第12話:白梅の香に潜む罠
冷たい朝の気が、中庭に敷き詰められた玉石の上を滑っていた。冬の兆しが漂い始めた後宮に、白梅がほころび始めている。
診療院の窓を細く開けると、かすかに甘く澄んだ香りが漂ってきた。だがその香りの中に、シンファは微かな異変を感じ取っていた。
(……白梅の香が強すぎる。時期の割に、香気が濃い)
それは自然ではない。人工的に強められている香──香炉か、香粉か、それとも──。
そのとき、門の外から駆け込んできた女官の声が響いた。
「シンファ様、至急おいでください! 麗花様のお部屋で、また香による不調者が──!」
シンファはすぐに薬包と調香道具をまとめ、診療院を飛び出した。
◆
高貴妃・麗花の居室に着くと、すでに数名の侍女たちが床に倒れ、顔色を青くしていた。
「香の部屋……? まさか、あの“白梅香”が原因?」
薫り高い香煙が室内を満たし、空気が妙に澱んでいる。肺を通して、粘膜にまとわりつく感触──ただの香ではない。
シンファはすぐに香炉の元へ駆け寄り、香灰と残り香を観察する。燃え残りに、薄く青みがかった粒が混じっていた。
「……紫鉛。これは、白梅香に紛れ込ませた重金属系の毒……!」
毒性は即効ではないが、長時間吸えば体に蓄積し、内臓を蝕むものだった。
「麗花様は……!」
主の寝台に駆け寄ると、麗花は意識こそあるものの、呼吸が浅く、口元には微かな吐血の痕。
「毒を……?」
「はい。恐らく、今朝からこの香を焚いておられましたか?」
「ええ。……中宮様から、“冬の香として相応しい”と、お贈りいただいたものです……」
その瞬間、部屋の空気が凍りついた。
(中宮様から──?)
中宮・賀蘭妃は、今や後宮の頂点に君臨する存在。公に疑うことなど誰にも許されない。しかし──。
「麗花様、お身体を温め、今すぐに解毒の煎じ薬を服用してください。香炉は封じます」
「……お願い、シンファ。私……まだ死にたくないの……!」
「お任せください。私は、命を診る者です」
そう言い切ったシンファの声には、一切の迷いがなかった。
◆
その夜、診療院の裏手。
シンファは香灰を再検査していた。使用された毒は微量だが、確かに加工されていた形跡がある。
(これは“自然に見せかけた毒”。香師ではないと作れない)
そこへ、黒衣のウレンが現れた。
「君も気づいたか。“白梅香”の異常に」
「中宮様の贈り物でした。表向きには“好意”……でも、実際は“試し”の可能性が高い」
「毒を使って麗花を試す。あるいは、誰かの動きを試す──たとえば、君のような存在を」
「私を?」
「名もなき者が、次々と命を救う。宮中にそんな噂が立てば、“主”たちにとっては脅威になる」
シンファは口を結んだまま、香灰を指でつまんだ。
「この毒は、明確な殺意とは言えない。致死量ではない。けれど、放置すれば病に至る」
「……“牽制”だ」
「あるいは、“宣戦布告”かもしれんよ、シンファ嬢」
その言葉が落ちたとき、風が強くなり、遠くから白梅の花びらが一輪、ふわりと風に乗って舞い込んできた。
◆
深夜、誰もいない診療院に、一人の人影が忍び込んでいた。
戸棚を静かに開き、香料の瓶を一つ、ゆっくりと持ち上げる。
──「これは……“黒鳳香”……?」
その人物の手が震える。かつて、毒殺未遂に使われた伝説の香。
闇の底で、誰かが香を操っている。
その目的は未だ見えない。だが確かに──後宮の片隅で、香と命を巡る戦いが、静かに激しさを増していた。




