泥だらけの根菜と、姫様の空腹
山越えのルートに入って三日目。 事態は悪化の一途をたどっていた。
「……腐ってるな」
休憩中、荷台の食料樽を覗き込んだゼグが、顔をしかめて鼻をつまんだ。 連日の湿気と暑さで、頼みの綱だった干し肉の一部にカビが生え、異臭を放っている。 保存食の管理不備。商人を名乗るエリスにしては初歩的なミスだが、彼女は戦闘のプロであって、兵站のプロではないということだ。
「おい依頼人。食い物がねぇぞ。この先どうすんだ」
ゼグが不満げに声を上げる。 御者台のエリスは、顔色ひとつ変えずに答えた。
「あと二日もすれば次の村に着く。それまで耐えなさい」 「ハァ? 水だけで山越えしろってか? 無理に決まってんだろ!」 「武人ならば、数日の絶食など精神力でカバーできるはずよ。……文句があるなら、そこで野垂れ死になさい」
取り付く島もない。 彼女自身、昨日からほとんど口にしていないはずだが、背筋を伸ばして虚勢を張っている。 だが、その手が微かに震えているのを俺は見逃さなかった。空腹による低血糖だ。
(……やれやれ。これだから精神論者は)
俺はため息をつき、静かに隊列を離れて森の中へと入っていった。
「おいアルレン、どこへ行く? 逃げる気か?」 「小便ですよ。すぐ戻ります」
俺は適当な嘘をつき、湿った腐葉土の上を歩き回る。 探しているのは、この地域の植生だ。 前世の知識に加え、転生してから商人の息子として商品を扱う中で覚えた「現地の植物学」。それが今、武器になる。
数分後。俺は泥だらけになって戻ってきた。 両手には、ゴツゴツとした茶色の「木の根」のようなものを大量に抱えている。
「……何よ、それ」
エリスが怪訝な顔で俺を見た。
「晩飯ですよ。この辺りには『イモの木』が自生してるんです。その根っこです」 「木の根? そんな泥だらけのゴミを食べる気?」
彼女は信じられないものを見る目で俺を睨んだ。 確かに、見た目はただの泥ついた木片だ。貴族(……であろう彼女)の口に入れるものではない。
「ゴミじゃありません。立派な炭水化物です。……ゼグさん、鍋と水を! ロッツォさんは火を起こしてくれ!」
俺は手早く指示を出し、ナイフで根の皮を剥き始めた。 中から白い果肉が現れる。 それを薄くスライスし、沸騰した湯に放り込む。ついでに道中で摘んでおいたノビル(野草)も加える。
グツグツと煮える音。 やがて、質素だが温かみのある湯気が立ち上り始めた。
「へぇ、意外といい匂いじゃねぇか」
ゼグが喉を鳴らす。 俺は煮上がったスープを木椀によそい、まずは班の連中に配った。 味付けは岩塩のみ。だが、飢えた体には染み渡る美味さだ。
「うめぇ! 芋だこれ! 腹にたまるぞ!」 「悪くないな。泥臭さも消えてる」
仲間たちが貪るように食うのを見て、俺は最後の一杯を手に取り、エリスの元へ歩み寄った。
「……どうぞ。毒はありませんよ」
俺が差し出すと、彼女はそっぽを向いた。
「いらないわ。雑草や木の根を食べるなんて、人のすることじゃない」 「そうですか。じゃあ俺が食べますね。……ああ、もったいない。こんなにホクホクして甘いのに」
俺はわざとらしく湯気を彼女の方へ扇ぎながら、スープを啜った。 エリスの喉がゴクリと鳴る。 お腹の虫が、可愛らしい音を立てて鳴いた。
「っ……!」
彼女は顔を真っ赤にして、スカートの裾を握りしめた。 限界だ。 俺は苦笑し、もう一度椀を差し出した。
「エリスさん。……『誇り』で腹は膨れませんが、『飯』を食えば誇りを守る力が湧きます。任務を達成したいなら、食ってください。これは商人からの提案じゃなく、護衛からの『お願い』です」
彼女が倒れれば、俺たちも困る。 そういう理屈を添えてやる。 エリスはしばらく葛藤していたが、やがて引ったくるように椀を受け取った。
「……毒見役が大丈夫だと言うなら、食べてあげなくもないわ」
憎まれ口を叩きながら、彼女は恐る恐るスープを口に運んだ。 一口。そして二口目。 彼女の表情が、驚きに変わる。
「……甘い」 「でしょう? 泥の中で育つからこそ、栄養を溜め込むんです」
彼女は無言で、しかし猛烈な勢いでスープを飲み干した。 空になった椀を見つめる彼女の瞳から、険しい殺気が消え、年相応の少女の安らぎが浮かんでいた。
「……ふん。味は悪くなかったわ。褒めてあげる」 「どうも。代金は護衛料に含めておきますよ」
俺が軽口を叩くと、彼女はフッと小さく笑った。 初めて見た、彼女の笑顔だった。
その夜。 焚き火を囲みながら、セリナが俺に囁いた。
「やるじゃない、アルレン。あのアマを餌付けするなんて」 「人聞きの悪い。……ただの栄養補給ですよ」
俺は肩をすくめた。 能力は使っていない。 使ったのは、泥だらけの知識と、少しの気遣いだけ。
だが、俺は感じていた。 あの頑固な「騎士様」との距離が、100グラムの金塊を積むよりも、この一杯の泥スープで縮まったことを。
(……ま、悪くない夜だ)
満たされた腹をさすりながら、俺は深い眠りについた。 翌日から始まるであろう、さらなるトラブルの予感を、今は忘れて。




