第2話:倒れた少女と、「偶然の知識」
後宮の朝は早い。
まだ空が白み始める前、女官の点呼の声が響き、下女たちは一斉に動き出す。
洗濯場へ、調理場へ、庭掃除へ。それぞれ割り振られた仕事を黙々とこなすのが掟だった。
「シンファ、井戸水の運搬お願い」
「はい、すぐ行きます」
シンファは桶を両手に持ち、まだ冷たい空気の中、裏庭へと急いだ。
その日も、いつもと変わらぬ一日のはずだった。
しかし、井戸から戻ったとき、空気が一変していた。
「誰か! 早く、誰か呼んで!」
悲鳴に近い声。
声の主は同じ部屋の下女──リーリンだった。
シンファが駆け寄ると、床に崩れ落ちている少女の姿が目に入った。
顔は真っ青で、額には冷や汗が浮いている。唇は紫がかり、息も浅い。
「これは……」
(意識は……かろうじてある。でも、脈が弱い)
シンファはすぐに少女の手首に触れ、鼓動を確かめる。
思い出すのは、祖父から聞いた“とある話”だった。
──喉が詰まるような咳と息切れ、それに急激な脱力感……
──これは「硫酸銅中毒」に似ているかもしれない。
彼女の目が、小さな机の上に置かれた水桶を捉えた。
飲み残された水の色が、ほんの僅かに青緑に濁っている。
(まさか、井戸水が……?)
「リーリン、この子、何か変なもの食べたり飲んだりしてなかった?」
「え、えっと……今朝、お腹を壊してたからって、隣の部屋の子から薬草を分けてもらったって……」
(薬草……もしかして、誤って毒草が混ざった?)
迷っている時間はなかった。
シンファは手早く彼女を横たえ、身近なもので即席の処置を始める。
「誰か、お湯を! 急いで!」
「えっ、お湯? な、何に使うの?」
「いいから! 塩も少し!」
下女たちは困惑しながらも、シンファの必死の表情に圧されて動き出した。
(まずは嘔吐を促す。それから、体を温めて血流を確保……)
全て、祖父が語っていた“西洋の毒への対処法”の断片だった。
聞きかじっただけの知識、しかも子供の頃の曖昧な記憶に頼った処置。
それでも──今、誰かが動かなければ、この子は死ぬ。
やがて、お湯と塩が届く。
シンファは塩水をつくり、少女の口元へ慎重に注いだ。
「お願い、間に合って……!」
祈るように心の中で叫ぶ。
数十秒後、彼女の身体が小さく震え、口を押さえてえずいた。
吐き出されたのは、かすかに青緑に染まった液体。
「よかった……」
その瞬間、安堵と同時に、膝がガクンと崩れた。
少女は呼吸を取り戻し、頬にうっすらと血の気が戻ってきていた。
「これは……どういうことだ?」
その場に現れたのは、巡回中だった年配の女官だった。
「彼女が……突然倒れて……」
リーリンが説明する中、女官の視線がシンファに移る。
「お前、医女か?」
「……いえ。私は、ただの下女です。祖父が昔、薬草や医術に詳しくて……それで、偶然聞いたことを思い出して……」
シンファは頭を下げた。
自分の言葉に嘘はなかった──これは、あくまで“偶然”にすぎない。
けれどその“偶然”が、命を救ったのだ。
「この件は、上にも報告されるだろうな」
女官は低くそう呟き、背を向けて去っていった。
残された下女たちは、ぽかんとした表情でシンファを見つめていた。
静まり返った部屋の中、息をつくシンファの胸の奥に、ひとつの予感がよぎっていた。
──また、後宮の「歯車」が、静かに動き出していた。




