表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/13

第10話:玉環の涙と、女官の声

後宮の夜は、静寂とともに香りが満ちていた。


灯りを落とした調薬室に、淡い香の煙がゆらめいている。乳香に似た柔らかな香りは、心を落ち着かせる作用がある。蒸し壺の中で、乾燥させた玉環花が湯気とともにほのかに甘く香った。


「……ずいぶん贅沢な香りだね」


小さな声でそう呟いたのは、若い女官・斉瑶さいようだった。彼女はこの一週間、夜になると誰にも告げず、ひそかにシンファのもとを訪れていた。


 


「夜になると、胸がざわざわして、眠れなくて……。この香を嗅ぐと、少しだけ楽になるんです」


彼女の目元には、眠れぬ夜が続いた痕が色濃くにじんでいた。けれど、どこかその不安定さは、単なる不眠症とも違っていた。


 


シンファは黙って薬壺の火加減を調整しながら、斉瑶の手首にそっと指を添えた。細くて軽い脈──だが、それ以上に、指先に伝わるかすかな震えが気になった。


 


「夜、夢を見たりする?」


 


問いかけに、斉瑶はびくりと肩を揺らす。


「……夢というより、“声”です。誰かの泣き声が、部屋の中から聞こえてくるんです。誰もいないのに、はっきりと……。それで、毎晩目が覚めてしまう」


 


「それは、毎晩?」


 


「はい。ちょうど、三日前に亡くなった玉環様が……」


 


そこで斉瑶は言葉を切り、口元を覆った。玉環──帝の寵愛を受けていた若い妃。突然の病で亡くなったとされるが、死亡直後から、女官たちの間で“夜な夜な玉環の泣き声が響く”という噂がささやかれていた。


 


「誰かに話した?」


 


「怖くて……。誰にも」


 


シンファはふっと小さく息を吐いた。その様子を見た斉瑶が、おずおずと声を落とす。


「……私、おかしくなったんでしょうか?」


 


「いいえ。ただ、“おかしくさせられそうになっている”だけ」


 


彼女はそう言って、壺から香を染み込ませた小布を取り出した。斉瑶の両手に包ませると、シンファはぽつりと言った。


「斉瑶。玉環様が亡くなる前、何か変わったことは?」


 


「……はい。実は、亡くなる前の晩に、玉環様は誰かに会っていたんです」


 


「誰に?」


 


「──宦官の“祥徳しょうとく様”です。夜更けにこっそり来て、玉環様と何か言い争っていて……でも翌朝には、祥徳様は何事もなかったように姿を消していました」


 


その名を聞いたとき、シンファの背に、冷たい何かが這い寄るのを感じた。


祥徳──帝に仕える筆頭宦官であり、かつての“香毒事件”にも関与が疑われた人物。


 


(香の系譜をめぐる陰の繋がりが、また動き出している……?)


 


斉瑶の見る“夢”、それはきっと玉環の残した“証言”だった。香に記憶が宿ることがあるのなら、彼女が死の間際に抱えた恐怖や無念が、香の中に、空間の中に、残っていたとしても不思議ではない。


 


「斉瑶。明日、玉環様の私室を見せてくれますか」


 


「……はい」


 


静かにうなずいた斉瑶の瞳には、怯えとわずかな希望が揺れていた。


香の記憶、夜の声、女官の涙──。


それらの断片をつなげば、玉環の“死”がただの病ではなかったことが、やがて浮かび上がってくるはずだった。


 


そして、シンファは思う。


沈黙の後宮には、まだ多くの“声にならぬ声”が埋もれている。


 


それを拾い上げ、言葉に変える者であるために──彼女は今日も、ひそやかに香を焚くのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ