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受験が終わって、ゆっくりと羽を伸ばせると思っていた春休みも、実際には思いの他、忙しいものだった。
新しい制服を試着して、教科書を買いに行き、サイズの合わなくなった服を古着屋で探して値切り倒す。
口の良く回るリツキが交渉役で、カツキは荷物持ち。体力不足で、ときどきへばるので、リツキの文句はとどまることを知らない。口をへの字に曲げながらも、カツキはリツキの後を追いかけて、春の陽射しの中、歩き続けた。
「ねえ。高知には、いつ行くのかな?」
「さあな。何考えてるのか、わかんねーよ」
今日は、流行で埋め尽くされたファッション・ストリートを、ティーンエイジャーに混じって、双子たちも闊歩している。
よく晴れた午後。リツキはさっきから、腹が減ったと繰り返している。目的地である定食屋は、街の中心部を占領する建築現場に、作業員の為に建てられたものだった。
ハンバーガーを食うより、安くてボリュームがある。というのが、サイフを握るカツキの言い分で、二人はせっせと歩いていた。
「昨日も、電話来てただろ? 催促されてたはずなのに」
三人で、仕事の旅をする予定を立てていたのは、三日前。
なのにセイジは難しい顔をして、双子を避けるように早朝アパートを出て、夜中に疲れて帰ってくる。
疲労した顔色からみても、どこか一人で片付けられる仕事をしているらしいが、口に出しはしない。
最も、家の中では、依頼の話しはタブーになっている。
凄惨で悲惨な成り行きだから。男ばかりで殺風景な団欒とはいえ、それ以上場を寒くする必要はないのだ。
「……時間が経てば経つほど、祓いが難しくなるってのに。
何を考えてるんだか」
わずかにセイジが漏らした情報では、高知に住むある家族の幼い三兄妹が、奇妙な心霊現象に悩まされ、意識さえ支配されているらしい。
元天使たちも、双子も、一つの宗教に規範をおいているわけではないので、悪魔や魔物という呼称に執着してはいない。無論、キリスト教に組みしているわけもなく、『祓い』という言葉も、正当な意味ではないだろう。
彼等は『道具』を持たないし、使う必要も感じていない。
体一つでいい。それも、強固な意志を内在した、何ものにも囚われない自由の想い。
想いの強さが、正常な人間としての行動を無意識に逸脱した者を目覚めさせ、導く。
悪魔に身を委ねた者。死霊に憑かれた者。自分の欲求を押さえ切れず、狂い続けている者。
どろどろとした欲と苦悩に満ちた暗黒の都から、白い道を繋いで彼等を引き戻す。
阻まんとする黒い触手へは、元天使たちは鋭い言葉の矢を投げ付ける。
『己のあるべき地へ還れ!』
双子たちは、言葉が意志を持ち、効力を発する光景を、その時初めて目にした。
祈りの力が、リツキの得意とする念動を起こすなら、彼等は理解できる。
声が神聖な輝きをもって放たれ、虹の剣になる……。
純粋な天使の精神が結晶した奇跡だと、双子は目を見張って、光のかけらを瞳に焼き付けた。
「! リツキ、事故だ……!」
立ち止まったカツキが、額を押さえた。
のぞき込むと、黒々としていたはずの瞳が薄く青みがかっている。リツキは、カツキの帽子の鍔を深くしてやった。
「気にするな。……戻って来い。俺たちに関係ないだろう?」
声をひそめ、リツキは肩を揺さぶった。
瞬間的に誰かの精神波と、鋭敏な神経を交錯させたカツキ。誰かと対面することも、怖くてできないはずなのに、浮遊する、まったく見ず知らずの人間の感情に、強く引き摺られ同調できる。その人間の苦しみを味わい、カツキの顔は、見る間に色を失った。
「……リツキ……、凄い音がして鉄材が落ちてきた……。
体が動かない……。痛いよ……」
「バカ野郎! 戻って来いって言ってるだろ!? カツ!」
助けを求めて、カツキがしがみつく。
……お前じゃない! 死に掛けているのは、お前じゃないだろ、思い出せ!
冷えてゆく。突然、カツキの体温が急激に下がる。
戻って、こない……?
このまま他人に引き摺られて、こいつも死ぬのかよ!?
どうしてだよ! なんでこんなに……?
日常茶飯事に起きる、同調の度合いではなかった。
……誰か、居る?
同じ力を持つ人間が、死にかける人間の側で、嘆き、心を乱している……?
「誰だよ!? 消えちまえよ!」
リツキは吼えた。空に向かって、奇異の視線など、目に入らない。
「!」
目の前に、空よりも青い、広いシートに覆われた巨大建造物が屹立していた。
物資運搬の為、巨大に造られたゲートが、リツキの視界に入る。横幅8メートル、高さ9メートルの蛇腹式の鉄の扉。細く開けられたその場所に、作業員たちが青ざめた顔で、うろついている。
「誰か、居るよ……。呼んでる。叫んでるよ……、リツキ」
ポタリと、涙のしずくがリツキの手に落ちた。
「カツキ、あそこだな? 行くぞ。ここから離れるんだ」
「待って。……出てくる。彼が」
脱力し、リツキの肩にうなだれながら、カツキはゲートを見守った。作業員たちが二手に別れる。扉が機械的な音を立てて、左右に精一杯大きく開く。サイレン音が、その場に響き渡る。
「男か?」
「うん。キャランより10歳は年上かな……。30代半ば。モス・グリーンのスーツが、泥と血でどろどろだ。あの人……、白い服を着た人が真っ先に駆け寄ってきて……」
ブルっと、カツキは体を震わせた。
「彼が、のしかかっている鉄材を全部退けてくれた……」
「なんだって? 鉄材を……?」
……事故現場に駆け付けてくる他人の目の前で、『力』を使ったのか……?
そうに違いない。どんな屈強な人間でも、人一人に重傷を負わせた鉄材を、そう簡単に避けられるわけがない。
リツキは、一瞬、呆然とした。
普通なら、いや、リツキなら、そんな真似はしたくない。
他人の、異物を見る視線、バケモノを見た視線が、リツキに集中するだけ。人命救助に対する評価は、超常現象の前では無になるものらしい。だから、あんなにも気まずい白い目に囲まれるのは、絶対に願い下げだ。
鉄材を浴びたのがカツキなら、話しは別だ。カツキを守る為なら、リツキは何でもする。
……その白い服の人間も、同じなのかもしれない。全てを捨ててでも救いたい相手なのだろう。
間違いなく、そいつだ……。心を乱してカツキと同調し、指向性のない苦痛の精神波を巻き込み、ぶつけた。
後部ドアを開け放したままの救急車が、ゲートに姿を現した。路上に飛び出す寸前に停車する。
中から、救急隊員に押し出され、やむなく飛び降りた少年。何かわめき、肩までの短い黒髪を振り乱し、怪我人を指差し言い張る。言葉の意味は、六車線の道路をはさんだ双子には届かなかった。
「……あいつ……」
我を忘れリツキは呟いていた。
しまいには突き飛ばされ、追いすがる少年は歩道に転がった。後を追いかけてきたスーツの青年が駆け寄る。
青年も蒼白な顔で、歩道に座り込んだままの少年を見下ろした。気遣う素振りはなく、恐れを頬に滲ませている。
救急車は、まっしぐらに走り出してゆく。
カツキは瀕死の重傷者を見送った。
リツキは、誰も触れる者のない少年を見守り続けていた。
青年が、少年に声をかけた。かたわらに急停車した黒塗りのセダンを指し示している。人が変わったように、瞳を虚ろにした少年は、のろのろと立ち上がった。
車の中からコートを取り出し、青年は少年に手渡した。
「見るな、カツキ」
カツキの目を両手で覆った。カツキには残酷すぎる。
少年は、全身浴びたように血まみれだった。カツキの呟いたような白い服ではなかったが。グレーのロング・ジャケットに赤黒く隠しようもなく血痕が広がっていた。
「何なの? リツキ……」
無造作にコートを羽織り、少年は一つ息を吐いた。
空を見上げ、目を閉じた。
尽きない祈りを、吐き出したかのように。静止した彼は、神々しい彫像になった。
白い肌。真紅の唇。夏の日、最初に同じゲート前で出会った時とは印象を違える、肩に触れる長さの黒く軽い艶髪。毛先を軽く乱し、シャープなカットを駆使した、ファッション・モデルを意識したようにヘア・スタイルが、以前より彼を、やや幼く見せている。
古めかしい、腰まで届く長髪も、非現実的な雰囲気をもつ少年には、十分自然で似合っていたけれど。
今は、なにげない動きにあわせて揺れる襟足から、細く白い首筋が露になり、頼りなげで、なぜか胸を締め付ける。
同じように、ほっそりとして、しなやかな全身。
昼の陽射しの中でも、精巧な美しさは見劣らない。
半年前、哀れな運命の犬どもを、この建設現場に連れて行った少年だった。リツキは、見違えてはいない。
目を見開くと、少年は待つ青年に告げた。一言。絶対の支配者のように吐き、青年は一度頭を垂れて従った。
車に乗り込もうとした少年が、ぎくりと動きを止めた。
何か恐ろしい物に触れたかのように、頬を堅くした。
「……リツキ……、どうしたの?」
カツキの声が、耳を素通りする。
少年が視線を巡らす。居場所を察知して、確実に狙い定め、心の無い目を向けた。
……なんで、こんな目をするんだ……? 何を見てる?
俺たちに……、俺に何を見ようとしてる……!
背筋を言い様のない恐怖が登ってくる。
射抜く視線が、リツキを放さない。
「誰……? リツキ、知っているの?」
リツキの手を外し、カツキはリツキの様子をうかがった。
「……なんでもない……」
絡み取られたリツキの視線の先を、カツキもまた同じように見据えた。
同じ能力者が三人。一人と二人には、距離は無いに等しく、感情が近付こうとして、火花が散った。
一対二は、融合することなく現実に戻った。
少年が大人びた笑みを造った。それは彼の別れの挨拶。
車に乗り込み、二度と振り返りはしなかった。黒塗りのセダンとともに、滑らかな頬に絶望ではなく確信を輝かせ、少年の姿は消えた。
身動ぎしない兄弟を取り残し、街は動き出した。
パトカーが到着し、ゲートに飛び込んでゆく。
再び大きく開いたゲートの彼方に、広々とした芝生の丘が広がっていた。空はシートの青一色。その中心。頂点にきらめく塔が在り、数秒の後、鉄のゲートは音を立てて閉ざされた。
「カツ、帰るぞ……」
「だってリツキ、お腹空いてるんだろ? 行こうよ?」
わざとらしい陽気さで明るい声を張り上げ、カツキが背後から腕を引いた。
リツキは目を細くして睨みつける。
「アパートに帰っても何もないし、セイジは夜まで帰ってこないんだもの、造るの面倒だもの」
「よく見ろ、閉まってるぜ。バーガーで我慢しろ」
カツキは頭を傾げた。気付くと、ゲートから作業員が次々に吐き出されている。昼の休憩時間には遅すぎる。一様に不景気な顔をして、彼等は散ってゆく。
「あの、何かあったんですか?」
好奇心には勝てず、カツキは思い切って、歩道橋を越えてきた一人に声を掛けた。中年の作業員が、頭を振りながら口を開いた。
「どうもこうも。今日は作業中止だ。それも無期限でな」
「さっきの事故のせいで?」
男は急に、カツキを疑うように目をすがめた。
「詮索する気はねーよ、おっさん」
リツキが男の警戒心を読み取り、軽口を叩いた。
「ごめんなさいっ。こいつ……、口が悪くて」
不機嫌な一人と、咄嗟に謝る一人。そっくりな顔の二人に、男は目を丸くした。
「それだけじゃない。問題があるんだ、この現場は……。まともじゃないぜ」
吐き捨てて、男は何かを隠し立ち去ろうとした。
「もう一つ、教えて下さい。誰が運ばれたんですか?」
振り返った男に、警戒感は無かった。あるのは同情だ。
「あのパークのオーナーだ。建設事業を推し進めている企業のボス。まだ若いが、恐ろしく腕のいい社長で、どんどん会社を大きくした男さ。
だがな……信じられん事故だよ。まったく……」
背を向けた男に、カツキは頭を下げて礼を言った。
「まともじゃない場所とか、信じられない事ってのは、セイジや俺たちの範疇だと思うが。
依頼がない限り、俺たちは無関係だ。頭を突っ込むんじゃないぞ、カツキ」
「……うん」
不可解な、というだけで、エクソシストの出番だと決め付けるわけにはいかない。
あの男は『祟り』を連想していたらしいが、怯える人間はそういったものに転嫁しやすい。どんなに気丈に見える相手でも、心の奥底には、暗い畏怖が漂っている。
ごく普通の人間が、見せる反応だ。
純粋に白い精神の人間などほとんどいない。
カツキは、服に見えた少年の白さが、精神の輝きだったと思い当たっていた。
半年前から、あの少年の存在を知っていたリツキは、関わりたくないと感じていた。カツキなら、助けに駆け寄ろうとするだろうから。
カツキを関わらせたくないから、彼等のことは忘れる。
『……俺たちに、手を出さない限りな』
『何人までが、『君達』なのか、わからないけど』
……俺と、カツキのことだよ……!
「腹が減った……。カツ。お前、買って来いよ」
「! 嫌だよ。そーやって、リツキはズルしようとするんだから。行くよ。ほら、歩いて歩いて」
「面倒くせーなーっ」
晴れた空にぼやき続け、カツキに引っ張らせて、リツキはその場を離れた。
二度と、ここには近付くつもりはなかった。




