第1話 ― 〝旅情〟Prologue
ふと、右足の裏に違和感を覚えて、「またか」と言わんばかりに――小さな溜息をついた。私は履物を脱いで、それを”コンコン”と叩いてやると――ああ、やはり薄灰色の粒が、ポロッと転がり落ちる。
――幾度、繰り返しただろう。いや、ふと……考えた。
私は――旅の中で――この動作を幾度繰り返したのだろう、と。
履物に小石が入り込むなど、長く歩けばよくある事だ。然しながら――少なくとも私にとっては、それはある程度の意味を成すものであった。
意味――街道を歩み、足裏に違和感を覚えて立ち止まる。履物を脱ぐと、やはり小石が転がり落ちる。そしてまた、歩み続ける。延々と。そんな時、私は漠然とした”自由”を覚える。自由を。何者にも束縛されず、歩み続けられる“自由”を。
今日、私は真に自由であった。
私は”自由”と称するに相応しいものを、ただ、土を踏みしめる事によって謳歌しているのである。
人間の”行動半径”とやらは人間の”世界”を酷く矮小化させるもので、あの漣の音を耳にするまでは――海の何たるかを知らず、あの美しき渓山を目にするまでは――山の何たるかを知らなかった。
書籍や伝聞で知り得る事も、実際にそれを見て――感ずるまで、真に知ったとは言えない。私は、そう思うのだ。この旅を通じて――そう考えるに至ったのだ。
――身に堪える寒空の下、身に染みる答えを求めて街道を歩む。これ程までに心躍る旅があるであろうか。一歩、また一歩と、この世界を漂うのだ。
何だか感慨深いと言うか、旅情――とでも言うのだろうか。
400年前の旅学者、ディシャレンディクは言った。
〝人間の”世界”とやらは、人間の拡張性を有する主観的価値観に過ぎない。真に重きを置くべきは――その主観的価値観の拡張と、客観的価値観の観測である。〟と。
ディシャレンディクは「旅」を通じて”自身の世界”を、そして「旅行記」を用いて”人々の世界”を広げようと試みたのだ。
一つ山を越えれば方言が、二つ山を越えれば言語すらも変わってしまう時代に。
人間の心は廃れ、卑しき者共が跋扈していた暗黒時代に。
…
今でも覚えている……未だ私が幼い子供で、父の書斎へ忍び込み、幾つかの蔵書を拝借した時の事を。特に私をのめり込ませた”書籍”達は、風土記であったり、旅行記であったり、異なる世界の情景を想像させるものばかりであった。
エリュクァントゥレ著、『夷人伝聞録』。
エリュヴァタレ著、『イェレ旅行記』。
ステュシュトゥリク著、『果ての海』。
そして――ディシャレンディク著、『晦冥の路』。
……彼等の冒険譚は、ある少年の心を惹き付け、そして酷く恋い焦がしてしまったのだ……!冒険を、私は冒険を求めた!ただ、新世界の景色を――私の知らない”誰かの世界”を求めて――!
…
未だキェルトゥールの学堂に居た頃、私は恐ろしく醜悪ものを見た。数多の弟子達に囲まれた、ある学者の姿である。
その学者はエリュカイ文化圏における学術的中枢――稀代の博学者と評される程の秀才――。
――彼は――その名声が故に、酷く小さな世界を弟子達に振りまいてしまった。誰だって、高名な方から称賛の言葉を頂けたら――それはそれは嬉しいものであろう。だがそれを――つい、己の功績かの如く錯覚してしまうのだ。褒められたい、もっと褒められたいと、無意識のうちに弟子達は――己が”大先生”と呼んで褒め称えるものに心酔し、服属し、その一言一句を神の言葉かの如く――付き従うようになる。……これは逆に、その大先生とやらが、弟子達の肥大化した承認欲求を満たす為だけの――”食い物”に……されているとも言えた。
――私は――そんな者に成り下がるなど――そんな醜態を晒すなど――耐えられない……。そんな不自由には耐えられない。欲にまみれた賛美など受けとうない。一人になりたい。どうか、名声は私の墓にでも投げかけておくれ。――そう、名誉欲はある。人一倍。いや、それ以上に。だか、それは酷く恥ずかしいものに聞こえるのだ。そう聞こえて仕方がない。酷く恐ろしくって、いや、青年期特有の妄想か思想か何かじゃないか、そんな事など、世間一般的には普通の事ではないか――。
――兎も角……あの傲慢と承認欲の魔窟で、これ以上の人生を消費したくなどなかった。合法的な出奔を心に決めたのだ。
私が志したのは”旅学者”であった。諸邑を巡り、知を広め、様々な物事を感じ取るのだ。
私はディシャレンディクの旅路を辿る。あまねきエリュカイを巡り、ゴリューシュキャ、シャキュミシャ、そして東方の果てへ。
そうしたら、次に私は――彼が辿り着けなかった”新世界”へと渡る。老境に入って旅が容易でなくなったならば、何処かで隠者の身と成りて――私の手で本を書くのだ。
――先程、『晦冥の路』をディシャレンディクの著書と言ったが、正確には彼の弟子が――途切れ途切れの日記を繋ぎ合わせて編纂したものだ。ディシャレンディクは――イェレ皇帝の宮廷で強烈な諫言を繰り返した為に――処刑場の露と消えた。つまるところ、自らの手によって――その冒険譚を完成させる事は叶わなかったのだ。
私は――そうなりたくない。全てを終わらせてから死にたい。道半ばで死ぬなど――哀れで――悲しい。ただ、悲しい。
……あぁ、何を考えているんだ私は――。
そんな事……考えなくて良いじゃないか、私はそんな事に――奴のような死に様は遂げてやらない――。




