第1話:攫われた少女と、後宮への道
夕暮れの市場は、熱気と埃と香辛料の匂いで満ちていた。
「おじさんの頼まれものは……これで全部ね」
シンファは布袋を抱え、忙しなく市場の裏路地を歩いていた。頼まれたのは、傷に効くという乾かした虎耳草と、咳止めに使う杏仁。薬草には詳しい。父も祖父も、そしてその父も、代々薬師をしていたからだ。
「早く帰らなきゃ……。陽が沈んだら、あの辺りは物騒になるって言ってたし」
だが、少女の焦燥は、ほんの一瞬の油断で途切れた。
「っ——!?」
背後から伸びた黒い影が、彼女の細い腕をつかみ、口を塞いだ。驚く暇も、叫ぶ余地もない。力強く引き寄せられたその先には、二人、三人と現れる男たちの影。あっという間に布袋ごと引き倒され、荒縄で手足を縛られてしまう。
「いい品だ。これなら後宮でも高く売れるだろうな」
「顔も悪くない。医者の娘だとよ。物覚えは早かろう」
「早く荷車に乗せろ、見つかる前に出るぞ」
男たちの言葉に、シンファは凍りついた。
——売られる。私は、後宮に売られるんだ。
その瞬間、祖父の昔話が脳裏をよぎった。
「この家の先祖にな……ある日、攫われて後宮に入れられた者がいたそうだ。薬草に詳しくてな、そこで命を救ったことがあると……」
まだ幼かった自分に、祖父がくれたその話。絵空事のように聞こえた話が、今、まさに自分の身に降りかかっている。
唇を噛む。痛みはない。ただ、怖い。
目の前は暗い。荷車の揺れと、男たちのざらついた笑い声が、どこまでも耳にまとわりついた。
夜が明けたころ、荷車はとある屋敷の前で止まった。
「こいつは後宮送りだ。素性は伏せてある」
「また薬師か? 最近、多いな」
通されたのは、大きな帳の張られた部屋。着替えを命じられ、身体を清められ、髪を結われる。無機質な作業のように、すべてが進んでいった。
「お前は今日から『下女』だ。名前は問うな。命令に従えば生きていける」
それが最初の言葉だった。
与えられた名前はない。与えられた仕事も、掃除と水汲みだけ。
だがシンファは、怯えてばかりはいなかった。
(ここで生きるには……)
自分の知識を隠す。医術を口に出せば、目立ってしまう。けれど、何かがあった時、自分だけは何が起きているかを正確に知ることができる。
(生き延びるには、それを活かす時を待つしかない)
彼女は誓った。いつか、この不条理な運命に、知識の刃で風穴を開けることを。
──少女はまだ知らなかった。後宮を蝕む「病」が、すぐ目の前まで迫っていることを。