第10話:玉環の涙と、女官の声
後宮の夜は、静寂とともに香りが満ちていた。
灯りを落とした調薬室に、淡い香の煙がゆらめいている。乳香に似た柔らかな香りは、心を落ち着かせる作用がある。蒸し壺の中で、乾燥させた玉環花が湯気とともにほのかに甘く香った。
「……ずいぶん贅沢な香りだね」
小さな声でそう呟いたのは、若い女官・斉瑶だった。彼女はこの一週間、夜になると誰にも告げず、ひそかにシンファのもとを訪れていた。
「夜になると、胸がざわざわして、眠れなくて……。この香を嗅ぐと、少しだけ楽になるんです」
彼女の目元には、眠れぬ夜が続いた痕が色濃くにじんでいた。けれど、どこかその不安定さは、単なる不眠症とも違っていた。
シンファは黙って薬壺の火加減を調整しながら、斉瑶の手首にそっと指を添えた。細くて軽い脈──だが、それ以上に、指先に伝わるかすかな震えが気になった。
「夜、夢を見たりする?」
問いかけに、斉瑶はびくりと肩を揺らす。
「……夢というより、“声”です。誰かの泣き声が、部屋の中から聞こえてくるんです。誰もいないのに、はっきりと……。それで、毎晩目が覚めてしまう」
「それは、毎晩?」
「はい。ちょうど、三日前に亡くなった玉環様が……」
そこで斉瑶は言葉を切り、口元を覆った。玉環──帝の寵愛を受けていた若い妃。突然の病で亡くなったとされるが、死亡直後から、女官たちの間で“夜な夜な玉環の泣き声が響く”という噂がささやかれていた。
「誰かに話した?」
「怖くて……。誰にも」
シンファはふっと小さく息を吐いた。その様子を見た斉瑶が、おずおずと声を落とす。
「……私、おかしくなったんでしょうか?」
「いいえ。ただ、“おかしくさせられそうになっている”だけ」
彼女はそう言って、壺から香を染み込ませた小布を取り出した。斉瑶の両手に包ませると、シンファはぽつりと言った。
「斉瑶。玉環様が亡くなる前、何か変わったことは?」
「……はい。実は、亡くなる前の晩に、玉環様は誰かに会っていたんです」
「誰に?」
「──宦官の“祥徳様”です。夜更けにこっそり来て、玉環様と何か言い争っていて……でも翌朝には、祥徳様は何事もなかったように姿を消していました」
その名を聞いたとき、シンファの背に、冷たい何かが這い寄るのを感じた。
祥徳──帝に仕える筆頭宦官であり、かつての“香毒事件”にも関与が疑われた人物。
(香の系譜をめぐる陰の繋がりが、また動き出している……?)
斉瑶の見る“夢”、それはきっと玉環の残した“証言”だった。香に記憶が宿ることがあるのなら、彼女が死の間際に抱えた恐怖や無念が、香の中に、空間の中に、残っていたとしても不思議ではない。
「斉瑶。明日、玉環様の私室を見せてくれますか」
「……はい」
静かにうなずいた斉瑶の瞳には、怯えとわずかな希望が揺れていた。
香の記憶、夜の声、女官の涙──。
それらの断片をつなげば、玉環の“死”がただの病ではなかったことが、やがて浮かび上がってくるはずだった。
そして、シンファは思う。
沈黙の後宮には、まだ多くの“声にならぬ声”が埋もれている。
それを拾い上げ、言葉に変える者であるために──彼女は今日も、ひそやかに香を焚くのだった。




