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『ゴースト』第二話「狼の躾け」

『ゴースト』第二話:『狼のしつけ

1. 牙を隠した日常

大都市惑星コービー。

コービー帝国 コービー皇国 とも呼ばれる

その繁栄の影に隠れた下層セクター12のアパートには、いつも酸性雨を含んだ重い雲の匂いが垂れ込めていた。

上層セクターを牛耳っていたタンタカファミリーのボスが、何者かによって邸宅で惨殺されたあの派手な事件から、すでに数ヶ月の時が流れている。巨大な都市は何事もなかったかのようにその毒々しいネオンを明滅させ、新たな泥を底へと沈殿させていた。

「なんだミリー、朝から元気のない顔して」

トミ・ロッコは、エプロン姿で手際よくフライパンを振りながら、食卓に目を向けた。

普段の彼は、どこにでもいる冴えない自動車修理工だ。ただ、笑ったときに覗く犬歯が、人より少しだけ鋭い。

ダイニングテーブルでは、12歳になる愛娘の

ミリーが、ホロ・タブレットの画面を静かに眺めていた。

映し出されているのは、清浄な空気に満ちた上層セクターにある高級進学校の美しいキャンパス。

そして――トミのような底辺の労働者が一生かかっても届かないような、莫大な学費の数字。

ミリーは小さくため息をつき、

父親に気づかれないよう素早くタブレットの画面を伏せた。

「ううん、なんでもない。……お父さん、いつも美味しいご飯ありがとう」

差し出された出来立ての朝食を前に、

ミリーが健気な笑顔を浮かべる。

トミはその愛らしい頭を、オイルの染みついた

大きな手で優しく撫でた。

「金のことなら心配すんな。お前はただ、

学校でいっぱい勉強して、立派に優しく

真っ直ぐ育ちゃあいいんだ」

トミは、娘の穏やかな横顔を見つめながら、

胸の奥で強く、祈るように念じていた。

(俺たちに流れる獣の血を、怒りで汚しちゃいけねぇ。お前には感情を抑えられる、

立派な人間になって欲しいんだ……)

それが、この冷酷な惑星で生きるトミが、

愛娘に捧げられる唯一の願いだった。

だが、惑星コービーの容赦なき現実リアルは、そんなささやかな願いさえも泥靴で踏みにじる。

その日の夕方。雨上がりの湿った路地裏で、

ミリーは廃棄コンテナの影にしゃがみ込んでいた。見つけた野良猫に、自分の小遣いで買った

キャットフードをそっと差し出す。

「お腹空いてたんだね。いっぱいお食べ」

小さな命が喉を鳴らす音に、

ミリーの表情がふわりと緩んだ。

だが、その平穏は、背後から響いた

下劣な笑い声によって一瞬で引き裂かれる。

「おいおい、何してんだよお嬢ちゃん。

そんなゴミクズにエサやってんじゃねえよ」

振り返ると、汚れたストリートウェアをまとった

5人の不良グループが立っていた。一目で、

上層の親の金を笠に着て、下層で憂さ晴らしをしている類のガキだと分かった。

「あ……ごめんなさい……」

怯えて立ち上がろうとするミリーの胸を、

主犯格の17歳の男が乱暴に突き飛ばした。

ミリーは悲鳴を上げ、水溜まりの中へ尻餅をつく。

男は、シャーッと威嚇する野良猫の首根っこを、強引につかみ上げた。

「やめて! お願い、その子を放して!」

泥にまみれながら叫ぶミリーの声を、

男たちは組織的な嘲笑でかき消す。

男はニヤニヤと歪んだ笑みを浮かべると、

ハイウェイから猛スピードで迫る大型ホバー・トラックの目の前へ、全力で野良猫を放り投げた。

激しいブレーキ音。

大気を裂くような、鈍い衝撃音。

「ギャハハハ! ナイスシュート! 綺麗に潰れたぜ!」

男たちが手を叩いて爆笑する。


ミリーは絶望に目を見開いた。

その瞬間、彼女の瞳がギラリと【真紅の獣の目】へと変貌した。小さな爪が、皮膚を突き破らんばかりに鋭く伸びかける。

だが――ミリーは血が出るほどに唇を噛み締め、涙を流しながら、必死に己の中の「獣」を檻へと押し戻した。

お父さんとの約束を守るために。


彼女は泥水に伏したまま、ただ声を上げて泣き崩れるしかなかった。

工場へと戻ってきたミリーを、トミは言葉もなく、油塗れの防護服のまま強く抱きしめた。

ショックでガタガタと震え、泣き腫らした娘の背中を、何度も何度も大きな手でさする。

「……そうか。怖かったな、ミリー。もう大丈夫だ。お父さんがいる」

ミリーの耳元で囁くトミの声は、どこまでも優しかった。

だが、娘からは見えないその顔は、すでに人間のそれではなくなっていた。

怒りのあまり完全に「人狼化」し、猛々しい毛並みに覆われた輪郭から、長く鋭い牙が剥き出しになる。全身から立ち上る凄まじい殺気は、

工場の室温を一瞬で氷点下まで引き下げるかのようだった。

トミは自身の変化にハッと気づき、

喉の奥で獣の唸りを噛み殺しながら、

強く目を閉じた。

「ミリー、今日はもう温かくして寝なさい。

お父さんは、ちょっと仕事に行ってくる」


2. 大人たちの利害

翌日の昼。トミの工場には、リフトで吊り上げられた警察のパトカーが鎮座していた。

その下にもぐり、スパナを動かすトミのもとへ、凶悪事件の捜査官でありジロの相棒、

リュウ・ノヨリが歩み寄ってくる。

「トミさん……。昨日、お嬢さんが酷い目に遭ったと聞きましたが」

「ああ……下層の治安はどうなってんだか。

警察の旦那たちが、あの不良どもをパパッと捕まえてくれりゃいいんだがね」

車の下から這い出したトミに、リュウは悔しそうに拳を握りしめて首を振った。

「昨夜のうちに僕とジロさんで全員逮捕しました。ですが……主犯の親は上層セクターのコネ持ちです。現行法じゃ動物はただの『器物』。少年法と大人の都合で、今朝にはもう全員『不起訴』で釈放ですよ! クソッ……法ってのは一体何なんだ!」

ガン! と、リュウは工場の鉄柱を激しく叩くと、自分の無力さに耐えかねるように足早に去っていった。

トミが暗がりに一人立ち尽くしていると、

だらしなく制服を着崩したヒロ・ミカゲが

通りかかる。車両管理の権限を持つヒロは、

ポケットに手を突っ込んだままトミを睨みつけた。

「おいトミ。車どうなってる? テメェまた納期守れてないだろ」

ヒロはそれだけ言い捨てると、ふんぞり返って去っていった。

トミは冷徹な目でその背中を見送ると、

懐から独自の暗号化が施された闇端末を取り出した。

様々な人間が出入りし、下層の情報が集まるこの工場には、釈放された不良どもが「今夜どこで、どんな次の悪事を企てているか」という最新の動向が、すでに伝わっていた。

トミは慣れた手つきで、捜査官であるジロ・オカモトの個人直通回線へとそのデータを転送した。セコいヒロを飛び越え、直でジロに流す方が

はるかに実入りが良い。

「……あのデカにしっぽ振った方が、いくらかマシだな」

トミは冷たい一瞥をヒロ・ミカゲの去った方角へと送り、闇端末の画面を消した。


3. 静かな声、匿名の鉄槌

その夜。工場の奥、分厚い遮音壁に隠された

地下隠しガレージ。

トミは防護服を脱ぎ捨て、黒いライダースジャケットに身を包んでいた。

目の前には、鈍い黒光りを放つ、

68年式ダッジ・チャージャーを彷彿とさせる

巨大なマッスルカーが佇んでいる。

彼が闇端末を起動すると、ホログラムの画面に、元締めが管理する闇ネットワークの決済データが浮かび上がった。それはどこに拠点を置くかも分からぬ、絶対の匿名性と堅牢性を誇る、裏社会の巨大インフラだ。

画面には、釈放された不良グループ5人の顔写真。

その下には、下層の住人たちが生活を切り詰め、血を吐く思いで投げ入れたであろう、

無数の『小さなカネ』がリアルタイムでプールされていく履歴が滝のようにスクロールしていた。

【5コービーエン】

【10コービーエン】……。

それはミリーを泣かされた父親の怒りであり、

愛する家族を殺された名もなき住人たちの

悔し涙。

法が裁かぬ理不尽に対し、無数の匿名の声が

システムを介して瞬時に連帯し、

ひとつの巨大な「賞金」へと化していく。

闇のクラウドファンディングが、

死神を雇うための牙を研いでいた。

その中には、トミ自身が匿名で投げ入れた、

ミリーの涙の代償も混ざっている。

最下部に表示された、静かな怒りの総額を確認し、トミは冷たく呟いた。

「……法が裁かねえなら、俺たちのカネで裁くまでだ」


トミがエンジンキーを捻る。

ドォォォォン……!!

デロッ! デロッ! デロッ! ドロドロドロドロ、ドッドッドッ……。


下層の住人たちの怨嗟をすべて代弁するかのような、死神の心臓が鼓動を打ち始める。

地響きを立てる凄まじい排気音が、

コンクリートのガレージ全体を激しく震わせた。

深夜。雨に濡れたハイウェイを、5台の違法改造バイクがけたたましい音を立てて爆走していた。

乗っているのは、昼間釈放されたばかりの

不良グループだ。主犯格の男は、バイクを蛇行させながら大笑いしている。

「ハハハ! 警察なんてマジでチョロすぎ! 動物数匹殺したくらいでガタガタ――」

その時、背後の闇から「ゴオォォォォ……」という、心臓を直接掴まれるような重低音のエンジン音が迫ってきた。

ヘッドライトも点けず、

ただフロントの赤いスリット光だけを不気味に光らせた【悪魔のような黒いマッスルカー】が、

猛スピードで肉薄してくる。

マッスルカーは全く減速することなく、

最後尾のバイクに完全に激突した。凄まじい衝撃音と共にバイクは一瞬で鉄屑と化し、

乗っていた不良は路面へと激しく叩きつけられる。

一瞬で恐怖に顔を引きつらせた不良たちは、

アクセルを全開にした。4台のバイクがバラバラに散り、狭い路地へと逃げ込もうとする。

だが――マッスルカーの左右のドアが開く

そこから地面スレスレの位置まで水平に深く

倒れ込んだ。

今度はパチパチと放電する

「真紅のレーザーブレード」が、漆黒の闇の中で翼のようにビジューッと広がっていく。


トミは迫るバイクの足回りに視線を合わせ、

手元のレバーでブレードの高度を最低空へと微調整した。

車幅は一瞬にして、全車線を完全に支配する

「可変式の死神の鎌」へと変貌する。

マッスルカーが爆発的に加速した。

横を並走して逃げようとしたバイク2台の車輪を、超低空の光刃がすれ違いざまに容赦なく、文字通りバターのように一刀両断にする。

激しい爆発音と炎、切断された鉄塊が夜の闇に転がっていった。

残るは主犯格の男と、もう一人の不良だけだ。

マッスルカーは容赦なく距離を詰めると、右側のレーザーブレードで残る不良のバイクの車輪を引っかける。バイクは激しく横転し、壁に激突して激しく炎上した。

行き止まりの廃棄広場。

コンクリートの壁際に追い詰められた主犯格の男は、パニックに陥りながら安物のレーザー銃を狂ったように連射した。

だが、光弾はマッスルカーの特殊装甲に虚しく弾かれ、火花を散らすだけだ。車は男の目の前、わずか数センチのところで静かに停車した。

プシュー……と、威嚇するような熱い排気ガスが男の顔に吹き付ける。

運転席のドアが開き、トミが静かに降りてきた。

彼の顔は完全に【獰猛な人狼】へと変化していた。長く鋭い牙、列車の前照灯のように異常な爛爛とした光を放つ二つの真紅の目。

トミは無言のまま、男の胸ぐらを片手で軽々と持ち上げると、車の超高温のフロントグリルへと

叩きつけた。肉の焦げるジリジリという音が響く。

さっきまで法律の壁に守られてヘラヘラと笑っていた主犯格の男は、目の前の本物の「死神」を前に、完全に腰を抜かして幼児のように泣き叫んだ。鼻水と涙で顔をグシャグシャに濡らし、ガタガタと全身を激しく震わせる。

「ごめ、なさい……ごめんなさい! 許してください、何でもします!ま、 真面目になります!、

本気です!更生します! ま、まだ10代なんです!

約束しますから、約束しますからぁ!」


男の必死の命乞いを、トミは冷酷な目で見つめ、低く掠れた声で告げた。

「……楽に死なせてやる」

「ママ、ママ助けて! 嫌だ、死にたくない、

ママァ! お願い……お願いだからぁ!!」

男がさらに醜く叫んだその瞬間、

ミリーの涙と無残に殺された猫の姿がトミの脳裏をよぎり、彼の真紅の瞳に宿る怒りがさらに爆発的に跳ね上がった。

トミの大きな手が、男の頭部と細い顎をガッチリと固定する。

「……楽に死なせてやるってのは、前言撤回だ。あの世でテメェに殺された動物達に囲まれて、

自分の首を抱えて懺悔しな。それが俺の慈悲だ」


トミは信じられないほどの怪力で、じわじわと、本当にじわじわと、男の首と胴体を物理的に引き離しにかかる。

「ひ、あ、ガ……ッ!?」

男の絶叫が、肉と骨がミシミシと軋む鈍い音にかき消される。皮下組織が引き裂かれ、頸椎がミリ単位でパキパキと外れていく地獄の激痛。

男の目は恐怖と苦痛で裏返り、言葉にならない血の泡が口から溢れ出た。

ブチブチブチッ……!!!

広場に、肉線が限界まで引き千切れる最悪の破裂音が響き渡り、やがて、静寂が戻った。

下層の住人たちの静かな怒りが、

最も残酷な形で完全に執行された瞬間だった。


4. 狐と狼の境界線

翌朝、薄暗い地下通路。雨は上がり、雲の隙間から薄汚れた日の光が差し込んでいた。

トミの姿は、もう完全に物静かな人間の父親へと戻っていた。

手元の闇端末が小さく電子音を鳴らす。

元締めの堅牢なネットワークから「依頼達成」の通知と共に、下層の住人たちの怒りが集まった

莫大な報酬コービーエンが、

一括でトミの口座へと転送された。

トミはその金額の数字を静かに見つめ、フッと寂しげに、しかし力強く笑った。

「……綺麗な花育てるなら、糞が肥料になるもんだ」

端末をポケットに押し込み、トミはミリーの待つ我が家へ戻る前に、新しい修理伝票を持って警察署の内勤課オフィスへと足を運んだ。

オフィスでは、いつもと変わらない排気ファンの音が虚しく回っている。

ヒロ・ミカゲは、デスクに足を乗せてホログラムのニュース画面を眺めていた。画面には『本日未明、下層セクターにて少年グループ5名が、凄惨な遺体で発見されました』の文字。

そこへ歩いてきたトミが、新しい修理伝票を差し出す。

ヒロは伝票をちらっと見て、周囲の目が自分に向いていないかをさりげなく伺うと、無言で左手をスッと差し出し、指をくねらせた。

トミは苦虫を噛み潰したような顔を完璧な演技で作りながら、懐から数枚のコービーエン紙幣を掴み出し、ヒロの手の中に押し込む。

「……これしかないんで」

ヒロは手の中の紙幣を確認し、素早くポケットにしまい込んだ。

「あー……そうだ。あのな、41号車の修理頼むわ」

「ありがとうございます」

トミが頭を下げたところへ、徹夜明けでボロボロになったジロ・オカモトが奥から歩いてきた。

ジロはトミの姿を見つけると、少しだけ表情を和げて声をかける。

「トミ、3号車どうなってる?」

「先ほど納めました」

ジロはすれ違いざま、ヒロに見えない角度で、

トミの手の中にそっとそれなりな額の電子チップを握らせた。トミが事前に流した「最新の悪事の情報提供料」であり、今しがたトミがヒロに渡した賄賂の、優に倍の価値があるものだ。

ジロは小さく笑う。

「助かるぜ。お前の所の修理はいい仕事してくれるな」

「どうぞご贔屓に……」

二人のやり取りを見たヒロが、デスクから足を下ろし、不機嫌そうにジロを睨みつけた。

「ジロ、車両の管理は俺だぜ。俺をとびこえちゃいけねぇな」

トミはヒロから視線を外し、

いつもの冴えない修理工の顔で頭を下げながら、胸の奥で冷酷に嘲笑っていた。

(見下げた野郎だぜ。しかし……あっちのデカは倍くれるから仕方ねえな)

ヒロはトミから巻き上げたはした金と、

自分の特権に満足しきって再びふんぞり返る。

トミは静かに背を向けた。

お互い、目の前にいる男が、夜になれば街を震撼させる冷酷な殺人鬼ゴーストであり、

残虐な牙を持つ人狼ゴーストだとは、

今はまだ知る由もない。

警察署を出ると、下層の冷たい風がトミの頬を撫でた。

ふと向かいの通りに目をやると、大きなカバンを背負ったミリーが、学校から下校してくる姿が遠くに見えた。

昨日あんなに泣いていた娘が、今はいつもの日常を取り戻そうと、一歩一歩健気に歩いている。

トミの鋭い目が、一瞬で優しい父親のそれに変わった。

(……今夜はミリーの好きな、美味い肉料理にでもするか。それとも、温かいスープがいいか)

ミリーとの夕飯のメニューを頭の中で穏やかに組み立てながら、トミは愛娘のもとへと、少しだけ歩調を早めて近づいていった。

(第2話・完)

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