新春お餅エッセイ ~思い出はほんのり甘くてあたたかい~
新年あけましておめでとうございます<(_ _)>
本年も、ひだまりのねこをよろしくお願いいたします(*´▽`*)
私にとってお餅とは甘いものであった。
だからお餅をたくさん食べられるお正月は大好きだった。
我が家の定番は、あんこをお餅で包んで丸めたもの。『あんころ餅』と呼んでいたが、一般的には別のものを指す呼び名らしいと最近知った。カリカリに焼いた香ばしいお餅とあんこのハーモニーは絶妙で、あんは甘さ控えめなのでいくらでも食べられる。
そしてやはり『ぜんざい』は外せない。こちらも子どもの頃、周囲では『おしるこ』と呼んでいたので混乱した。我が家の料理は大抵外では違う呼び名だったりするのであるあるとして気にしていなかったが、餅か白玉か、粒あんかこしあんか、水分の多い少ないに加えて地域差もあるのだと知ってからは余計に面倒くさいので私は常に『ぜんざい』で通している。まあ、それでも十分意味は通じるし『ぜんざい』の方が品があって美味しそうな気がすると思うのだ。異論は認める。
だが――――やはり至高なのは、鏡開きで砕いたお餅を食べることだろう。
子どもの頃の私は、毎日鏡餅に張り付いてお世話をしていた。
お世話と言っても特に何をするわけではないのだけれど、ヒビの数や長さを調べたり記録して日々の成長?を観察するのが大好きだった。
鏡餅には神さまの力が宿るといわれているが、私にはたしかにその力を感じることが出来たのだ。
そして――――鏡開きの日、立派に成長した鏡餅を木槌で砕いてゆく瞬間はその年のクライマックス、最高に興奮する時間だ。
綺麗に成型された工業製品が悪いとは言わないが、不揃いに砕けた餅の欠片は自然と神さまが創り上げた芸術作品、興奮とドキドキが止まらない、自然と感謝の念が湧き上がってくる。
小さな欠片は『ぜんざい』に入れていただくが、大きめの欠片は水に漬けて柔らかくしたものをまとめてフライパンで焼く。それを我が家では『水もち』と呼んでいた。他の家で聞いたことは無いし、水に漬けるからという安直なネーミングは間違いなく母のセンスだろう。
ごま油で表面がカリカリになるまで焼くのだが、中はとろとろ、見た目はパンケーキと餃子のハーフのような、可愛さと武骨さを奇跡的なバランスで併せ持つ、餅界の女帝ともいえる存在だ。
アツアツの『水もち』は少し深めの大皿に満たされた少し甘めの砂糖醤油の海に放たれる。かけるのでもなければ付けるのでもない、浸すのだ。片面が十分浸されたら裏返して両面が浸かれば完成だ。
ごま油の香ばしさと甘じょっぱい砂糖醤油との相性は最高。
まずはカリカリに焼いた皮をいただく。そしてとろとろの内面をいただいたら、次に皮とミックスして両方を同時に味わう。驚くことに部位によって美味しさが違うのだ。『水もち』は家族全員で大皿から好きに取るスタイルなので、最大限味わうには強い意志と愚直なまでの実行力が求められる。ようするに――――早い者勝ち、ということだ。
父は私たちが食べるのを待ってくれるのでそもそも意識の外なのだが、母は食べるのが恐ろしく速い。いだだきます、と言い終えた瞬間にはもう食べ終わっている。大袈裟に聞こえるかもしれないが、実際、私は母が食べている姿を見たことが無いのだ。そんなことをすればすべて失ってしまう、そんな恐怖と危機感が魂に刻み込まれているからだろう。
私は食べるのが遅い。カリカリとろとろミックスが味わえるはじっこ部分を必死に確保、堪能し、水分を補給している間に『水もち』は無くなってしまう。
だが私は慌てない、なぜなら『水もち』の神髄は二枚目にあるからだ。
父や弟は食が細いので二枚目には消極的で、母は一枚目で大量に食べているので、実質二枚目は私の庭だ。ダイレクトにかぶりつくことすら許されていた。
『あんころ餅』を作ってくれた祖母はすでに他界し、入退院を繰り返している母が『水もち』を作ってくれることはおそらくもう無いだろう。
お正月が来ると思い出す。
私にとって――――お餅はほんのり甘くてあたたかい思い出の味だ。
何度か作ってはみるのだが、あの味は再現できない。
ただそれでも――――家族みんなで囲んだ――――笑顔にあふれた食卓の記憶が恋しくて
私はひとりお餅を食べるのだ。
チーズと海苔で巻いたお餅を醤油バターでいただく。
大人になった私が辿り着いた最適解、異論は認めない。




