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第9話:水面に咲く毒の蓮

 朝露に濡れる蓮の池は、後宮の中でも静謐な場所だった。


 その中央に、慎ましやかにたたずむ東屋。かつては皇帝の寵愛を受けた妃たちのための休憩所だったが、今はほとんど使われていない。


 しかし──その日、そこにはひとりの女官の姿があった。


 魏 瑠璃。


 彼女は池の水面をじっと見つめていた。そこには、咲き誇る白い蓮の花。その中に、一輪だけ――毒々しいまでに赤黒く染まった蓮が混じっている。


 「……誰かが、わざと植えたのね」


 背後から、シンファの声がした。


 瑠璃は振り返りもせず、言った。


 「蓮の根は繋がっているの。一本に毒を混ぜれば、時間をかけて、周りも……」


 「水も濁る」


 シンファが言葉を継いだ。


 二人の間に、しばしの沈黙が流れた。




 それから数日後。


 高貴妃の寝所に、新たな香炉が届いた。名目は「皇太后陛下からの贈答」。


 「……この香り、試したことがないわね」


 麗花がふと香を近づける。シンファはすぐに異変に気づいた。


 (この香……華やかすぎる。しかも、底にわずかな苦味……)


 「妃様、その香りは、いったんお預かりします」


 「なぜ?」


 「構成が不明です。精油の抽出方法が異なる……私の知る漢方書にない配合。念のため、調べたいのです」


 麗花はしばらく彼女を見つめていたが、静かに頷いた。




 香を調べるため、シンファは夜の調薬小屋へ忍び込んだ。


 用意していた香炭の上でごく少量を焚くと、ふわりと甘い煙が立ちのぼった。


 (甘いけれど、奥にある……金属の匂い)


 呼吸が浅くなる感覚。心拍が乱れ、指先が痺れる。


 ──これは、徐々に心臓に負担をかける香。


 (もし長期間吸えば、体が“自然に”衰えるように見せかけられる)


 つまり、「病死」に見せかけた暗殺。


 「……誰かが、麗花様を、静かに殺そうとしている」




 翌日、シンファは意を決して高貴妃に報告した。


 「この香は、毒です。吸い続ければ、おそらく一月と持たず」


 「……誰の仕業か、わかるの?」


 「皇太后の周辺と見られますが……香炉の形状、贈り主の名、全て正式なもの。表立っては断れません」


 麗花はゆっくりと目を閉じた。


 「そう……あの方は、まだわたしを恐れているのね」


 「妃様?」


 「私は、もう寵愛もない。けれど、まだ“名”がある。だから、私が静かに死ねば、“道理”が整う……」


 そう呟いた麗花の表情は、むしろ澄んでいた。


 「ならば、使いましょう」


 「え……?」


 「この毒香を、“こちらから逆に差し出す”のよ。あなたが作った“似て非なる香”を使って。向こうが差し出した毒を、浄化しながら返すの」


 「毒を、香で返す……」


 「そう。香で罠を返し、相手に気づかせずに切り返す。それが“後宮の礼儀”よ」




 その夜。


 シンファは調薬の小屋で黙々と香を調合していた。


 毒性のある植物を用いながらも、反応を打ち消す香料を掛け合わせ、毒性を緩和する“表面上は同じ”香り。


 ──敵には見抜けぬが、実際には“毒を無力化”する香。


 (香は、見た目ではわからない。けれど、香りの芯は、嘘をつけない)


 やがて、香炉に収まった新しい香が完成した。


 翌朝、高貴妃のもとには、従来の香炉とそっくりの“新しい香炉”が据えられた。




 後日。


 皇太后の間で、女官が耳打ちしていた。


 「高貴妃様の体調、回復なさっているとの噂です」


 「……ほう?」


 皇太后は、優美に扇を広げた。


 「毒香の反応がない? ならば、香を入れ替えたのか……それとも、毒に耐えたというの?」


 微かに瞳が揺れる。


 「ふふ……やはり、薛麗花はしぶとい」


 扇の影で、唇が皮肉に歪んだ。




 一方、夜の調薬室。


 火を灯すシンファの指が、一瞬止まった。


 香草の束の中に、紛れていた一輪の蓮の花。


 それは、あの赤黒い毒蓮と同じ色をしていた。


 (……これは、警告)


 誰かが、自分の存在に気づいている──それを、静かに告げていた。


 シンファは香壺の蓋を閉じ、灯りを消す。


 暗闇の中、香の余韻だけが、微かに漂っていた。

 


 少女は知った。


 香が語るのは、命と死だけではない。


 ──後宮の闇、その奥底に眠る“本当の意志”なのだと。

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