第5話:毒と氷菓と、風向きの罠
その日、李 杏花は、上等な薄紅の衣を着せられていた。
それは、妃の間で働く私的侍女だけに許された色だった。つい昨日まで粗末な布地の下女服に身を包み、香炉の灰を捨てていた自分が、いまや高貴妃の身近に仕える身──。
(夢みたい。でも、これは……)
衣を整える手が、ふと止まる。
(試されている)
それが、今のシンファの実感だった。
「昨日の帳面を見せて」
朝の粥を終えた高貴妃・薛 麗花が、寝台からシンファを見やる。命を落としかけた妃の顔色は幾分戻ってきていたが、目の奥にある鋭さはそのままだ。
「ここ。氷菓に関する記述。少し掘り下げてみなさい」
「はい」
シンファは、帳面の一頁をめくり、筆を取りながら昨日の観察を思い返した。
「氷菓は梅の蜜を凍らせたもので、麗花様が口にされたものには、わずかに白濁した膜がありました。常ならぬ粘性があり、舌の表面にしびれ感を残す成分が感じられました」
「その成分は?」
「……“白蘞子”の抽出液に似た反応がありました。漢方では体熱を冷まし、鎮静に使われますが──高濃度だと、心拍数を異常に下げる副作用があります」
麗花の眉がぴくりと動いた。
「つまり、あれは薬ではなく“量を誤った毒”だったということ?」
「はい。しかも、それ単独ではここまでの症状にはなりません。わたくしが気になったのは……香です」
「香?」
シンファは机の端に置いていた香入れを持ち出し、その蓋を開いた。
「麗花様が倒れる直前まで焚かれていたのは、薫衣草と安息香を混ぜた“涼香”でした。心を鎮める香ですが、白蘞子と一緒に吸引・摂取すると、体温を急激に低下させる作用があります」
麗花の瞳が細められる。
「それは偶然の組み合わせではない、ということね」
「はい。しかも──香炉の配置が不自然でした」
「……不自然?」
シンファは、帳面に描いた簡易図を示した。
「庭園にあった香炉は通常、風下になる位置に置くのが作法です。けれど、あの日の香炉は、風上に──しかも“麗花様のお座りになっていた位置”を正確に狙った場所にありました」
「つまり、風に乗せて意図的に香を吸わせていたと」
麗花は静かに頷いた。
「犯人は……かなり用意周到。香と薬、どちらも効果を知っていた者」
「はい。そして、もう一つ──」
シンファは机の端に置かれた空の菓子器を指した。
「この氷菓は“麗花様のためだけ”に用意されたものです。他の妃たちは、別の果実味を選んでおりました。しかも、涼香の香炉に近いのは、麗花様の席だけでした」
「……では、私だけを狙った“毒見逃し”ということね」
その声は静かだったが、底に鋭い怒りが潜んでいた。
その夜。
麗花の命令で、侍女長と菓子係の女官が密かに呼び出された。
「氷菓を用意したのは、誰?」
「は、はい。氷室から取り出して、厨房で器に盛ったのはわたくしです……!」
恐怖に震える女官が、頭を床につけて言った。
「だが、梅蜜を加えたのは?」
「そ、それは……厨房に届いていた蜜壺を使いました。ですが、誰が持ち込んだかは……」
そのとき、シンファが一歩進み出た。
「その蜜壺。もし残っていれば、調べさせてください。白蘞子の混入が確認できれば、何者かが意図的に──」
「よいわ。調べなさい」
数日後。
白蘞子の濃縮液が、蜜の中から検出された。
だが、蜜壺を厨房に持ち込んだ者は不明のまま。
(これは……“誰か一人”ではない)
シンファは、ふと気づいた。
氷菓、香炉の配置、座席、そして風向きの読み。どれも“妃たちの間で詳しく知られていた”ことばかりだ。
(つまり……共謀か。あるいは、“誰か”が情報だけを流し、複数人を意図せず動かしている……?)
事件の闇は、思ったより深い。
その晩。
麗花は、帳面に目を通しながらシンファに告げた。
「お前、なかなか使えるわ。明日から、“香と薬の調査役”として、私の周囲の調度すべてを記録しなさい」
「はい」
素直に頷きながら、シンファは胸の奥で決意していた。
(私はこの命を、知識で守る。どんなに陰が深くても──)
薄紅の花が、ふたたび夜風に揺れた。
誰かが香を仕込んだ風の向きに、再び何かが忍び寄っていることを、まだ誰も知らないまま。




