お泊りの翌日は
少年は少し悩んでいた。
今、安らかな寝息をたてている少女を、起こすべきか、否か。可愛らしい寝顔をいつまでも見ていたい気もするし、早く起こして少女との時間を過ごしたい気もする。
──何でこうなった?
かというと、少女が昨日、少年の家に泊まったからだった。
大好きな少女。少年のことが大好きと言ってくれた。そして二人でキスをした。
夕御飯は二人で作ったカレーだった。少女は中辛が苦手だったようで、ライスを多目にルー少な目で食べていた。
ひとしきり、リビングで夕食後の談笑を終えると、少年は少女をゲストルームに案内した。
「俺の部屋の隣だ。この部屋を使うといい。コンピュータ、この部屋を生美のプライベートルームに設定しろ」
《了解シマシタ。……登録完了シマシタ。ドウゾオ使イ下サイ》
「生美、入ってみろよ」
「えーと、……榊生美です。扉を開けて下さい」
《カシコマリマシタ、ドウゾオ入リ下サイ》
電子音がこう応えると、目の前の扉が自動的に開いた。
少女は、そのまま部屋の中に入った。
「おい、生美。俺の入室を許可してもらえないかな」
「あ、そなんだ。コンピュータさん、博くんの入室を許可して下さい」
《カシコマリマシタ。入室ヲ許可シマス》
「ありがとう、これで入れるよ」
たかがオーナーを入室させるのにさえ許可が必要なのかと、過剰なセキュリティに少女は面食らっていた。そして、室内を見聞して、更に驚いた。
「わぁ、すんごいお部屋。これで、一人用の客間なの?」
「まぁ、基本は一人用。ベッドはキングサイズだから、どんなに寝相が悪くても大丈夫だぞ」
「わたし、そんなに寝相悪くないもん」
「一応、シャワー・トイレつき。ドレッサーはここ。冷・温蔵庫と簡単なキッチンつき。ウォークインクローゼットもあるから、例えてみれば、ホテルのスイート並みかな。ま、俺は部屋付属のシャワーよりは、共同の大風呂をお奨めするけどな」
「博くんの部屋とは、大分様子が違うね」
「ああ、あそこは仕事部屋兼用だからな。ここと同じ仕様の客間が五部屋。あとビジネスクラスタイプが十二部屋用意してある。後はぁと、研究施設とか倉庫とか、非常時の自家発電システムや浄水供給システムとかだな」
少年に、大雑把な様子を説明してもらって、少女は、改めて彼の資産が一般人のそれとはかけ離れていることを知った。それと同時に、こんな事も頭に浮かんだ。
「これなら、いつ家出してきても、だいじょぶだね」
「おいおい、物騒なことを言うなよ。さぁさ、子供はオネムの時間だぞ」
「んもう! 博くん、いつまでも子供扱いなんだから。わたし着替えるから、出て行って」
「分かった、分かった。……俺は、一仕事あるから、先に大風呂を使ってもいいぞ」
高校に通っているのに、『仕事』があるなんてところも常人離れしている。学校の授業など、少年にとっては、本当の意味で暇潰しなのだということを、少女は心底感じた。だが、今は彼の本業を邪魔してはいけない。それだけは、彼女にも分かった。
「うん、分かったよ。……でも、お風呂、覗いちゃダメだからね」
もしかすると図星だったのか、少年は少し慌てて言い返した。
「む、俺は、そんなことしないぞ」
しかし、少女もカマをかける。
「でも、わたしの写真集のページに加えたいでしょ」
「うぐぐ、それはそうだけど。……って、しないよそんなこと。目の前に本物がいるんだから」
一瞬、少年の頭に邪な考えがよぎったものの、それは我慢した。そんな彼の様子も、少女にとっては、大事な思い出の一つとなる。次の瞬間には、彼女は笑顔を取り戻した。
「あははは、そうだったね。じゃぁね、博くん。お仕事頑張ってね。でも、夜ふかしとか、無理はしちゃダメだよ」
「うん。じゃあな」
少年が部屋を出ると、それを確認するように、扉が自動的に閉まった。
少年が今日予定していた仕事を終えた時、時計の針は午後十時を回っていた。米国物理学会誌から、レフリーを頼まれていたのである。投稿してきた論文に、掲載する価値があるのかどうかを審査するのだ。特に今回の審査は面倒だった。前任のレフリーが、投稿者のあまりの英語力のなさに匙を投げて、日本人だからという理由だけで、こちらに押し付けてきたのだ。中世的で暗号のような複雑で分かり難い英文を一通り読むと、少年も何だか面倒臭くなってしまった。
『書いてある内容は興味深いが、このままでは紙面に載せられない。もっとちゃんとした英語にして、チャレンジするように』
と、日本語で書き記して、突き返してやった。
「さてと、生美はもう寝たかな。俺も一風呂浴びて、寝るかぁ」
そう呟くと、少年は、着替えを携えて風呂場に入った。脱衣所の様子を見て、少女が先に入ったことが分かった。彼女がもう出ていることを、しっかりと確認する。そして少年は、着衣を脱ぐと、風呂場に進んだ。
心地よい湯に浸かると、さっきまでの肩の凝りがほぐれてくるのを実感した。身体が暖まると、髪と身体を洗い、もう一度湯に浸る。
しばらく湯に浸かった後、身体を拭いてパジャマに着替えた。脱いだ服は、洗濯室の全自動洗濯乾燥機に放り込む。最後に、窓と換気扇を確認すると、後はオートセキュリティに任して、自室に戻る。
一応、全システムが正常に機能していることを確認してから、ベッドに横になった。程なく睡魔がおそって来る。そして、少年は眠りの世界へと引き込まれて行った。
それからどのくらい経ったであろう。
少年は何かを感じて、ふと目を開いた。微かだが、何か生温かい風を感じる。恐る恐る風の来る方角に顔を捻ると、そこには……、
「え? 生美!」
思わず声に出てしまった。
そこには、少女の安らかな寝顔があったのだ。
(え? えっ? 何があったんだ。あれ? えーっと、これは……)
少年も、この状態を飲み込むには、少し時間を要した。
彼は、ベッドの上で眠っていた。傍らには、静かに寝息を立てている少女の顔。どうやら、ベッドの脇に座り込んでうたた寝をしているようである。よく見ると、横になった頬の下で、両手が枕のように組まれている。
少し考え込んだものの、少年には何事が起きたのかが推定できたようだ。
布団から這い出て少女の傍らに膝を着くと、彼女の身体を揺さぶった。
「生美。おい、生美。何やってんだ。風邪引くぞ」
しばらくそうして声をかけ続けると、ようやく少女にも意識が戻って来たようだ。
「ふわぁー……。何、どしたの? ……ひ、ろし、くん?」
未だまだ寝ぼけてはいるものの、少年を認めて、ぼんやりとした返事をした。
「そうだよ。何やってんだ? こんなところで寝落ちするなよ。ちゃんと、布団で寝ろ」
「うーん? えへへ、やっぱり博くんだぁ。……あのね、わたし、博くんの寝顔が見たくってぇ。ふぅ……むにゃむにゃ……」
「いや、だから、ここで寝るんじゃないって。もう、どうしようか」
さすがに少年も、コレをどうしたものか悩んでしまった。首を捻って、チラと壁の時計を確認する。
(夜中の三時かよ。参ったな……)
彼が逡巡しているとき、
「はくちっ」
と、少女がクシャミをした。
「あーあ。エアコンがかかっているとはいえ、そんな風にしていると、本当に風邪を引くぞ。おい生美、しっかりしろよ」
そうやって少年がなだめすかしても、一向に彼女が起きる気配はない。
「しゃーないか」
覚悟を決めたのか、少年は座り込んでいる少女を抱き抱えると、彼女を自分のベッドの上に放り上げた。
「やぁー、博くん、乱暴……」
「はいはい、乱暴で悪かったな。ちゃんと枕に頭乗せて。布団かけるぞ」
「ふわ~い……」
少女は寝ぼけて、そう答えた。
「眠れそうか?」
「温かぁーい。お布団、大好きぃ……。ふみ……」
それを最後に、彼女は少年の布団で、再度眠ってしまった。
「やれやれ……。しゃーないな、仕事でもするか……」
遂に彼も諦めがついたのか、パジャマの上にカーディガンを羽織ると、作業デスクに向かった。急ぎの仕事ではなかったが、この際何でもいい。ディスプレイの電源をオンにして、2・3の案件を片付けにかかった。
これが昨夜の顛末である。
そして、空が明るくなり始めた時、少年は大きく伸びをした。時刻は午前六時の少し前。
振り返ると、彼のベッドを占領した少女の、愛らしい寝顔がある。
「やれやれ……。もうそろそろ起こすか」
深い溜息を吐いた少年は、ベッドに近づくと、少女の肩を揺さぶった。
「生美。おい、生美。朝だぞ。おーい、大丈夫かぁ」
そうやって声をかけながら揺さぶっていると、少女は「うーん」と声をあげた。
「生美、起きる時間だぞぉ」
もう少し揺さぶってみる。すると、遂に彼女は、薄っすらと目蓋を開いた。
「やっと目を覚ましたか。お早う、生美」
「……ふにぃ。おはよ」
どうも、未だ意識がはっきりしないようだ。
「生美、お早う。よく眠れたか」
少年が続けると、少女の目に光が戻り始めた。
「はぁー、ひろしくんだぁー。おはよー」
未だ心許ないが、ようやく目覚めたようだ。
「あれぇ。わたし、どして、こんなところに居るんだろ」
「大丈夫か、生美。おまえ、俺んちに泊まりに来たんだろうが。ついでに、俺のベッドまで占領しやがって。それより、生美。どうして、俺の部屋で寝ちゃったんだ?」
少女は、「ふわぁ」と大きな欠伸をすると、少年の方へ顔を向けた。
「おはよー、博くん。気持ちのいい朝だね」
「お早う。……いや、それより、どうしてこうなってんだ、生美」
そう問われて、少女は再び夢心地になりかけた。昨夜の記憶を呼び覚ましているのだろうか。
「ああ、そっかぁ。そうだった、そうだった」
と、自分一人で納得してしまうと、
「えへへ、なんかね、あんな大きくてフカフカのベッドって初めてだったんだ。それで、眠れなくなっちゃってぇ」
ぽやぽやした返事があった。どうにもよく分からないが、取り敢えず最後まで聞こう。彼は、目つきだけで先を促した。
「そんでね、博くんの寝顔を見に来たんだよぉ。ふふ、かぁいー寝顔だったなぉ」
「それだけ? たったそれだけのために、俺の部屋に押し入ったのか?」
「そだよ。博くんが安らかな寝顔をしてるから、わたし、幸せな気分になっちゃったぁ」
少年にも、何とはなく、昨夜起こったことが分かりかけてきた。
「それで、ベッドの脇で値落ちしたと……」
「せぇーかーあーい。でも、どーして、わたし、博くんのベッドで眠ってたんだろ。全然覚えてないや」
それはそうであろう。夜中過ぎに気がついた少年が、ベッドの脇の少女を自分の寝床に寝かしつけたのだから。
「分かった。そう言うことだったんだな。はぁ、全く……。とにかく朝だぞ。俺は着替えるけど、生美はどうする?」
少年が頭を掻きながら問うと、少女も少しははっきりしてきたようだ。
「着替え? あっ、そか。……むむむむ。わたしも着替える。自分のお部屋に戻るね」
彼女も、状況を把握できたようだ。慌ててベッドから降りると、トテトテと出入り口まで行く。
「そんじゃね、博くん。後でねぇ」
恥ずかしさを誤魔化すように言って、彼女は廊下に飛び出た。<バタバタ>という足音は、後から聞こえたような気がした。
「やれやれ……」
そう呟いて、少年はクローゼットに向かった。
しばらく残務処理をしてからリビングに行ってみると、キッチンの方から物音がしていた。覗いてみると、既に着替え終わった少女が、いそいそと台所仕事をしている最中だった。
「あっ、博くん。もう着替えてきたんだ。昨夜は、お仕事お疲れさまです。すぐに朝ごはんの用意をするからね。適当に座って待っててね」
昨日やってきたばかりだというのに、キッチンで忙しなく働いているエプロン姿が、やけに似合っている。最後の台詞では、ゲストとホストが完全に入れ替わっていた。
だが、そんな細かいことを気にしていても仕方がない。少年は、彼女に従うことにした。
キッチンに隣接するダイニングに向かうと、テーブルについた。夜なべをした所為か、身体に強張りが感じられた。無意識に首を回していると、少女がやってきた。
「はい、お茶どうぞ。熱いから気をつけてね」
「おう、ありがとう」
「どういたしましてぇ」
湯呑を手に取る少年に対して、まぁるいお盆の向こうから「うふふ」と照れたような声が聞こえてくる。
そのまま口をつけると、緑茶の爽やかな香りとともに、適度な熱さの液体が口の中を潤す。
「ふぅ、美味い」
思わずそんな言葉が、口をついて出てしまった。再びキッチンの方を向くと、味噌と醤油の香りが漂ってくる。朝食は和食のようだ。
(家庭的って、こんな感じの事を指すんだろうか?)
今まで味わったことのない雰囲気を感じて、『満更でもないな』と思い直す少年であった。
今日の日は、どうなるのであろう。きっと、平和で和やかな一日になるに違いない。そして、地球人類はその滅亡までのタイムリミットを、もう一日だけ延ばすことになるのだろう。




