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百瓦戦記  作者: 呉羽錠


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7/11

誇り高き剣と、泥まみれの嘘

山道を行く旅は、最悪の雰囲気で続いていた。


「……遅い。歩調が乱れているわよ」


 御者台のエリスが、冷たい声で叱責を飛ばす。  俺たちは泥濘ぬかるみに足を取られながら、必死で馬車についていく。  彼女は一度も休憩を取ろうとしない。  食事中も、俺が差し出したスープを「毒見は済んでいるのか」と拒絶し、持参した堅焼きパンだけをかじる徹底ぶりだ。


 セリナが俺の背中をつつく。


「ねぇ、あのアマ射抜いていい? 事故に見せかけて」 「我慢してください。依頼主を殺したら報酬がパーだ」


 俺がなだめていると、前方を歩いていた斥候のロッツォが、慌てて戻ってきた。  顔色が悪い。


「おい、マズいぞ。……お出ましだ」


 直後、口笛が鳴り響く。  街道の左右の茂みから、薄汚れた男たちがわらわらと湧き出てきた。  野盗だ。  装備は粗末だが、数は二十人以上。目は飢えた獣のようにギラついている。


「へへッ、上等な馬車じゃねぇか。女も乗ってるな?」 「通行料を置いてきな。身ぐるみ全部だ」


 野盗の頭目が、錆びた斧を担いでニタニタと笑う。  ゼグが舌打ちをして大剣を構えた。  二十対五。  ゼグやセリナがいれば勝てない相手ではないが、乱戦になれば馬車を守り切れる保証はない。


 俺がどう動くべきか計算していると――。


「……下衆げすが」


 凛とした、だが氷のように冷たい声が響いた。  エリスだ。  彼女はフードを跳ね上げ、腰に帯びた細身の剣を抜き放った。  美しいプラチナブロンドが風に舞う。


「ただの盗人が、私の道に立ちふさがるか。……死をもって償わせてやる」 「あぁ? なんだこのアマ、やる気か?」


 野盗たちが色めき立つ。  まずい。完全に火に油だ。  彼女は強いのかもしれないが、ここで戦闘になれば間違いなく怪我人が出る。


「総員、構えろ! この虫ケラどもを駆除する!」


 エリスが馬車から飛び降りようとした、その瞬間。  俺は彼女の前に立ちはだかり、その細い肩を掴んで制止した。


「放しなさい無礼者! 斬るわよ!」 「落ち着いてください! ここで戦えば馬車が傷つきます!」 「誇りを汚されて黙っていられるか! 退きなさい!」


 聞く耳を持たない。典型的な「名誉中毒」の騎士様だ。  俺は奥歯を噛み締め、彼女の耳元で低い声で囁いた。


「……黙って見ていてください。指一本触れさせずに追い払ってみせますから」


 俺は彼女の返事を待たず、野盗たちの前へと進み出た。  両手を挙げ、大袈裟に震えてみせる。


「ま、待ってください! おかしら! 近づかないでくれ!」 「あぁ? なんだテメェ、命乞いか?」 「違います! あんたたちに**『感染うつ』したくない**んです!」


 俺は悲痛な叫び声を上げた。  その言葉に、野盗たちの足が止まる。


「……感染? 何の話だ」 「見れば分かるでしょう、俺たちのこの姿!」


 俺は自分たちの薄汚れた軍服と、泥まみれの顔を指差した。  掃き溜め部隊の俺たちは、元から薄汚い。風呂にも入っていないから異臭もする。


「俺たちは軍の『隔離部隊』なんです! この馬車に乗っているのは、南方の湿地帯で発生した**『黒死腐こくしふ病』**の重症患者なんだ!」


 ハッタリだ。そんな病気はない。  だが、「黒死」とか「腐る」という単語は、無学な連中の恐怖心を煽るには十分だ。


「こ、黒死……? 聞いたことねぇぞ」 「接触感染するんです! 皮膚が黒く腐り落ちて、三日で死ぬ! ほら見ろ、俺の部下ももう手遅れなんだ!」


 俺は背後のゼグに目配せを送った。  ゼグは一瞬キョトンとしたが、すぐに意図を察し、その巨体を折り曲げて激しく咳き込んだ。


「ゴホッ! ゴホォッ! ……あぁ、クソッ、肌がかゆくてたまらねぇ……肉が落ちちまう……!」


 迫真の演技だ。  ロッツォも顔を歪め、自分の腕を掻きむしり始めた。  薄汚れた彼らの姿は、言われてみれば確かに重病人に見えなくもない。


「ヒッ……!?」 「おい、やべぇぞ。あいつら顔色が土気色だ」


 野盗たちがジリジリと後退する。  見えない恐怖。病魔への忌避感は、剣よりも強い。


「頼む、通してくれ! 早く隔離施設に行かないと、俺たちまで死んじまうんだ!」


 俺は涙ながらに訴え、一歩近づこうとした。


「く、来るなッ! 近寄るんじゃねぇ!」 「おい逃げるぞ! 病気が移る!」


 頭目が叫び、野盗たちは蜘蛛の子を散らすように森の奥へと逃げ去っていった。  数分後。  街道には静寂だけが残った。


「……ふぅ。チョロいもんだ」


 俺は芝居がかった震えを止め、泥だらけの手で汗を拭った。  ゼグがニカッと笑って親指を立てる。  無血開城。被害ゼロ。  完璧な仕事だ。


 だが、背後からは冷ややかな殺気が放たれていた。


「……どういうつもり?」


 エリスが剣を納めず、琥珀色の瞳で俺を睨みつけていた。  怒っている。それも、烈火のごとく。


「敵に背を向け、嘘をついて命乞いをするなど……騎士の風上にも置けない卑怯な振る舞いだわ! 恥ずかしくないの!?」 「恥?」


 俺は彼女に向き直り、淡々と答えた。


「俺は騎士じゃありません。ただの兵士です。それに、アンタが怪我をして任務が失敗するより、嘘一つで無傷で通れるなら、そっちの方が百倍マシだ」 「それは結果論よ! 誇りを捨てて生き延びて、何の意味があるの!」 「飯が食えますよ」


 俺は即答した。


「死んだら飯も食えないし、アンタの言う『重要な任務』も果たせない。誇りで腹が膨れるなら結構ですが、俺たちはそうじゃないんでね」


 エリスは言葉を失い、悔しそうに唇を噛んだ。  反論できないのだ。合理性において、俺の方が正しいことは彼女も分かっている。  だが、感情と教育された騎士道がそれを許さない。


「……貴様のような男は、大嫌いだわ」


 彼女は吐き捨てるように言い、乱暴に御者台に戻った。


「行くわよ。……二度とあんな真似はさせないから」


 馬車が動き出す。  ゼグが俺の肩を叩き、「まあ気にするな。俺たちは助かったぜ」と囁いた。


 俺は遠ざかるエリスの背中を見つめた。  融通の利かない、真っ直ぐすぎる正義。  それは美徳かもしれないが、この泥沼の戦場では命取りになる。


(……やれやれ。こりゃ骨が折れそうだ)


 俺は深いため息をつき、再び泥道を歩き出した。  交わることのない二つの価値観。  だが、この旅が終わる頃には、少しは分かり合えているだろうか。


 今はまだ、その答えは見えなかった。

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