8 最後の宴
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「うちのお嬢さんはどこに行った?」
明るい月が照る夜、明日でおそらくこの戦いは最後であることから、館の前庭ではささやかな宴が開かれている。そこにふらりとやって来るなり開口一番フィンレーが言い、何の話だといぶかしげにルースは片眉を上げた。
それを見てフィンレーは「お前の憧れだった黒髪のお嬢さんだよ」と言う。
ルースはあからさまに不機嫌そうなしかめ面を作って彼をたしなめた。
「本人に言ったら怒られるぞ」
「それは見ものかもな。彼が本気で怒ったところはまだ見たことがない」
その返答にルースは大きなため息をついた。
「わざわざ最後の夜に怒らせる必要はないだろう」
「小言はいい、どこにいるか知っているなら教えてくれ」
そう言ってフィンレーが右手を上げる。そこには陶器製の瓶とゴブレットが握られていた。
「俺も見てないから知らないけど……外壁の上じゃないか? 時々あそこから外を眺めているようだから」
「そうか、確かにそうだな」
なるほど、といった様子でフィンレーはうなずき、ゴブレットの一つをルースに渡すと、夜の闇に沈む外壁の方へと歩き出す。ルースもそれについて行った。
「お嬢さん、同席してもよろしいですか?」
高い石壁にかけられた梯子を登り、軽く手を振ってフィンレーが声をかけると、夜に溶けるような黒髪を揺らしてエンリェードが振り返った。魔力の宿る赤い瞳がうっすらと光って見える。その目が何かを探すようにさまよったあと、フィンレーを再びとらえて止まった。
「お嬢さん?」
「君のことさ」
フィンレーは軽薄にそう言ってウィンクをしてみせる。そんな彼のあとから梯子を登ってきたルースは、石壁の上に体を持ち上げながら同情的にエンリェードに言った。
「気にするなよ、いつも通りこいつはおかしなことを言っているんだ」
「おかしなこととはなんだ。友人にひどいことを言うじゃないか」
「男友達をお嬢さんとからかう方がひどいだろう」
心外そうな顔で言うフィンレーにルースがそう反論すると、彼は「自分だって『レディ』と呼んだくせに」と呟いた。
それにルースは、かっとした様子で声を荒らげる。
「最初だけだろう! いつまでその話をするつもりなんだ」
「悪いが俺は一生言うと思うぜ」
「……何か用でも?」
いつものように口げんかを始めた二人を静かに見返しながら、エンリェードが尋ねる。
それにフィンレーははっとした表情を浮かべ、「そうだ、ふざけていて忘れるところだった」と言いながら、持っていたゴブレットの一つを押し付けるようにしてエンリェードに手渡した。
「最後の夜に乾杯でもしようと思ってさ」
「フィンレーにしては悪くない提案だ」
そう言ってルースも手に持ったゴブレットを軽く持ち上げてみせる。
エンリェードはそんな二人と自分の手元にある杯を不思議そうに交互に見やった。
「ほら、懐かしいんじゃないか?」
フィンレーがそう言いながら瓶の封を開け、中身をエンリェードのゴブレットに注ぐ。蜜色の液体で満ちた杯を見下ろし、その香りに気付いて彼はわずかに目を見開いた。
「花蜜酒? どこでこんなものを」
「頼もしき我らが友人殿のコネを使って注文したのさ」
フィンレーはルースの方へ顔を向けて言うと、彼のゴブレットにも同じように――とはいえ彼は若いので少なめに酒を注いでいく。
「妖精族系はこれでしか酔えないんだろう? 俺たちも味見してみたかったから頼んでおいたんだ」
ルースはそう言って無造作に外壁の上に腰を下ろした。その隣に自分の杯を満たしたフィンレーも座り、エンリェードに手招きをする。
それに従い、彼も二人に並んで腰を下ろした。
「では、我らが友情に乾杯」
「勝利を祝って、じゃないのか」
口をはさんだルースにフィンレーはやや呆れ顔で言葉を返した。
「はじめから誰も勝てるなんて思ってなかった戦争だぞ」
しかしその返答にルースは不満げに応じる。
「俺は勝つ気で来たし、明日も負けるとは思ってない。この停戦協定は事実上、勝ったようなものだろう」
「その心意気と商人魂にも乾杯」
そう言うとフィンレーは二人の杯を鳴らし、自分のゴブレットに口を付けた。エンリェードとルースもそれにならう。
「意外に甘くないんだな。口当たりもいいし、この花の香りは貴族の女性も好みそうだ」
驚きと感心の入り混じる声音で呟くルースに、フィンレーは愉快そうに笑いながら言った。
「さっそく次の商売の模索か? たくましいな」
それにルースは鼻を鳴らし、「そう言うお前たちはこれからどうするんだ」と言いながらさらに杯を傾けた。
「月夜の民の王は戻るつもりがないんだろう? 見捨てられたようなものじゃないか」
その言葉にフィンレーは持ち上げようとした杯を下ろし、少しむっとした様子で反論する。
「陛下は別に俺たちを見捨てたわけじゃない。人質とも言える『封印された月夜の民の王』という駒が手元になくなれば、反変異種派の人間たちはいっそう過激な行動に出かねないし、そうなれば月夜の民と人間との溝は深まるばかりだ。それは誰も望んでいないから、そうなるくらいなら封印されたままでいることを選んだだけだろう」
しかし、ルースは子どもの言い訳でも聞かされたかのような口調で「そんなことはこの戦いを始める前からわかっていたことじゃないのか」と言い返す。
「ドクター・ルクァイヤッドは頭がいい。エンリェードやお前もそうだと思うが、先の読める者は人質がいなくなればどうなるかということくらい、一度は考えていたはずだ」
その指摘にフィンレーは苦々しい表情を浮かべ、うつむく。そして彼はしばらくのあいだ答えを探すようにゴブレットの中を見つめていたが、やがて顔を上げ、落ち着いた声音でルースに言葉を返した。
「確かにお前の言う通りだろう。だが俺はそれでも、反変異種派の力をこの戦いで充分に消耗させることができていれば、すぐには全面戦争のようなものは起きないだろうと思っている。だから、反変異種派がまた力をためている間に、戦う以外の解決策を考えればいいと思っていた。陛下がいればそれができると」
「お前も?」
ルースがエンリェードの方へ顔を向けて尋ねると、彼はそれにうなずいてみせた。
それを見てルースはもう一度鼻を鳴らし、吐き捨てるように言う。
「それだけ期待を背負っておきながら、王は責務を放棄したというわけだ」
「とげのある言い方をするじゃないか」
怒りよりも驚きが勝ったのか、目を丸くしながらフィンレーがルースに視線を向ける。
対するルースは語調を変えることなく「俺は部外者だからな」と、素っ気なく応えた。
「それに、俺の取引相手たちはこんなに頑張って、死人もたくさん出たのに、戦った意味がなかったなんてひどいじゃないか。王だか何だか知らないが、責任者に一言くらい文句を言いたくなるのも当然だろう」
彼は月夜の民の王を侮辱したいわけではなく、ただこの数か月を共に戦った者たちの努力が報われなかったことに腹を立てているのだとフィンレーは気が付いた。
「お前はいいやつだな」
苦笑するフィンレーにルースはひどく嫌そうな顔をしてみせる。
そんな両者を黙って見ていたエンリェードは、ぽつりと独り言をこぼすように呟いた。
「私はこの戦いがすべて無駄だったとは思わない。利があったとは言えないが、意味はあったし、やらなければならない戦いだったのだとも思う」
それを聞いてフィンレーもうなずきながら言葉を継いだ。
「やらなければいけない戦いだったのは確かだな。あいつらは月夜の民なんていなくなればいいと言うが、月夜の民は生きていたいから戦った。それだけだ。黙って消されてやる理由なんてないからな」
「意味は?」
「反変異種派の戦力を大幅に削ったのは大きい」
ルースが短く尋ね、エンリェードも淡白に答える。
しかし、ルースはその返答に満足していないようだった。ゴブレットの縁に悔しそうに一度歯をたて、視線をフィンレーに向けて苦い口調で言う。
「だが王は戻ってこない。この好機に何もしないと決めたんだ。こいつの恋人は死んでしまったっていうのに」
その言葉にフィンレーは頭を垂れて黙り込み、エンリェードも小さく息をつく。それから彼はルースに向かって静かに言った。
「この戦いの本当の意味と価値を作るのは、おそらくこれからの私たちの行動だろう。もしかしたら、あなたが生きているあいだには何も成果をあげられないかもしれないが……少なくとも私自身はこの戦いを無駄にしない努力はしたいと思っている」
ルースはまだ不満そうにしていたが、それ以上は何も言わなかった。結局のところ彼は自分で言ったように部外者であり、月夜の民に対して彼にこれ以上できることも言えることもなかったからだ。
ルースはため息をつき、空になったゴブレットを持って立ち上がる。
「俺はそろそろ行くよ。岩礁の向こうにある船まで運んでもらわなきゃならない。まさか俺の人生で、月夜の民に抱えられて海の上を飛ぶ日が来るなんて思いもしなかった」
「お前は小さいから、彼らにしたら大した荷物じゃないだろう」
フィンレーが顔を上げ、いつもの調子で軽口をたたくと、ルースはしかめ面で「小さいは余計だ」と言って舌打ちをする。
そんな彼にエンリェードも目を向け、わずかな罪悪感、あるいは遺憾のにじむ声音で言った。
「私たちにはまだ少し仕事があるから、一緒に行けなくて申し訳ない。できることなら最後まで守りたかったんだが」
「気にしないでくれ」
あっさりとそう言って背を向けようとした彼の名を呼び、エンリェードは音もなく立ち上がって言葉を継いだ。
「これだけは覚えておいてほしい。この先誰が何と言おうと、あなたは私たちにとって間違いなく救世主であったし、私たちはあなたの決断と協力に心から感謝している」
「大げさだな」
そう言ってルースは笑った。
そしてそれぞれに別れを告げ、ルースは立ち去っていく。
その小柄な背を押すように、キナヤトエルの奏でる優しい琴の音色が前庭の方からかすかに流れてきた。
治癒師にして稀代の音楽家である彼女の竪琴を聞く機会など、おそらくルースには今後二度とないだろう。それを思うと、約三カ月という月日を過ごしたこの地を離れがたい気持ちが増してくるが、ルースは立ち止まることも振り返ることもせず、その場をあとにしたのだった。
「……本当に俺たちは見捨てられたのかな」
ルースの姿を飲み込んだ夜の闇を見つめながら、ぽつりとフィンレーが呟く。
そちらへ顔を向け、エンリェードはひやりとした穏やかな声で応えた。
「君の信じたいものを信じるのがいいと思う」
「君はどう思っているんだ?」
ゆるりと尋ね返され、エンリェードは少しのあいだ思案するように視線を花蜜酒の中に泳がせていたが、やがて淡々と言葉を返した。
「反変異種派の現在の主導者はセント・クロスフィールドの領主だが、反変異種派は残念ながら世界中にいる。月夜の民の王の封印が解けたとなったら、新たな主導者が今度は五千の兵を連れて押しかけるかもしれない。今回の戦いに賛同した司教が今後どうするのかもわからないし、かと言って状況がつかめるまで領地を維持するため戦い続けるのも大変だ。本当に停戦協定が守られれば話は別だが、件の領主がそれを守る保証がない以上、私が陛下だったら、同じように一旦鳴りを潜めることを考えるかもしれない」
筋は通っているように聞こえるその返答に、フィンレーは「なるほどな」と小さく呟いた。だが、それは納得したというよりも自分に言い聞かせているような口調だ。この数か月のあいだに、エンリェードはフィンレーの口ぶりからそういったことを読み取れるようになっていた。
フィンレーの心境を慮るように、エンリェードは慎重に言葉を継ぐ。
「私は陛下に直接お会いしたことがないから、お考えは違うかもしれない。君は陛下のことをよく知っているだろうし、君の知っている陛下を信じていればいいと思う」
それを聞いてフィンレーは少し困ったように笑いながら「俺の知っている陛下、か」とくり返した。
「彼はやること自体は現実的で堅実的だが、最終目標はなかなかに壮大だからなあ」
「最終目標?」
不思議そうにエンリェードがフィンレーを見下ろすと、彼は花蜜酒を一口飲んでうなずきながら言った。
「以前、聞いたことがある。ちょうど陛下が封印される代わりに、この領地を手に入れるという話が決まった時だ。陛下は、隔離など結局のところ、差別の根本的な解決策にはならないと言った。仲間同士で集まり、外部との接触を断てば安全だが、築いた壁は壁のまま両者を隔て続けるだけだとね。なら何故、封印を承諾してまでこの土地を手に入れようとしているのかと尋ねたら、彼はここを月夜の民たちだけのものではなく、人間も住む土地にするつもりなんだと話してくれた」
フィンレーの記憶の中で、チェス盤をはさんで向かい合った月夜の民の王が駒を動かしながら言う。
「人間同士の中でも差別などいくらでもある。流枝の民だとか堅木の民だとかいった、種族の違いだけじゃない。髪や肌の色が違う、言葉が違う、あるいは信仰しているものが違うなど、他者と自分を区別するあらゆる違いが、彼らの中では相手を蔑視する理由になる。でもだからと言って、細かすぎる引き出しだらけのタンスを誰が使いたがる? ある程度のまとまりで区切られていた方がわかりやすいのは確かだが、すべてが細かく隔離・分断されている世界など窮屈なだけだ。一生同じ引き出しの中で生き、他の引き出しをのぞくことすらせずに世界の終わりが来るならそれも一つの平和な世界の形としていいだろう。だが現実はそうはいかない。世界は形の定まった引き出しがいくつも整然と並ぶタンスではなく、様々な絵具で常に塗り替えられていくキャンバスのようなものだからだ。同じ色同士を近くに置いても、近くの別の色が混じりあうことは多々ある。そのたびに血を流すのは不毛というものだ。しかし、人間たちのあいだでもそんな争いは絶えない。そんな世界に月夜の民という人類とは異なる駒を置けば、月夜の民との違いに比べれば人間同士の中に生じる違いなど些細なことだと気付くだろう。そして月夜の民も脅威にはならない良き隣人だと思わせることができれば、今よりは住みやすい平和な世界をすべての者が手に入れられる。それが私の理想だ」
月夜の民の王はそう言って盤上の駒を寄せ集め、白と黒が入り混じる状態にしてしまったため、その日の勝負はうやむやになってしまった。珍しくフィンレーが勝てそうな流れだったが、チェスの勝敗などどうでもよくなってしまうくらいには、その話を聞いて衝撃を受けたことをフィンレーは今でも覚えている。
「まるで夢物語だろう? しかも途方もない夢だが、俺はそれが気に入ったから最後まで彼についていこうと決めた。この人が育ての親で良かったと思ったし、今も昔も誇りに思っている」
フィンレーはそこまで言うと一度言葉を切り、ため息まじりの息を一つつくと、「まあ、その理想の世界は俺の代では見られないだろうけどな」と言って苦笑した。
現在、流枝の民の寿命は五十年から長くて六十年、医学と魔法学の一つである治癒学を総動員しても百年が限界と言われている。人間には決して短くはない時間だが、世界を変えるにはあまりにも刹那すぎる。
「だが、彼ならいつかきっとやり遂げるだろう」
フィンレーは確信に満ちた声音で言って、同意を求めるようにエンリェードに目を向ける。
彼もそれにうなずき、「私も尽力しよう」と応えた。
「……そこに俺がいないのが残念だ」
そう言ってフィンレーは寂しそうに笑い、ゴブレットに口を付ける。彼が中身を飲み干すと、黙ってエンリェードがおかわりを注いだ。
それから彼らはしばらく言葉を交わすことなく花蜜酒を楽しんでいたが、やがてフィンレーが杯を持ったまま立ち上がり、エンリェードの隣に並んで独り言のように言う。
「この館は焼かれるかな」
白い月明りに照らされたフィンレーの横顔を一瞥し、エンリェードは静かに応えた。
「おそらく。彼らは月夜の民の建てた家には住みたがらないだろう」
「せめてあの絵だけでも持ち出せないだろうか」
エンリェードの方へ体ごと向き直り、真剣な面持ちでフィンレーは言う。
彼の話している絵というのは十中八九、エンリェードの両親を描いた絵のことだろう。一番気に入っていると言っていたが、それはどうやらお世辞ではなかったようだ。
「君のものではないだろう。ここにきて主君の館で窃盗を働くつもりか?」
「元は君の父上のものだ。ならば君には持って行く権利がある」
エンリェードはフィンレーのその言葉に、傾けていた杯を下ろし思案するそぶりを見せたが、やがて小さな吐息と共に首を振って応えた。
「やめておこう」
「何故? 母上のお姿はあの絵にしかもう残っていないのだろう?」
不思議そうに尋ねるフィンレーに、エンリェードはどこか物憂げに言う。
「君は私が両親に似ていると言った」
「ああ、絵にそっくりだ!」
「ならば、なくなってくれた方がありがたい」
その返答を聞いてフィンレーは驚いた顔でエンリェードを見やる。しかし、その表情は次第に険しいものへと変わっていった。
「君はこの世界から消えるつもりなんだな」
「月夜の民は人間の歴史の表舞台から姿を隠す、それが陛下の命令だろう」
「そういう意味じゃない」
エンリェードは怪訝そうな表情を浮かべてフィンレーに視線を返す。
対するフィンレーは険しい面持ちのまま言葉を続けた。
「イドラスに聞いた。君は最後までここに残るつもりだと」
エンリェードはそのことかといった顔で息をつき、いつもの淡々とした口調で言った。
「明日の停戦協定に行く者たちが逃げる時間を稼ぐ必要がある。協定の場には隣の領主が同席してくださることになってはいるが、たとえ第三者である彼の前で協定を結んでも、セント・クロスフィールド公なら反故にしかねない。はじめからそのつもりなら、陛下の名代であるドクター・ルクァイヤッドの首は意地でも取るつもりで狙うだろう。イドラス卿やナルロス卿が同席されるから、彼らがドクターのことは守ってくださるだろうが、追っ手の数が多いと逃げるのも困難になる」
「だから、おそらく同時にこの館にも攻撃をしかけてくるだろう兵たちが、ここにはもう誰もいないと気付いてルクァイヤッドたちの捜索に加わらないよう引き付ける、と言いたいのか」
厳しい口調で言うフィンレーにエンリェードは黙然とうなずく。
フィンレーはそれに「無謀だ」と言った。
「君は片角を失っただろう。魔力が落ちたはずだ」
「多少自分の魔力が落ちたところで、私の使う魔術にはさほど影響はない。ルースのおかげで魔力資源はまだ尽きていないし、携行魔術装置も使えるものが残っているしな。心配しなくても、折を見て私もここを離れる。翼を持たない君よりは逃げ切れる自信があるぞ」
「他にも適任者がいたはずだ!」
声を荒らげるフィンレーに、エンリェードは静かにというように人差し指を立ててみせる。
「確かに私は大した魔術師ではないし、武芸に秀でているわけでもないが、この話をすれば、おそらく誰もが自分も残ると言い出すだろう。それではせっかく逃げると決めたのに意味がない」
「それはそうかもしれないが……」
未だ承服しかねるといった面持ちでフィンレーが不満そうに言う。
エンリェードはそんな彼に微笑み、柔らかな語調で言葉を返した。
「私の角についても、君が気に病む必要はない」
「無理を言うなよ。俺のせいで斬り落とされたようなものなのに」
「君だってヴァルツを責めなかっただろう」
エンリェードがそう言うと、フィンレーは言葉に詰まったように口をつぐむ。
レディ・ユーニスが聖銀網につかまったのは、自分をかばったせいだとヴァルツ本人から聞かされたとき、フィンレーは謝罪する彼を責めることはしなかった。かばわれた者が一番つらいのはフィンレーにもわかっていたからだ。
そして、エンリェードもそれを理解している。だから彼にもフィンレーを責める理由は何もないのだった。
「決意は変わらないんだな」
大きなため息をついてフィンレーが言うと、エンリェードは「意外と私が頑固なことに君も気付いているだろう」と応える。
フィンレーがそれにもう一度大げさにため息をついてみせると、エンリェードは彼の杯に自分のものを軽く当てて涼やかな音を鳴らし、自分の杯を空けた。
フィンレーは仕返しとばかりにすぐさまそこに次の花蜜酒を注ぎ、にやりと笑ってみせる。
それから二人はほぼ同時に自分のゴブレットを傾けた。
そんな彼らを夜の涼やかな風が優しくなでていく。昼間と違って気温はずいぶんと下がり、からりとした空気にはわずかに秋の気配が感じられた。
「そういうことなら尚のこと、一つ君にわがままを言わせてもらいたい」
「わがまま?」
不意に口を切ったフィンレーにエンリェードがおうむ返しに尋ね返すと、彼はゴブレットでも借りるかのような気軽な口ぶりで言った。
「そう、君の血を少し分けてくれないか」
エンリェードは顔を上げ、隣に立つフィンレーへと目を向ける。彼は穏やかな微笑を浮かべ、しかし真剣な眼差しでエンリェードを見ていた。
「流枝の民である君がなぜ私の血を欲しがる?」
「さあ……餞別のようなものが欲しいと思っただけさ。君とこうして顔を合わせるのも、おそらく今日が最後だろうから」
「悪趣味だ」
きっぱりと切り捨てるようにエンリェードは言う。
しかし、フィンレーはしたり顔で笑って「昔の話とはいえ、血液から魔力を得るために人間を襲っていたような種族に言われたくないね」と返した。
それから杯を傾け花蜜酒を味わうフィンレーの顔をじっと見据えながら、慎重に――彼の真意を問うようにエンリェードが言う。
「先に言っておくが、私の血を飲んでも君は月夜の民にはならないぞ。眷族になるには魔術的な契約が必要だから」
その言葉にフィンレーは「わかってるよ」と言い、少しばかり戸惑ったような、あるいはためらうような表情を浮かべて言葉を継いだ。
「本当に、特に意味はないんだ。ただ、君と君の血族――黒狼公の系譜が未来に続いていてほしいと思うし、少なくとも俺の手元にその片鱗があれば嬉しいと思っただけだから」
そう言ってフィンレーは視線を下に落とすと、ゆらゆらとゴブレットを回し始める。
その緩慢で意味のない反復運動からは、彼があまり期待はしていないことがうかがえた。だが、それでも手を止めてあきらめてしまうことはできない何らかの思いが感じられる。
エンリェードはわずかに目を伏せ、静かに呟くように言った。
「我が父の死後、陛下の右腕――近衛騎士という任を継ぎ、立派に勤めを果たしてくれた君に対しこの血が報奨となるなら、私は君の願いに応えるべきなのだろうな」
フィンレーはエンリェードの方を驚いた顔で見やる。彼はそんなフィンレーを真剣な面持ちで見返した。そのうっすらと光を放つ赤い瞳に嘘やごまかしの色はない。
フィンレーは一つうなずくと服のポケットから小さなガラス瓶を取り出し、それをエンリェードに差し出した。
それは全体的に細長く、栓をする上部には中に入れたものの魔力や鮮度を保てる術を組み込んだ魔術装置が取り付けられている。実験や研究でよく使われる保存管だ。
「用意がいいな」
エンリェードがそう言うと、フィンレーは肩をすくめて「本当に役立つとは思わなかった」と返す。
保存管を受け取ったエンリェードはゴブレットを足下に置き、フィンレーも同じように自分の杯を置くと、剣と一緒に腰に提げているナイフを抜いてエンリェードの方へ歩み寄った。
彼の空いている方の手を取り、刃をそっと押し当てて軽く引く。すると血の気のないエンリェードの白い手の平に赤い線が一筋走り、そこから音もなく赤いしずくが一つ、こぼれ落ちた。
ぽたりぽたりとしたたる血がゆっくりとガラス瓶を満たしていく。
やがてそれが充分に満たされると、フィンレーは「ありがとう」と礼を言ってガラス瓶を大事にしまい、傷口を押さえるようにしてエンリェードの手を両手で包んだ。
ひやりとしたその手がフィンレーの体温で温まるころには、傷も完全にふさがっているだろう。ただの刃物で切ったくらいではすぐに回復する月夜の民には血止めなど必要ないくらいだが、エンリェードはその手から逃れることはしなかった。