好してるのよ。彼氏に水着見せてあげなよ」
「……だって、恥ずかしくって」
「そんなコト言ってないで、ほうら」
「や~ん」
彼女は、両の手を友人に捕まえられると、無理やりタオルをはぎ取られてしまった。
そこには、少女の水着姿があった。とはいっても、黒地に白の水玉が彩られた小さな布が申し訳程度に身体を覆っただけだった。特に胸の部分は強調するように、露出していた。あとは、紐。紐のみである。
「どう、この娘。脱いだらすごいでしょう」
少年は初めて見る少女の肢体に、声も出せずに見とれていた。彼女の肌の白さと水着の黒地のコントラストが相まって、エロチックな雰囲気を強調していた。
「…………」
少年のみならず、近くの男性からも注目を浴びている。
「ご、ごめんねぇ。胸が入るの、これしかなかったの」
肌の露出が多いため、恥ずかしさで少女は真っ赤になってしまった。
(生美ってこんなに胸大きかったんだ。全然分からなかった。それよりこの水着は何だ。これって、大丈夫なのか?)
「ごめんね。こんなに胸の大きな娘ってヤダよね」
「……あ、いや、そんなことは無いぞ。胸はあった方がいいに決まってる」
少年が断言すると、由香里が横から口をはさんだ。
「ほうら、言った通りでしょう。男の子は皆おっぱい星人なんだから」
「俺は、おっぱい星人じゃないぞ」
「でも立てないでしょう、勃っちゃったから」
「うう、……すまん生美。生美の身体に欲情してしまった」
「え~ん、博くんのバカバカ、変態」
「すまん、こればかりはどうにも……あ、もしかして何とかなるかも」
何か思いついたような少年は、持ってきていたリュックの中から、幾つかの小瓶やら何やらを取り出すと、中身を目分量で計りながら混ぜていった。新しい薬液が混じるたびに色が変わったり、煙やら泡やらが吹き出すので、異様な光景であった。
「よし、出来たぞ」
完成した試薬に、少年は満足そうだった。小瓶を日にかざすと、カオスな色が渦巻いているのが傍目にも目に入る。。
「即席だが、欲情を抑える薬だ。問題は、ちゃんと元に戻るかどうかだが。まぁ、そっちはゆっくり考えるとして、……んぐんぐんぐ、はぁ。どうかな? 上手くいったか」
少年はしばらくじっとしていたが、突然ニヤリと笑うと、すっくと立ち上がった。
「俺は欲情を克服したぞ、どうだ、これで文句無かろう」
不適に笑う少年に、由香里は、
「さすがだねぇ、天才少年。こう来るとは思わなかったよ。じゃぁ、二人で健全な異性交遊でもしてらっしゃい」
と言うと、興味を失ったのか、二人を置いたまま去ってしまった。
「さあ、生美。俺達も泳ぎに行こうぜ」
と、少年はさわやかな笑顔で話しかけた。
「ひ、博くん、わたしに何も感じなくなったの?」
「そ、そんなコトはないよ。感じないわけじゃなくって……、何てゆうか、身体に表れなくしただけなんだ。今考えると、ちょっと勿体ないかな」
「わたしは、何か複雑な感じ。あ、あんなに恥ずかしい思いで買って、着替えたのに。なのに、『何にも感じなくなった』じゃ、女の子としては残念かな」
「そうなのか? でも、あそこのやつみたいに、前かがみで前を隠していたら、プールで遊べないだろう。それじゃ全然楽しめないし」
「まぁ、そうなんだけどね。わたしは、博くんにもっと喜んでもらいたかったな」
「いや、充分喜んでるよ。しかし、いつの間にそんなに大きくなったんだ。昨日の今日で、そんなに大きくなるモンなのか?」
「だって、わたし小柄なのに胸だけ大きかったら、やらしい娘と思われるかなと思って……」
「そうだったのか。でも身体にあってない下着を付けてるのは、良くないと思うぞ」
「由香里ちゃんも志野さんもそう言ってた。でもさ、カップの大きいブラは、すんごく高いんだよ。それに、可愛いのも少ないし」
「そ、そうなんだ……。でも、その水着は、すっごく似合ってると思うぞ」
少年は、明後日の方向を向いてそう応えていた。
「じゃあ、博くん。博くんはこんなエッチい水着が好きなの」
「いや、エッチいのが好きなんじゃなくて、ガラなんかが似合ってるってこと」
「ほんとに?」
「本当、本当だよ」
「ん。なら、許してあげる」
(ふぅ、やっとご機嫌になったな。てか、俺、今まで怒られてたのか? 何か釈然としないが……。まぁ、いいや)
少年は、一応少女と仲直りできたようである。二人で、温水プールに向かった。
「隊長、阿久津・榊ペア、二人の親密度が上がってきたようであります」
「ウフフフ、とりあえず計画通りね。久美ちゃんの方はどう」
「国枝・相馬ペア、相馬久実嬢が萎縮して、進展が見えない模様」
「こっちは、未だまだか。学年とクラスが違うのは、ハンディが大きいね。何かてこ入れを考えないとならんかもなぁ」
その時突然、少年達を監視していた女子の双眼鏡が、<ピシ>という音と共に使えなくなった。
「ひゃっ、びっくりした。なんなのよ、これ」
双眼鏡を確認すると、レンズの部分にヒビが入っていた。のみならず、レンズ全体が黒く変色していた。
「あーりゃりゃぁ。気づかれちゃったかぁ。まぁいいや。生美ちゃんの方は、上手く行っているようだし。しょうが無いけど、久美ちゃんの方に集中するとしよう」
彼女達の監視に気付いて双眼鏡を使用不能にした少年は、別の問題を抱えていた。
「覗きはNGと言っていた本人が覗きとはね。まぁ、これで変なことは止めるだろう。それより問題は、これだな」
少年は、周りの男達の目線が気に入らなかった。どうしても、少女の方に目が行ってしまうのである。
(まぁ、エロい格好してるからな。しょうがないとはいえ、気にくわんな)
「博くん、たのし?」
「えっ? ああ、楽しいよ。生美と一緒だからね」
「そか、よかったぁ。何か渋い顔してたから、詰まらなかったのかなって思っちゃった」
「はは、ごめん。周りの視線が生美に向かうのが気に入らなくてね。これはちょっと面白くないことだな」
「あっと、ごめんね。やっぱ、スク水の方がよかったかなぁ」
「それは止めといて正解だな。別の意味で注目浴びるから」
「アハハ、昨日、おんなじこと言われた」
「だろう」
「あ、やっと笑った。渋い顔してるより、笑っている博くんの方がやっぱりステキだよ」
「そうか?」
「だって、こ~~んな顔してたもん」
「そんなに酷かった?」
「そう、酷かったよう。でもね、良く見ると、博くんも女の子の注目浴びてるんだよ。『これはちょっと面白くないことだな』、なんてね」
「そうか? 全然気が付かなかったぞ」
「博くんは、自分が思ってる以上にイケメンなんだよ」
「そうかなぁ。全然意識してなかったけどな」
「そうなんだよ。だって、わたしの彼氏なんだから、イケメンに決まってるじゃない」
「おい、生美。お前って、面食いだったのか?」
「それほど面食いってわけじゃないけど、イケメンならそれに越したことはないよ。女の子の胸とおなじかな」
「なるほどね」
などと他愛の無い雑談をしながら、二人はプールを楽しんでいた。
そのころ、例の不良集団といえば……、
「おい、この問題どうだ」
「3で割るので、いいのじゃないか?」
「やった、分数の足し算ができるようになったぞ、勉強楽しー」
と、宿題に取り組んでいた。なので今回の出番は無い。
「生美、そっちは急に深くなってるから危ないぞ」
少年は少女に声をかけた。
「だいじょぶだよー」
少女は元気にそう答えたが、その直後、水の中に引きこまれるように沈んで見えなくなった。
「生美!」
少年は急いで少女が泳いでいた辺りまで泳ぎ着くと、水中に潜った。水の中で少女はぐったりとして、口の端から泡がこぼれているように見えた。
少年は、少女に近づいて手を取ると、水面へと急いだ。水から頭を出すと、浅瀬まで少女を引っ張って泳ぐ。
「生美、大丈夫か!」
急いでプールの外に引き上げると、少女の様子をみた。心臓は大丈夫そうだが、息をしていない。人口呼吸が必要だ。少年は、少女を仰向けに寝かせると、気道を確保。人口呼吸をしようと顔を近づけると、いきなり目を覚ました少女の頭で、アゴを強打されてしまった。
「うぐ、たたたたた」
目を覚ました少女は額をさすりながら、アゴを押さえて呻く少年に気が付いた。
「ひ、博くん、だいじょぶ!」
少女は完全に息を吹き返したようだった。
「大丈夫か、はこっちの台詞だ。お前、溺れかけたんだぞ」
彼に強く言われて、彼女は「ケホケホ」と軽く咳き込んでいた。
「少し水を飲んじゃったけど、だいじょぶだよ」
「本当に大丈夫なんだな。凄くビックリしたんだぞ」
「ごめんね。足滑らせちゃった。ああ苦しかった」
照れくさそうに舌を出す少女は、すこぶる元気そうに見えた。ならば、取り敢えずは問題なさそうである。
それでも少年は安心しきったわけではなかった。リュックを開いて、中からパーカーを取り出すと、
「これでも引っ掻けてろ。身体を冷やさないようにしないとな」
上着を受け取った少女は、
「うん、ありがと」
と返事をして、パーカーを羽織った。
「ついでに、これ飲んどけ。少し楽になるぞ」
そういって、彼は小さな丸薬を取り出すと、少女に渡した。
「うん、ありがと」
少年の薬を左手で受け取ると、水筒のお茶で喉に流し込んだ。
「あ、何かさっぱりする」
「どこも何ともないか?」
少女は既にケロッとしていたが、少年はきがきではなかった。
「だいじょぶだから、心配しないで。……あ、ごめんなさい。博くん、ちょっとだけ向こうを向いてて欲しいんだけれど」
「何だ。どうしたんだ」
「いいからあっち向いてて。水着の紐が弛んでんの」
彼女は、理由を口にすると、少年に背中を向けた。
「あ、そうか。ゴメン」
解けかけた肩紐を認めて、少年は顔をそむけた。
「もういいよ」
そう言われて、少年が向き直ると、少し顔を赤らめた少女がいた。
「ついでだから、お昼にしよ。おべんと、作って来たんだ」
そう言うと、少女は、シートの上にお重を並べ始めた。
「そうだな、昼時だし」
若干のアクシデントはあったものの、少年と少女は楽しい一日を過ごすことができた。
そして人類は、その滅亡までのタイムリミットを一日分だけ引き延ばすことができたのだ。