誇り高き剣と、泥まみれの嘘
山道を行く旅は、最悪の雰囲気で続いていた。
「……遅い。歩調が乱れているわよ」
御者台のエリスが、冷たい声で叱責を飛ばす。 俺たちは泥濘に足を取られながら、必死で馬車についていく。 彼女は一度も休憩を取ろうとしない。 食事中も、俺が差し出したスープを「毒見は済んでいるのか」と拒絶し、持参した堅焼きパンだけを齧る徹底ぶりだ。
セリナが俺の背中をつつく。
「ねぇ、あのアマ射抜いていい? 事故に見せかけて」 「我慢してください。依頼主を殺したら報酬がパーだ」
俺がなだめていると、前方を歩いていた斥候のロッツォが、慌てて戻ってきた。 顔色が悪い。
「おい、マズいぞ。……お出ましだ」
直後、口笛が鳴り響く。 街道の左右の茂みから、薄汚れた男たちがわらわらと湧き出てきた。 野盗だ。 装備は粗末だが、数は二十人以上。目は飢えた獣のようにギラついている。
「へへッ、上等な馬車じゃねぇか。女も乗ってるな?」 「通行料を置いてきな。身ぐるみ全部だ」
野盗の頭目が、錆びた斧を担いでニタニタと笑う。 ゼグが舌打ちをして大剣を構えた。 二十対五。 ゼグやセリナがいれば勝てない相手ではないが、乱戦になれば馬車を守り切れる保証はない。
俺がどう動くべきか計算していると――。
「……下衆が」
凛とした、だが氷のように冷たい声が響いた。 エリスだ。 彼女はフードを跳ね上げ、腰に帯びた細身の剣を抜き放った。 美しいプラチナブロンドが風に舞う。
「ただの盗人が、私の道に立ちふさがるか。……死をもって償わせてやる」 「あぁ? なんだこのアマ、やる気か?」
野盗たちが色めき立つ。 まずい。完全に火に油だ。 彼女は強いのかもしれないが、ここで戦闘になれば間違いなく怪我人が出る。
「総員、構えろ! この虫ケラどもを駆除する!」
エリスが馬車から飛び降りようとした、その瞬間。 俺は彼女の前に立ちはだかり、その細い肩を掴んで制止した。
「放しなさい無礼者! 斬るわよ!」 「落ち着いてください! ここで戦えば馬車が傷つきます!」 「誇りを汚されて黙っていられるか! 退きなさい!」
聞く耳を持たない。典型的な「名誉中毒」の騎士様だ。 俺は奥歯を噛み締め、彼女の耳元で低い声で囁いた。
「……黙って見ていてください。指一本触れさせずに追い払ってみせますから」
俺は彼女の返事を待たず、野盗たちの前へと進み出た。 両手を挙げ、大袈裟に震えてみせる。
「ま、待ってください! お頭! 近づかないでくれ!」 「あぁ? なんだテメェ、命乞いか?」 「違います! あんたたちに**『感染』したくない**んです!」
俺は悲痛な叫び声を上げた。 その言葉に、野盗たちの足が止まる。
「……感染? 何の話だ」 「見れば分かるでしょう、俺たちのこの姿!」
俺は自分たちの薄汚れた軍服と、泥まみれの顔を指差した。 掃き溜め部隊の俺たちは、元から薄汚い。風呂にも入っていないから異臭もする。
「俺たちは軍の『隔離部隊』なんです! この馬車に乗っているのは、南方の湿地帯で発生した**『黒死腐病』**の重症患者なんだ!」
ハッタリだ。そんな病気はない。 だが、「黒死」とか「腐る」という単語は、無学な連中の恐怖心を煽るには十分だ。
「こ、黒死……? 聞いたことねぇぞ」 「接触感染するんです! 皮膚が黒く腐り落ちて、三日で死ぬ! ほら見ろ、俺の部下ももう手遅れなんだ!」
俺は背後のゼグに目配せを送った。 ゼグは一瞬キョトンとしたが、すぐに意図を察し、その巨体を折り曲げて激しく咳き込んだ。
「ゴホッ! ゴホォッ! ……あぁ、クソッ、肌が痒くてたまらねぇ……肉が落ちちまう……!」
迫真の演技だ。 ロッツォも顔を歪め、自分の腕を掻きむしり始めた。 薄汚れた彼らの姿は、言われてみれば確かに重病人に見えなくもない。
「ヒッ……!?」 「おい、やべぇぞ。あいつら顔色が土気色だ」
野盗たちがジリジリと後退する。 見えない恐怖。病魔への忌避感は、剣よりも強い。
「頼む、通してくれ! 早く隔離施設に行かないと、俺たちまで死んじまうんだ!」
俺は涙ながらに訴え、一歩近づこうとした。
「く、来るなッ! 近寄るんじゃねぇ!」 「おい逃げるぞ! 病気が移る!」
頭目が叫び、野盗たちは蜘蛛の子を散らすように森の奥へと逃げ去っていった。 数分後。 街道には静寂だけが残った。
「……ふぅ。チョロいもんだ」
俺は芝居がかった震えを止め、泥だらけの手で汗を拭った。 ゼグがニカッと笑って親指を立てる。 無血開城。被害ゼロ。 完璧な仕事だ。
だが、背後からは冷ややかな殺気が放たれていた。
「……どういうつもり?」
エリスが剣を納めず、琥珀色の瞳で俺を睨みつけていた。 怒っている。それも、烈火のごとく。
「敵に背を向け、嘘をついて命乞いをするなど……騎士の風上にも置けない卑怯な振る舞いだわ! 恥ずかしくないの!?」 「恥?」
俺は彼女に向き直り、淡々と答えた。
「俺は騎士じゃありません。ただの兵士です。それに、アンタが怪我をして任務が失敗するより、嘘一つで無傷で通れるなら、そっちの方が百倍マシだ」 「それは結果論よ! 誇りを捨てて生き延びて、何の意味があるの!」 「飯が食えますよ」
俺は即答した。
「死んだら飯も食えないし、アンタの言う『重要な任務』も果たせない。誇りで腹が膨れるなら結構ですが、俺たちはそうじゃないんでね」
エリスは言葉を失い、悔しそうに唇を噛んだ。 反論できないのだ。合理性において、俺の方が正しいことは彼女も分かっている。 だが、感情と教育された騎士道がそれを許さない。
「……貴様のような男は、大嫌いだわ」
彼女は吐き捨てるように言い、乱暴に御者台に戻った。
「行くわよ。……二度とあんな真似はさせないから」
馬車が動き出す。 ゼグが俺の肩を叩き、「まあ気にするな。俺たちは助かったぜ」と囁いた。
俺は遠ざかるエリスの背中を見つめた。 融通の利かない、真っ直ぐすぎる正義。 それは美徳かもしれないが、この泥沼の戦場では命取りになる。
(……やれやれ。こりゃ骨が折れそうだ)
俺は深いため息をつき、再び泥道を歩き出した。 交わることのない二つの価値観。 だが、この旅が終わる頃には、少しは分かり合えているだろうか。
今はまだ、その答えは見えなかった。




