銀貨の蜜と、凍てつく夜
宿場町カナンでの騒動から一夜。 追っ手を警戒して街道を外れた俺たちは、深い森の奥で息を潜めていた。
焚き火の爆ぜる音だけが響く。 エリスは泥だらけだったドレスを脱ぎ捨て、新調した旅装に身を包んでいるが、その表情は沈んでいた。 膝を抱え、木椀のスープを死んだ魚のような目で見つめている。
「……泥棒の金で買ったスープは、温かいわね」
自嘲するような呟き。 清廉な王女にとって、詐欺の片棒を担いだ事実は、空腹よりも重くのしかかっているようだ。
「割り切ってください。死ねば、その誇りを守ることもできない」
俺が短く告げると、彼女は力なく首を振った。
「分かってる。……でも、怖いのよ。貴方のその『嘘』に助けられているけれど、いつか貴方が私をも騙して、帝国に売り飛ばすんじゃないかって」
なるほど。 俺の詐欺師としての手腕を見せすぎたか。 これでは護衛と要人の信頼関係が築けない。
俺は懐に手を入れた。 取り出したのは、昨日カナンで物資を調達した際、道具屋の親父にこっそりと握らせて譲ってもらった小袋だ。
「……ほら」
俺は小袋から取り出した「結晶」を、エリスの膝元へ放り投げた。 琥珀色に透き通る、硬い塊。 氷砂糖だ。
「……宝石?」 「似たようなもんです。かじってみてください」
エリスは怪訝な顔をしたが、俺が同じものをカリリと噛み砕くのを見て、恐る恐る口に含んだ。 瞬間。 強張っていた彼女の頬が、ふわりと緩んだ。
この世界において、純粋な砂糖は薬局で扱われるほどの高級品だ。 疲労し、糖分が枯渇した脳髄に、その甘味は暴力的なまでの快楽となって染み渡る。
「……甘い」 「この世で一番、嘘のない味でしょう」
俺はゼグやロッツォたちにも残りを放ってやった。 荒くれ者の男たちも、小指の先ほどの甘味を愛おしそうに転がしている。
「エリスさん。商人は『お得意様』を裏切りませんよ。店の看板に傷がつきますからね」 「……看板、ね」
エリスが口元を綻ばせ、小さく笑った。 昨日までの張り詰めた仮面が割れ、年相応の少女の顔が覗く。
「貴方の店、評判は最悪でしょうけど……サービスだけは一流みたいね」 「最高の褒め言葉です」
余計な能書きはいらない。 たった一粒の砂糖が、どんな説得よりも雄弁に今の空気を変えた。
俺は残った砂糖を口に放り込み、夜空を見上げた。 雲が流れている。 風が変わった。
――湿った風が、急激に冷え込んでいく。
「……ッ!」
俺の背筋を、悪寒が走った。 殺気ではない。物理的な温度低下だ。
「総員、散開ッ!!」
叫ぶと同時に、俺はエリスを突き飛ばして地面を転がった。
ヒュララララッ!!
直後、焚き火の中心に何かが着弾した。 炎が青白く変色し、瞬時に鎮火する。 ジュッ、という音と共に、燃えていた薪が一瞬にして**「凍りついた」**。
「なっ……!?」
ゼグが絶句する。 闇の奥から、ジャリ、ジャリと霜を踏む足音が近づいてくる。 気温が異常な速度で下がっていく。吐く息が白い。
「……見つけたぞ。逃亡者ども」
現れたのは、黒いローブを目深に被った五人組。 その手には歪な杖。胸には、裏切り者の証である「宰相派」の紋章。 そして周囲には、冷気を纏った氷の結晶が浮遊している。
「宮廷魔導師団……!」
エリスが震える声でその名を呼んだ。 物理法則を無視して事象を書き換える、選ばれしエリート集団。 俺たちのような泥臭い歩兵にとって、最も相性の悪い天敵だ。
「氷槍」
無機質な詠唱。 宙に浮いた氷塊が、鋭利な槍となって射出される。
「くそっ、盾になれ!」
ゼグが大木を引き抜いて盾にするが、着弾した瞬間に木ごと凍結し、粉々に砕け散った。 防げない。 物理的な硬度など、極低温の前では無意味だ。
「ひぃッ……!」 「か、勝てねぇ……!」
ロッツォとセリナが後退する。 矢を撃っても、冷気の障壁に阻まれて届かない。 一方的な蹂躙。
俺は岩陰に身を隠しながら、懐に手を入れた。 指先が、温かい感触に触れる。
(……ツキがあるな)
さっきの砂糖を能力で作っていたら、ここで詰んでいた。 だが、今の俺にはまだ、今日という日の「権利」が丸ごと残っている。
相手は魔法。理屈の通じない神秘の力。 ならば、対抗できるのは一つだけ。 この世界にはない、悪意ある**「科学の理」**だ。
俺はエリスに目配せをし、音もなく立ち上がった。 100グラム。 質量としては心許ない。 だが、熱力学の法則を叩きつけるには十分な量だ。
俺は魔導師たちを見据え、静かに構えた。 冷たい夜を、灼熱に変えてやる。




