第13話:香炉の記憶、闇を裂く声
診療院の奥、棚の上に並べられた香の瓶。その中にひときわ古びた陶器がある。
「黒鳳香」と記されたその瓶を、シンファは静かに両手で抱えた。
──これは、数年前に“妃”を一人、死に至らせたとされる毒香。
「本当に、これが使われたのか……?」
唇を引き結びながら、瓶の底を透かして見る。残滓から微かに感じる異臭。それは乾いた木片のようでいて、鉄のような渋味を伴うものだった。
(……ただの毒じゃない。この香には“記憶”が封じられている)
記憶──それは香に宿る、かすかな情念。香師であればこそ感じ取れる、命の断片。
そのとき、扉が軋む音。
振り返ると、そこに立っていたのは、斉瑶だった。
「シンファ様……。見つけました。玉環様が亡くなる直前に使っていた香炉……お部屋の奥に、隠してありました」
斉瑶の差し出した小ぶりな香炉は、内側に黒い染みがこびりついていた。ごく僅かに、焦げた香草の匂いが鼻をつく。
「……これ、白梅香じゃない。もっと複雑な調香がされてる……。これも“誰か”が意図して用意した香だわ」
シンファはすぐに調香机に向かい、香灰の分析を始めた。
(桂皮、麝香、白檀──いや、違う。もっと深く、隠すように混ぜられてる……)
瓶の中の黒鳳香の香りと、香炉の残香。わずかに似た成分が重なっていた。
「同じ系統……。つまり、玉環様も“試されていた”可能性がある」
その時、ウレンが姿を現した。
「それだけではない。君の存在自体が、今、後宮の“焦点”になっている」
「……わかっています。麗花様を救ったことで、誰かの警戒を買った」
「中宮・賀蘭妃が、香についての調査を命じたらしい。名目は『健康管理の見直し』だが、本当は“誰が裏で動いているか”を探っている」
「私が見つけた香の情報も、いずれ彼女の耳に届くでしょうね」
ウレンはふっと笑った。
「それでも、君は香を見極めるんだな」
「ええ。香に宿る記憶は、命を診る鍵ですから」
◆
その夜、シンファはひとりで玉環の私室へ向かった。斉瑶に教えられた裏の通路を通り、誰にも気づかれぬよう忍び込む。
冷えきった部屋。今は誰もいないその空間に、確かに“何か”が残っていた。
──香の痕跡。淡く、けれど確かに漂っていた。
シンファはゆっくりと香炉を置き、黒鳳香の記憶香を焚いた。
しんとした静寂。
やがて、耳元に、女の微かな囁きが聞こえた気がした。
「……嘘……誰かが……私を……」
その声は、恐怖と絶望の色を帯びていた。
「玉環様……?」
声は続かない。だが、伝わったのは、明確な“誰かへの裏切りの悔しさ”だった。
シンファは静かに目を閉じる。
香の煙に託された魂の欠片。それが導く先には──誰かが仕組んだ“見えない罠”がある。
◆
翌朝。
診療院の前に、一通の文が届けられていた。
中宮・賀蘭妃の紋が刻まれた、紅玉色の封蝋。
「後宮香管理の補佐として、香衛役を拝命されたし。中宮・賀蘭」
読み終えたシンファの手が、わずかに震えた。
──これは、招待でもあり、警告でもある。
だが、逃げるつもりはなかった。
香が命を伝える限り、彼女の診は止まらない。
たとえ、それが後宮の闇の真芯に繋がっていたとしても──。




