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一人きりで、リツキは夜半の街をうろついていた。
都市の中心部方向を見透かすと、密集するビル群を遮って、何の明るさもない、黒い影だけの建造物が建っている。
唯一、天に最も近い縁で、無数の赤い光点が明滅している。それは建築中の巨大建造物の存在を、街や空に向けて誇示する小さな光。
金に飽かせ、都市の中心を占拠するテーマ・パークだ。
リツキは、赤い光に向けて空き缶を蹴り上げようとして、止めた。肩をすくめ、9月に入ったとはいえ、まだ蒸し暑いコンクリート・タイルの歩道をぶらぶらと歩き出した。
向かうあては無い。なんとなく、新鮮な酸素を欲しがる魚みたいな気分で、アパートを出てきた。
ジーンズのポケットに両手を突っ込んだ、猫背ぎみの姿勢。166センチの身長に比べれば、不釣合いなくらいリツキは痩せている。唯一、あどけなさの残るわずかな頬の膨らみは、彼がまだ15歳の少年であることを示していた。
柔らかく癖のない黒髪はやや長めで、前髪は黒々とした瞳にかかっている。その瞳の輝きは、目に入るすべてを拒絶するように、切れ長の目尻で堅い鋭さを含んでいた。
「平和、だよな……」
大人ぶった台詞だと、リツキ自身も承知している。
けれどリツキは、この街が、すべてが、贅沢と虚飾に満ちていて、それは目に見えない平安の上に成り立っているせいだと知っている。
法律や警察、人権保護団体。親、家族。
そのどれもが、リツキたち兄弟には効果のないまま14年が過ぎた。14年目に、平和を与えてくれる保護者に出会えたのが不思議なくらいだ。今でも、彼等は変人だとリツキは決め付けている。
事実、保護者たちは普通の人間ではなかった。
元天使と前天使。そう、二人は自称している。
「……選択間違えたよなぁ。他に働き口がないからって、なんで俺たちが奴らの手伝いしなきゃなんないんだ?」
悪魔祓い。元天使二人は、有能にして確実なエクソシストとして現代に生きている。……信じ難い話しだ。現実に、二人の背中で羽ばたく真っ白な翼を目にしていなければ、笑い飛ばして、絶対に認めたりはしなかった。
夜に生き、夜の闇を最も安らげる場所として、幼い頃から兄弟は好んできた。彼等を生かすものは自分自身以外に無かった二人は、元天使の庇護と引き換えに、エクソシスト見習いに就職した。
おかげで、ほとんど無縁だった学校にも、今年の春、中学三年生として通えることになった。
野宿の心配はない、帰る家もある。三度の暖かい食事もある。360度に神経を集中させ怯えて暮らす必要も、モルモットにされる心配もない。
なのに、まだ。息苦しい。
庇護者は精神的なものだと慰めた。慣れていないのだと。
「仕方ねーだろ……。まともな生活してこなかったんだしな。その点、カツキはいーよな」
適応能力が高いとゆーか、妙なくらい普通の生活に馴染みやすいとゆーか……。
同じ顔、同じ体格でありながら、中身は大きく異なっている弟、カツキ。
世界中で唯一の肉親であり、もう一人の自分。
二人は一卵性双生児だった。
「!」
嫌な臭いが、リツキの鼻孔に触れた。
いきなり立ち止まったリツキを、OL風の若い女が眉をひそめながら避けて行った。
この女には、わからないんだ……。
リツキは確信して足を早め、歩道橋を駆け上がった。
彼だけを誘うように、夜の風にあおられ、血の臭いが漂う。四車線の車道を挟むビル群、高級マンション。ここには似つかわしくない鉄錆びた死臭は、リツキにとって嗅ぎ慣れた気配だった。
……お節介にも駆けつけてしまいたくなるのは、元天使たちの影響だ。それ以前なら、面倒に巻き込まれたくなくて、カツキを追い立てて逃げ出していた。
「ここは……」
さっきまで見上げていた、街の中心部を占領している建築現場の目前に出ていた。
巨大スタジアム二つ分が優に入る広さ。外周を高さ六メートルの遮蔽壁で囲み、その上は、十数台もの巨大クレーンで吊り上げたブルーのシートで覆っている。
地上40メートルという、赤色灯の明滅する頂点は、周囲のビル群の中では最も高い位置にあった。
アミューズメント・パークと居住区、自然公園が一体化した、未来志向都市のモデルパークが完成するらしい。
死の臭いは建築現場の奥から漂ってくる。随分遠い。なのに、強烈な発散の仕方。
かなり悲惨な死に方だな……。
リツキの直感が、足の動きを鈍らせた。と、犬の鳴き声が。
歩道を近付いてくる奇妙な一団を、リツキは身構えて待った。すすり泣きのような、犬たちの低い声。5、6匹のそれぞれ種類のの違う小型犬が、一人の人間に連れられてリツキの脇を通り過ぎようとしていた。一ヶ所だけ半開きの、遮蔽ゲートの入り口に向かっている。
夜だというのに、鉄のゲートがほんのわずかでも開いている事実は奇妙だった。横幅8メートル、縦は9メートル。蛇腹式の扉は、クレーンやトラックが出入りする為、重厚に造られ、人間一人の手で動くものではない。
「嫌がってるぜ。こいつら。どうする気なんだ?」
リツキの声に驚きもせず、犬を連れた少年は静かに立ち止まった。くうんと鼻を鳴らし、犬たちは少年を見上げた。繋がれたリードを引っ張り、抵抗する素振りはない。
リツキは息を飲んだ。
少年が、犬たちに微笑みかけた。足元の虜たちを、柔らかい視線で見下ろしながら。
リツキより頭半分、背が高い。二、三歳年上。暗い色のタンクトップの上に、ざっくりと白いシャツを羽織っただけの、シンプルな服装。なのに少年の浮かべた笑みは、大輪の薔薇が開いたような、鮮やかな色彩に満ちていた。
形良く尖った顎、肉の薄い頬。肌は青白く、唯一、唇だけが赤い血の息吹を感じさせる。細く艶のある髪は、襟足で白いハンカチで束ねられ、腰まで届く長さだった。
一目見ただけでは、少女か少年か判断に迷うほど、彼は美しい人間だった。一点の歪みも許されず形作られた、人形のように。中性的な美貌には、目を奪われる。
「わかるんだよ。これから殺されるってことを、動物たちは嗅ぎ付けてる。
かわいそうに。何もわからなければ、暴れなくてすむし、怯える必要もないのに」
リツキは、こいつもか……という思いで、眉をしかめた。
頭のおかしい人間。きれいな顔をしているのに、心の中には、あってはならない歪みがある。
「仕方ないだろ。心が読み取れるんだ。すごく敏感で、目に見えるものに騙されない。鈍感な人間とは違う。
あんた、笑ってて楽しそうにしてるけど。
……血の臭いがする。沢山の血液。沢山の断末魔の叫び」
リツキはもう一度目を見張った。心臓をいきなり掴まれたような、ゾッとする衝動が胸を貫く。
初めて少年は、リツキを見据えた。
たった今、他人の存在に気付いたような顔立ちで目を細め、リツキを見下ろした。
鋭く、やや色素の薄い緑がかった、少年の瞳が閃いた。
「君も、わかるんだね。動物たちのように。
いや。動物以上みたいだ。だって、君は気が付いたんだものね」
ゆっくりと、少年は唇の端を引き上げた。
「? 気付いた? どういう意味……!?」
「息が弾んでるね。君は、偶然ここを通りかかったんじゃないだろ? 駆け付けた……。何の為に?」
平坦に聞き返され、リツキは言葉に詰まった。
「こんなの初めてだよ。君みたいな人間に会うのは。
ふうん。僕だけじゃないんだ」
「何のことだよっ!」
語気を強めたリツキに、少年は含み笑いを向け、尋ねた。
「妙な力を持っているのは、君も同じだろ?」
……そういうことか……。
リツキは肯定もせず、じっと少年の顔を見た。
「邪魔、するの?」
少年が人間らしい感情を見せた。
身構えた気配が怯える小動物みたいで、少年には不釣合いすぎて、リツキは急に笑い出したい気分になった。
「俺の弟なら、あんたを非難するだろうけど、俺は違う。誰が何をしていようが構わない。
……俺たちに、手を出さない限りな」
「君達? 何人までが『君達』なのかは、わからないけど。
黙って通り過ぎてくれるのは、君にとってもいいことだ」
「ああ。忘れてやるよ」
犬たちは尻尾をしなだれて、少年の白い手に引かれ動き出した。軽い足取りで、少年は無感動に歩み去る。ぴんと伸ばした背中で長い髪が揺れる。
リツキは目を凝らした。
「は……。元天使、のわけないか……」
庇護者たちのように、その背に翼がないかリツキは探していた。白い翼ではなく、邪悪な存在が携える、鍵爪の光る悪魔の翼が生え出すのではないか……。
だが。シャツの白さがぼんやりと輝き、艶髪が、とろりと街灯の光を照らすばかりだった。
「変な奴。やってることは血塗れなのに」
……自分自身の心には、染み一つない。
赤ん坊のように純白な精神が、彼の中で曇らずに在る事実が、リツキには不思議でならなかった。




