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第4話:妃の間に呼ばれて

それは、まるで打ち首の宣告のようだった。


 宦官に導かれ、李 杏花リ・シンファは膝を震わせながら歩いた。通い慣れたはずの御花園の石畳が、今日はやけに長く、重たく感じる。擦り切れた下女服の袖の中で、手のひらがじっとりと汗ばむ。


(妃殿下に……会う? 私が、直接?)


 冷たい恐怖が、喉元を締めつける。


 無礼を働いた罰だろうか。下女の分際で、医師を差し置き、薬の処方を書いた。もしそれが咎とされれば、命などあっさりと奪われるのが、この後宮という場所だ。


 けれど、その一方で心のどこかに、小さな灯が灯っていた。


(もし……もしも、あの方が話を聞いてくださるなら)


 怖気づく思いの奥に、ほんのわずかに膨らんだ希望があった。


  


「通せ」


 その一言とともに、重い扉が開かれた。


 香の煙がほのかに漂う部屋の奥、几帳の向こうに人影があった。


 それは──高貴妃・薛 麗花セツ・レイカ。昨夕、突如倒れた後宮随一の権勢を持つ妃だった。


「頭を上げなさい。名を」


「は……李、杏花と申します」


「そう。お前が──私の命を救った“影の医”なのね?」


 声には、侮蔑も怒りもなかった。ただ淡々と事実を確認するような、冷ややかな響きがあった。


「いえ……わたくしなど……ただ、その場に偶然……」


 シンファは平伏し、首を垂れたまま否定する。


 だが麗花の声が、すぐ頭上に落ちた。


「顔を見せなさい。……誤魔化す必要はないわ。宦官たちは筆跡から、お前が紙を書いたと断定している。嘘は、罪を重ねるだけ」


 観念したように顔を上げると、麗花は細く目を細めてこちらを見つめていた。


 その顔は、まだ本調子ではないのか、わずかに蒼白く見える。だが、気品と迫力は失われていない。


「……なぜ、助けたの?」


 その問いに、シンファは息を呑んだ。


 麗花は、命を救われたことに感謝している様子でもなく、かといって憤っているようでもない。ただ──知りたがっていた。自分の命を救った者の“動機”を。


「……誰かが倒れて……それが、麗花様だったと知る前に……わたくし、どうしても、見過ごせなかったのです」


 震える声で、それでも真実を語った。


 祖父の姿が、ふと脳裏をよぎった。小さな村で香や薬草を使って人を助けていた、頑固で優しい祖父──李 安道リ・アントウのことを。


「祖父が……医でも香師でもない、ただの村の人でしたが。人を助けることだけは、いつも……」


 言いかけて、麗花の指がすっと掲げられた。


「もういいわ。……シンファ、と言ったわね。あなた、私の私的な侍女に仕えなさい」


「え……?」


 シンファは耳を疑った。


「これは命令よ。あのまま倒れたままなら、私はきっと“死んだこと”にされていた。医師が口を噤んでいたのは、誰かが私の死を望んでいたからでしょう」


 その言葉に、空気が張り詰めた。


「つまりこれは、後宮内の“殺意”に対抗するための処置なの」


 麗花の声音は、刺すように冷たい。


「“毒”が香に仕込まれていたのか、それとも……氷菓の中に、薬が混ぜられていたのか。いずれにせよ、これは偶然の発作などではない。だからこそ、あなたのような目を持つ者が必要なのよ」


「わたくしで……お役に立てるなら」


 シンファの声は震えていた。


 だが、その胸の奥では、確かに何かが目を覚ましかけていた。



 その夜。


 侍女の衣を与えられたシンファは、まだ慣れぬまま、ひとり帳面を開いていた。


 妃の間にあった香炉の種類、灰の色、氷菓に使われた素材、そして麗花の症状の変遷──細かく記録し、分析していく。


 すると、不意に一枚の花びらが帳面に落ちた。


 見上げれば、開け放たれた小窓の向こうに、薄紅の桃花が揺れている。


(あの時、香炉の煙が……まるで、誰かが風の向きを“計算”していたみたいだった)


 シンファは、微かに眉を寄せた。


 後宮に潜む影は、ただの偶然ではない。


 これが、すべての始まりだった──。

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