第11話:黒衣の参内と、双眸の真意
午前の謁見が終わり、後宮には一時の静けさが戻っていた。
しかし、風が変わった。そんな気配を、シンファは肌で感じていた。
侍女の雪花が慌てて診療院へ駆け込んできたのは、ちょうど薬草棚に新しい乾燥白芷を仕舞い終えた直後だった。
「シンファ様! ──“あの方”が、今日、後宮に入られるそうです!」
「あの方……?」
その一言だけで、雪花の全身がこわばった。まるで名前を口にするだけで呪いを招くように。
「黒衣の御人です。中宮様の命を預けておられる、あの方が──」
シンファは無意識に白芷の香りを強く吸い込んだ。生薬の苦味が喉奥を締めつける。
「宮中医局の最上段、闇医の筆頭──“黒衣の医師”ね」
「あれは医師、なんでしょうか……? 噂では、皇帝陛下がご寵愛を受けた妃の脈を一目で断じ、亡骸に涙一つ見せなかったと……」
「噂で診療していたら、命は助けられないわ」
そう言ったものの、シンファの胸にも不安の靄が漂っていた。
それは、命を診る者としての直感──“己の目では見えない毒”が、すでに後宮に放たれ始めている、という確信だった。
午後三刻。
診療院の門が静かに開き、黒衣の影が差し込んだ。
「失礼する」
その声は、低く、氷のように澄んでいた。
現れたのは一人の男──顔立ちは端正だが、どこか人間の温度を拒むような冷たさをまとっていた。
漆黒の衣に銀糸の縁取り。指先まで手袋で覆われ、眼差しは深く沈んだ灰。
「あなたが、“黒衣の医師”──」
「名はウレン。宮中医局からの指示で、今日より中宮様の定期診察を兼ねて、後宮に常駐することになった」
淡々と告げられた言葉の下に、何重もの意図が読み取れた。
常駐──それはすなわち、この後宮に“監視”の眼が常に据えられることを意味する。
「ここが診療院か。……君が、シンファ嬢か」
「はい。辺境出身の下医でございます」
「聞いている。“野医上がり”にしては、診た数も、処した症例も多いとか」
蔑みではない。むしろ評価──それが余計に、シンファの警戒心を煽った。
「私も、貴方のうわさは伺っております。脈を断つ者と」
「噂は、信じないことだ。脈は見るものだ。断つものではない」
その言葉に、診療院の空気が一瞬和らいだ気がした。
だが、ウレンは続けた。
「ただし、診断の遅れが一人の命を奪うのであれば、断定は“慈悲”でもある」
慈悲──それは医者にとって、最も残酷な判断でもある。
「中宮様の診察には、私も立ち会わせていただきます」
「構わない。共に診ればよい」
互いの探り合い。だが、そこには確かな“医”の対話があった。
その夜、シンファは一通の報せを受けた。
《東廊に仕える女官が、謎の高熱で倒れた。来てほしい》
急ぎ駆けつけると、そこには顔を真っ赤にし、唇を紫に染めた少女が横たわっていた。
「熱ではない。これは──中毒の症状……!」
匂いを嗅ぎ、舌で微かに味を確かめる。これは、華南から献上された新香料《烏蘭華》──しかし、通常ではここまでの中毒は起きない。
「何か、混ぜられている……」
そのとき、扉が開き、再び黒衣の男が現れた。
「予想より早かったな、シンファ嬢」
「……まさか、貴方も?」
「私も、同じ診断だ。だが──私が注目したのは、香料そのものではない」
そう言って、ウレンは香壺の裏を見せた。
そこには、見慣れぬ印──蛇の文様と、赤い墨文字。
「“赤蛇の刻印”──これは、三年前に後宮で発覚した毒殺未遂事件で使われた道具と同じだ」
「ということは、犯人は──まだ後宮に……?」
「いや。もっと複雑だ。この“毒”は、意図されたものではなく、“予兆”として撒かれた可能性がある」
予兆。
毒を使い、何かを知らせようとする者がいる。
「つまり、これは“警告”だと?」
「そのとおり。だが誰への? それを解くには、君の目が必要になる──“目で毒を読む女”」
それは、かつて一度も口にしたことのない、シンファの異名だった。
「……あなた、何者なの?」
「私の目的は、“毒”ではない。“毒の裏にある動機”を探している」
ウレンの瞳に浮かぶのは、凍てついた月のような光。
その光に、シンファはたじろぎながらも、どこか既視感を覚えていた。
毒の香りが消えない夜──
後宮の闇が、また一つ、形を持ち始めていた。




