第6話:消えた香壺と、翠玉の爪痕
翌朝、李 杏花は、最初の異変に気づいた。
高貴妃・薛 麗花の私的香炉棚から、ひとつの香壺が忽然と姿を消していたのだ。
「昨日までは、確かに……ここにありました」
棚の四隅は定位置が決められており、麗花の指示で種類や調合比も帳面に細かく記されている。
失われた香壺に入っていたのは、“翠玉香”と呼ばれる特別な調合香だった。
それは緑茶のようなすがすがしさと、沈香の穏やかな余韻を併せ持つ涼香で、神経を落ち着ける一方、過剰な吸引でめまいや倦怠感を引き起こすことがある──。
何より、それが倒れた当日には使われていなかったはずの香であることが、シンファの警戒心を強く揺さぶった。
(何者かが、私たちが調べる前に“証拠”を隠滅した……?)
それとも──新たな“毒”を仕込み直すために、再び使おうとしているのか。
午後、麗花の許可を得て、シンファは香炉棚を徹底的に調べた。
だが、失われた香壺はどこにも見当たらない。周囲の使用人たちも、誰一人として移動を見ていないという。
「不自然です。香壺は陶製で重く、布に包まなければ音が鳴ります。誰かが運んだなら、香の匂いが残っているはず……」
その言葉に、侍女のひとりがふと口を開いた。
「そういえば、昨日の夕方、紅玉妃様のお使いが、香の選定を見せてほしいと立ち寄られました」
「紅玉妃……」
それは後宮内でも風流と詩を愛することで知られた妃であり、麗花とは微妙な距離感にある人物だった。
(まさか、あの香壺を……?)
疑念が浮かび上がる。
紅玉妃の間。
シンファは「香の記録確認」の名目で、内密に部屋を訪れた。
案内した侍女の視線が警戒を含んでいるのを感じながら、彼女は部屋の片隅に視線を走らせる。
(……あった)
棚の奥、飾り香炉の横に、見覚えのある薄緑色の壺が置かれていた。
間違いない──麗花の香棚にあった、翠玉香の壺だ。
シンファは、わずかに鼻を寄せた。
(香りが、変わっている……?)
それは確かに翠玉香の香調を保っていたが、奥に不自然な酸味が残る。これは──「緑青」の揮発成分に近い。
(銅の酸化物を混ぜた……? わずかにでも吸えば、吐き気と呼吸器への刺激が起こるはず)
だが、それを香に混ぜるとなれば、並の知識では不可能だ。
むしろ、“毒を香に仕込む”という行為そのものに、強い意志と悪意がなければできない。
そのときだった。
「まあ、麗花様の使いがここまで来るとは。ずいぶんと熱心なのね」
静かな声音とともに、紅玉妃が部屋の奥から現れた。
その姿は優美で気品に満ちていたが、目元には一瞬、計算されたものとは違う“獣のような警戒”が走った。
「香は、心を癒すもの。必要以上に探りを入れるのは、無粋ではなくて?」
「申し訳ございません。ただ、記録を整えるためです」
シンファは頭を下げながら、もう一つの違和感に気づいた。
紅玉妃の右手に嵌められた、翡翠の指輪──。
(……そこに、爪痕?)
翠玉香の壺に残されていた小さなひっかき傷。それと同じ形状の、翡翠に走った浅い線。
(この香壺……何かの拍子に落としそうになって、爪でとっさに抑えた?)
その可能性に気づいた瞬間、すべてが繋がった。
香壺を運び、香をすり替えたのは、紅玉妃本人。
それを隠すために、彼女は“自らの爪で壺を傷つけた”。
その夜、麗花のもとに戻ったシンファは、静かに報告した。
「香壺は、紅玉妃様の間にありました。香はすでにすり替えられ、わずかに緑青の香気が……」
「紅玉……。あの女、自ら動いたのね」
麗花の目に怒りが宿る。
「彼女が狙っているのは、単なる“毒殺”じゃない。私の立場を揺るがせる“慢性的な体調不良”──“不治の印象”よ。表向きは優美な詩人を気取りながら、内実は獣」
シンファは黙って頷いた。
麗花はふと視線を落とし、問いかけた。
「あなたは、恐ろしくないの?」
「……恐ろしいです。でも、それ以上に、怖いのは」
「怖いのは?」
「目の前で、誰かが知らぬまま毒に蝕まれることです」
その言葉に、麗花はわずかに微笑んだ。
「明日。宦官のひとりに、私の文を紅玉に届けさせるわ。“翠玉香はもう届いた”と。……返し球よ」
翌朝。紅玉妃は香壺を戻した。
何事もなかったかのように──ただし、香の中身は、すでに麗花の命じた“無害な草香”にすり替えられていた。
その数日後、紅玉妃の間で仕えていた侍女が“突然の退出”を命じられる。
理由は明かされなかったが、麗花はそっとシンファに告げた。
「毒を香に仕込むという“軽はずみな行為”の罰。……本命に手を出す前に、誰かに止めてほしかったのかもしれないわね」
後宮では、命と罪の境界線は曖昧だ。
今日もまた、誰かの手の中から香がこぼれ、静かに夜が降りていく──。




