6 そこにいる理由
6
エンリェードがフィンレーたちの下に合流した日から一週間も経つと、各地から月夜の民の諸侯たちが眷族を従えて続々と集まり、さらに翌週には人数が増えて、最終的に月夜の民の陣営は百を超える数となった。当初、ルクァイヤッドの予測では月夜の民の数は百人に届かないだろうと思われたが、セント・クロスフィールドの領主が月夜の民と交わした契約を反故にするという噂を聞きつけ、これまで参戦したことのなかった者たちが加わったこと、そして自分の領地に戻っていたユーニスが十人近い新たな眷族を伴って帰還したことも大きい。それにより、彼らの数は三桁の大台に乗ったのだった。
「まさかあんなに眷族を連れてくるとは思わなかったよ」
「頑張ったでしょう? おかげでこっちはヘトヘトよ」
「人間を噛んで眷族にしたんだな」
フィンレーはそう言って、魔力薬入りのワインを傾けているユーニスの血の気のない顔をそっと見やる。
外壁の上に並んで座っている彼らの頭上からは白い月の煌々とした光が降り注ぎ、前庭に落ちる二人分の影と対になって、その空間に鮮やかなコントラストを作り上げていた。
ユーニスは口に付けていたグラスを下ろし、いささか咎めるような表情を浮かべているフィンレーに視線を返す。そして数秒のあいだ、何と言うべきか悩む素振りを見せていたが、やがてそっけない語調で「味方の数は多い方がいいでしょ」と言って再びワインの満ちるグラスを傾けた。
彼女の薄い小麦色をした細い首が持ち上がり、喉がこくこくとリズムよく動く。
一気にワイングラスを空にしたユーニスは、満足そうにかすかな息をついてフィンレーの方へと顔を向けた。
「私、負けたくないの」と彼女は言う。その表情はフィンレーが思っていたよりもずっと険しかった。
「みんなこれは負け戦だって言っているけど、私は負けたくない。人間たちからこそこそ隠れて生きるなんて嫌なの。私たちは何も悪くないのに」
ユーニスは憎々しげにそう言って、腰かけている石壁にグラスを叩きつけた。
乾いた無惨な音が短く響き、月明かりを受けたグラスの破片がキラキラと小さな輝きを放って石壁の向こうや前庭の土の上に落ちていく。
「主君の家の食器を勝手に割るんじゃない。管理しているサムが泣くぞ」
飛び散ったガラス片を避けるように身を引き、少し呆れたような語調で言うフィンレーに対し、ユーニスは不機嫌そうに鼻を鳴らしてみせただけだった。
服に付いた砂埃や細かなガラス片を払い、ユーニスは立ち上がる。
「私は今日はもう休むわ」
「それがいい」
粉々になったグラスを同情的に眺めながらフィンレーが応じる。
彼女はそれにもう一度小さく鼻を鳴らして、「あなたはエンリェード卿にでも構ってもらったら。仲がいいみたいだし」と言って魔力の翼を広げると、バサリと音を立ててその場から飛び去っていった。
石造りの外壁の上に一人残されたフィンレーは、大きなため息を一つこぼして明るい月を見上げる。
どうやらユーニスは機嫌が悪かったようだ。フィンレーが責めるように言ったのも機嫌を損ねた理由の一つだろうが、帰ってきた時からすでに彼女は不機嫌そうであったし、疲れもあるだろうが、領地で嫌なことがあったか、あるいは嫌なことを思い出したのかもしれない、とフィンレーは思う。
ユーニスは子供の頃、住んでいた村の人々に月夜の民であることがばれ、魔術師であった父親を人間に殺された。母親も魔女を産んだ罪人としてユーニスと共に村を追放された挙げ句、山賊に襲われて命を落としている。よって、彼女は今や天涯孤独の身の上だ。彼女の人間に対する恨みは相当深い。普段は明るく陽気な彼女を、時に激しい怒りや冷酷さを伴う復讐に駆り立てるほどに。
何の宗教も持たないフィンレーは、ユーニスの恨みが彼女自身を破滅に追いやることがないよう、月に祈った。月夜の民でもない、ただの人間である彼の祈りを夜の支配者が聞き入れてくれるかどうかはわからなかったが。
それからさらに二週間ほど経ち、暖かに降り注ぐ日差しに初夏の気配が混じり始めた頃、変異種狩りや吸血鬼狩りの名で知られるセント・クロスフィールドの領主が、多くの兵を連れて領地を出たという知らせが月夜の民たちの下へと届いた。道中にある他の領地の主たちとも話がついているのか、彼らが休息以外で足を止める気配はない。
その一連の知らせを受け、王の名代を務めるルクァイヤッドは彼らが次に通過するであろう領地で、セント・クロスフィールドの領主宛てに手紙が届くよう手配した。その内容は遠征の真意を問うものであり、手紙を届けた使者にその場で返答をもらえない場合は侵略の意志ありとみなし、領地に近付いた際には相応の対応をするというものだ。
それに対し返ってきたのは、人類の敵と交わす言葉はない、という事実上の宣戦布告である。
ルクァイヤッドは、セント・クロスフィールドの領主が月夜の民と結んだ契約を無視して兵を動かし、月夜の民の領地を目指していることに対して非難の意を示すと、侵略行為には徹底的に抗うことを宣言した。
イドラスが戦うことのできる月夜の民を引き連れ、館を出たのはその直後のことだ。
彼は自分たちの領地と隣接する谷との境界を封鎖し、エンリェードの手配した携行魔術装置の設置と物理的な簡易防壁の構築を終えると、そこから少し離れた場所に本陣を置いた。周辺には天幕がいくつも並び、協力関係を結んだ商人のルースから提供された魔力資源が次々と運び込まれていく。
彼らの戦いの準備が終わったのはすっかり夜も更けた頃で、中天には細くなった月が心許なさそうに浮かんでいた。
偵察に出た者からの報告では、敵は翌日の夕方くらいに到着すると予想されている。その数は道中で増え、今や二千を超えているという話だ。
対する相手の斥候はまだ遠く、こちらが谷との境界を封鎖していることには気付いていないと思われた。しかも明日は新月だ。月夜の民が籠城すると考え、夜までに谷を抜けようと兵を進めるなら、夕暮れから月のない夜という、相手にとっては視界的に不利な状況で最初の戦いが行われることになる。
地理的にも優位であることから、どれだけ明日の戦いで敵の出鼻をくじけるかが月夜の民の今後の戦況を決定づけるとも言えた。
そのためか天幕のあいだを行き交う彼らの表情はどれも緊張した様子で、張り詰めた空気が感じられる。
そんな中を小柄な流枝の民の少年もまた、硬い表情を浮かべてせわしげに歩き回っていた。
それに気付いたキナヤトエルが竪琴の調律をする手を止め、「あら」と声をあげる。
「ルース様、そろそろお休みにならないと、明日起きられないんじゃないかしら?」
自分より十センチは背の高い彼女に話しかけられ、少年――人間の商人ルースは足を止めて少し不機嫌そうに応えた。
「子ども扱いしないでもらいたい」
「まあ、それはごめんなさい」
一応の謝罪の言葉を口にしてキナヤトエルは愉快そうに微笑む。その様子がさらに子ども扱いしているようにルースには思えたが、彼はそれについては反論せず、かわりに別のことを口にした。
「黒髪の妖精族の人を探しているんだが」
「エンリェード? フィンレーもさっき相談があると言っていたから、今は一緒にいるんじゃないかしら。確か同じ天幕だったはずよ。ほら、あそこ」
キナヤトエルが指差す方を確認し、彼女の口にした名前をくり返すように呟いたルースは、礼を言って教えられた天幕の方へと歩き出す。
その天幕の中では、エンリェードとフィンレーが地図を見ながら敵の物資補給路を断つ方法について話し合っていた。
「戦いが長引くとわかれば、ある程度は魔術で物資を輸送することも考えるだろう。だが、今このあたりの魔力資源の物価はルース殿が大量買い付けをしたこともあって高騰気味だ。やつらが魔力資源をこの付近で手に入れようと思うと、通常よりも金がかかる。数も不足気味だから、望むほど充分な量は手に入れられないだろう。魔術による物資輸送に魔力資源を割くほどの余裕がなくなれば、安価な馬車での物理的な輸送が増えるに違いない。それを狙えれば……」
「失礼します、レディ・エンリェード!」
唐突に割って入った少年の声に、エンリェードとフィンレーは目を丸くしながら天幕の入り口の方へと目を向けた。彼らの視界の先には緊張した面持ちのルースが立っている。
彼はその場にフィンレーもいることに気付き、「……あと、フィンレー卿も。まだお話し中でしたか」と、もごもご言ってきまり悪そうに視線を泳がせる。
その次の瞬間、フィンレーがはじかれたように大きな笑い声をあげた。
「何故笑う!」
「いや、失礼」
憤慨するルースにそう言いながらも、フィンレーは笑いをこらえるので必死だ。
そんな両者に交互に目を向けたあと、エンリェードは小さく息をつき、ルースに静かな声音で言った。
「レディと呼ばれるのは落ち着かないので、できればエンリェードとだけ呼んでいただけるとありがたいのですが」
夜気を思わせるひやりとした気配をまとう穏やかなその声は、女性に使う敬称であるレディと呼ぶにはいささか低すぎる。
「確かに妖精族は外見上の性差があまりないし、彼の黒髪は神秘的で魅力的だが、さすがに女性と勘違いするのは間抜けにもほどがあるだろう。名前で気付かなかったのか?」
笑いをこらえながら言うフィンレーに、ルースは困惑したような表情を浮かべてみせる。
「名前……?」
「そう、他の種族でもそうだが、妖精族の男性名にもいくつかパターンのようなものがある。『エンリェード』もそのうちの一つを含む響きだ。ロスレンディルほどわかりやすくはないがな」
そう説明したフィンレーは、呆然としている少年の顔を見て察したようにうなずいた。
「なるほど、本当に知らなかったようだな。それはちょっと教養が足りないぜ、ルース殿」
その言葉にエンリェードは少し咎めるような視線をフィンレーに送るが、彼は肩をすくめただけだ。
一方、言われた側のルースは怒りとも羞恥ともつかない面持ちでそこに立ち尽くしていたが、次の瞬間には何も言わずその場から逃げ出すように立ち去ってしまった。
それを見送り、再びフィンレーが笑い出す。
「妖精族の特徴とはいえ、その華奢で端正な容姿は罪作りだな、友よ。まさか君をレディと呼ぶ者が現れようとは!」
「考えてみれば、彼の前で話した覚えがない。遠目で判断がつかないのも無理はないだろう」
「そうか、そういえばそうだったな」
エンリェードがルースと初めて会ったのは商談の時だが、その場で彼が一言も話さなかったことをフィンレーは思い出した。ルースが月夜の民の陣営に合流してからもエンリェードはフィンレーと共に軍議に出ていて、ルースと主にやりとりをしていたのは物資の管理を担うサムや軍議には出ていない面々だ。彼がエンリェードの声を聞く機会はなかっただろう。
しかも、商談の時に同席していたもう一人の妖精族であるイドラスは、妖精族にしては珍しく流枝の民の標準的な男性に近い体格の持ち主だ。彼を一般的な妖精族の男性だとルースが思ったなら、細身のエンリェードを女性と勘違いするのもわからなくはない。
「何故戦いの経験もないただの商人がついて来たがるのかと不思議だったが、黒髪のお嬢さんとお近付きになるためだったのだとしたら、戦場まで彼を引っ張り込んだ君の罪は相当重いぞ」
茶化すように言うフィンレーに再び非難の色が混じる目を向け、エンリェードはきっぱりと言葉を返した。
「君が私に何か言う分には構わないが、それはそれとして、言われた私が気にしていないのに、過剰に彼を笑ったりバカにする権利は君にはないぞ」
「悪かったよ」
「謝る相手は私じゃないだろう」
エンリェードはそう言うとフィンレーに背を向け、天幕を出て行こうとする。
「おい、どこへ行くんだ? まださっきの話が途中だぞ」
「敵の補給路の件については次の軍議の時でもいいだろう。彼の様子を見てくる」
淡白に応え、エンリェードは一人で天幕を出た。
近くのかがり火のそばでは皆の緊張を和らげるように、キナヤトエルが竪琴を弾いている。その周囲には多くの人が集まり、彼女の奏でる優美な音色に耳を傾けているが、彼らの中にルースの姿はなかった。
結局彼を最初に見つけたのは、罪悪感のためかエンリェードと一緒になってルースを探していたフィンレーだ。
天幕から少し離れた岩場の上に座る小さな背が見える。
エンリェードはフィンレーとうなずき合うと、彼のそばまで言って声をかけた。
「ルース殿」
ひやりとした声に一瞬びくりと身をすくませ、ルースが振り返る。
「本当ならもっと早くに挨拶をしておくべきだったのに、遅れて申し訳ありません」
エンリェードがそう口を切ると、ルースは戸惑ったような表情を浮かべて「いや……」と呟いた。
「こちらこそ、さっきは失礼なことを」
「では、お互い様ということで」
そう言って小さく肩をすくめてみせるエンリェードに、ルースは少しほっとした様子でうなずいた。
そんな彼に、エンリェードの横からフィンレーも言葉をかける。
「私からも謝りますよ。教養がないというのは、さすがに言いすぎでしたので」
しかし、ルースはフィンレーに小さく首を振って応えた。
「私がこれまで教養を軽んじてきたのは本当だから、フィンレー卿の言ったことは間違いじゃない」
そう言って彼は膝を抱えてうつむいた。それにエンリェードとフィンレーは顔を見合わせる。
何と言葉をかけるべきか躊躇している彼らをよそに、ルースは独り言のように言葉を紡いだ。
「貴族の女たちは学があり、教養もあって芸術を理解する文化人だからと、結婚相手の候補として父が何人も連れてきたが、彼女たちに商売の話をしてもつまらないだの難しいだの……もっと楽しい話をしようと言って、どこの芝居がいいだとか絵が素晴らしいとか、金を浪費することばかり話す。仕事の話も一緒にできないのに、教養や芸術が何の役に立つのかとバカにしていたが、商売以外のことを何も知らないというのはこういうことかと、ついさっき痛感したよ」
「まあ、商人ならいろんなことを知っておいて損はないでしょう。いろんな客を相手にしますからね。客に話を合わせて機嫌を取るのも大事ですよ」
フィンレーがそう言うと、唸り声をあげてルースが頭を抱える。その様子からして、彼が客とのそういったコミュニケーションには重きを置かない取引ばかりしてきたことがうかがえた。商才はあるのだろうが、おそらく彼の人柄に付いた客というのはあまり多くはないだろう。
「一つお聞きしても?」
エンリェードが控えめにそう尋ねると、ルースはのろのろと顔を上げて彼の方へ視線を向けた。それから小さくうなずいてみせる。
「何故あなたは月夜の民に協力しようと思ってくださったのですか? これまで月夜の民とはかかわりがなかったようですが」
その問いはフィンレーも含めた月夜の民全員が彼に一度は投げかけたかったものだろう。
最初にルースから協力の申し出があった時、同じ質問をしたルクァイヤッドに対し、彼は「月夜の民が魔力資源の市場における良い客になると思ったから、まだ特定の商人との取引がないなら、自分と取引してほしい」といった答えを返している。
だが、月夜の民に手を貸すということは、しばしば人類の敵だと言われる月夜の民の味方になるということであり、ルース自身がその仲間――つまり人間すべての敵だと思われてもおかしくはない、ということだ。彼がこれまで取引してきた客の中にも、月夜の民を敵だとする宗教を信仰する者は少なくないだろう。そんな者たちから敵視されるかもしれないリスクをおかしてまで、彼が月夜の民に協力しようと思う理由は他にもあるように思える。
そして、今ならそれを教えてもらえるのではないかとエンリェードは思ったのだった。
ルースは大きなため息をつき、「それは他の人にも何度か尋ねられた」とぼやくように言う。だがその語調はうんざりしているというよりは、観念した時のものに近かった。
やがて彼は腰かけていた岩から滑るように降りて地面に足をつき、エンリェードを見上げる。そして「一番の理由は、親父に対する反抗心だろう」と、不機嫌そうな面持ちで言った。
「父は商人の間では名の知られた豪商で、金に物を言わせて貴族の仲間入りを果たした。だが、歴史や伝統を持つ昔からの貴族には成り上がりの田舎者だとバカにされている。そのくせ、彼らは娘を俺と結婚させて、傾きかけた由緒正しいお家を何とか立て直そうとするんだ。父も成金貴族だとバカにされたくないものだから、俺を名のある貴族の娘と結婚させようといろんな女たちを連れてきた。確かに彼女たちは上品で身なりもいいし、算数もできるが、商売というものにはまったく関心がない。金を稼ぐことよりも使うことばかり考えているしな。しかも父が連れてくるのは、自分のタイプの娘だけときている。俺の好みも都合も関係なしだ。だから父から離れて独立し、自分で商売を始めようと思った。金勘定にうるさいだけあって、父の仕事を手伝っていた時の分け前はごまかしなく、ちゃんとくれていたからな。おかげで多少の資金はあったから、金になる商売をしようと思った」
「それで月夜の民に目を付けたのか?」
「そうだ。月夜の民は敵視されていて、まだ誰も大きな取引はしていなさそうだったからな。それに、今でこそ月夜の民は敵だと言われ迫害されているが、この世紀末で闇の時代が来れば、その立場が逆転する。少数派だった彼らは多数派になり、迫害されるようになるのは人間の方だ。そうなった時、月夜の民とのつながりがあれば、少なくとも俺はそこまで苦しい立場にならずにすむはずだ。何なら月夜の民と結婚してもいい」
そこまで言ったところでルースははっとした様子で眼前のエンリェードを見やり、言い訳するように言葉を続けた。
「いや、申し訳ないが俺は男には興味がないから、エンリェード卿に話しかけようとしたのは本当にただの勘違いなんだが」
さっきのことは忘れてくれと、あたふたしながら言うルースをよそに、エンリェードは困惑した面持ちでフィンレーと顔を見合わせる。
普段ならルースを茶化すようなことを言うはずのフィンレーも彼と同じような表情を浮かべ、ルースに尋ねた。
「この世紀末で闇の時代が来るって?」
それを聞いてルースは話の流れが変わったと安堵し、得意げに言葉を返した。
「何だ、フィンレー卿は月夜の民の陣営にいるのに知らないのか? この世紀末で光の時代は終わり、闇の時代が来るんだ。伝説になって久しいドラゴンたちが目を覚まし、世界に魔力が満ちる。みんなが噂しているし、司祭たちもそう説いているのに」
「終末思想の煽動者たちがそんなことを触れまわっているというのは知っているが……」
そんなフィンレーの呟きにルースはむっとした顔で反論した。
「今は光の時代で、いずれ闇の時代が来るというのは子どもでも知っていることだぞ」
「確かに闇の時代は必ず来ると言われているが、この世紀末で来るというのは嘘っぱちだ」
フィンレーはルースに負けじと、険しい面持ちでそう言い返した。
それに対し、彼は話にならないといった表情を浮かべてエンリェードに目を向ける。その視線は何か言ってやってくれと訴えていたが、エンリェードも曇った表情でためらいがちに言葉を返した。
「非常に申し上げにくいですが、闇の時代が来るのは早くてもあと数百年は先のことかと」
「時代の均衡を誰よりも読んでいるのは、世界の監視者たる妖精族たちだぞ。エンリェードの言葉に嘘はない」
追い打ちをかけるようにフィンレーが言う。
そんな彼らの言葉を受け、ルースは絶句した様子でその場に立ち尽くした。口を大きく開け、放心したように微動だにしない。
「どうやら教養が足りないというより……思い込みの激しい性格のようだな」
フィンレーがいくらか同情の混じる声音で呟く。その隣に立っていたエンリェードはルースの方へわずかに歩み寄り、静かに言った。
「しかし、勘違いで私たちの味方になってくださったというなら、私はその勘違いに感謝します。私たちには間違いなく、あなたの協力が必要でしたから」
その言葉にルースは我に返ったように目をしばたたかせ、エンリェードを見返す。
それにはフィンレーもうなずきながら同意した。
「それは確かにその通りだ。ここまで準備ができたのも、外で戦う選択ができたのも、ルース殿が物資を手配してくれたおかげだからな」
そこで一度言葉を切ったフィンレーは、「次からはもうちょっと、他人の言葉や自分の考えが本当に正しいか、見直すようにした方がいいとは思うが」と付け足す。
ルースは返す言葉もないというようにうめいたが、やがてうなずいて「気を付けよう」と応えた。
それに少し安心したようにエンリェードとフィンレーは視線を交わす。
「そろそろ戻って休まれた方がいい。ここは冷えます」
エンリェードはそう言ってルースをうながすように一瞥したあと、先に立って歩き出した。フィンレーもそれに続く。ルースはまだいくらかショックを受けている様子だったが、逆らうことはなく、彼らのうしろを黙ってついて行った。
エンリェードとフィンレーはルースを天幕に送り届けると、自分たちの天幕の方へと足を向けて歩き出す。
「今後のためにも、彼は情報を精査する能力を身に着けた方が良さそうだな。仕事でもうまい話に騙されて、大損するはめになるかもしれない」
「この戦いのあとに『今後』があればだが……」
ぼそりと呟くように言ったエンリェードへ目を向け、フィンレーは冗談めかして「終末が来るとでも言うつもりか?」と尋ねる。
それにエンリェードは少し目を伏せ、憂いを帯びた面持ちで答えた。
「人間たちに敵とみなされ、世界のどこにも彼の居場所がなくなるかもしれない」
その返答にフィンレーの表情が真剣なものへと変わる。
「そうか……この戦いで陛下を取り戻せなければ、月夜の民たちは人間たちの紡ぐ歴史の表舞台から姿を消すつもりでいる。もちろん、今後生まれてくる月夜の民たちのためにも、人間たちのあいだに残る者のためにも、手助けをしたり、闇にまぎれた他の月夜の民たちと合流させるための人手は残すことになっているが……そういった者たちならルース殿と接触することも可能とはいえ、そんな小さな力だけでは世界中の非難から彼を守るのはおそらく無理だろう。しばらくは反変異種派の連中はドクター・ルクァイヤッドやイドラス卿といった中心メンバーを探すだろうから身を隠さなければいけないし、月夜の民が表舞台に出られない以上、公に守ってやることは難しい……」
「一番いいのは、陛下が戻られることだ」
エンリェードの言葉にフィンレーはうなずく。
「そのためには、明日から俺たちが頑張るしかない」
そう言って天幕の入り口をめくったフィンレーに、エンリェードはその場で立ち止まって言った。
「だが、君ももう休んだ方がいい」
「しかし……」
広げられたまま天幕の中に残されている地図とエンリェードの顔を交互に見やり、フィンレーが反論しようとしたが、エンリェードは首を振り、冷静に言葉を返した。
「先ほどの敵の物資補給の件については、今はそこまで差し迫った問題ではないだろう。たぶん私と話して考えをまとめたかったのだろうが、君が睡眠時間を削ってまで背負い込むことじゃない。これは君だけの戦いではなく、私たち全員の戦いだ。対策を練ることはみんなでできる。だが、君の睡眠時間を確保できるのは君だけだ」
「……わかったよ」
しぶしぶといった様子でため息をつき、フィンレーは簡易の寝床の上にどっかと座り込む。
それを見てエンリェードは微笑むと、「おやすみ」と言って天幕を静かに出ていった。
かがり火のそばではまだキナヤトエルが竪琴を奏でている。彼女を囲む人々の顔からは緊張の色が取れ、落ち着いたものに変わっていた。中にはうたた寝をしている者もいる。それは流枝の民も妖精族も同じだった。
エンリェードは彼らを微笑ましそうに眺め、やがて六枚の黒い魔力の翼を広げると、いつもより暗い空へと舞い上がる。そして谷の東側の方へと飛んで行った。
明日から東側の谷の上が彼の主な戦場となる。他に東側を防衛するのはフィンレーと、あとから合流した妖精族のナルロスやその眷族たちだ。
対する西側を守るのはユーニスとヴァルツを中心とした流枝の民の者たちで、敵と正面で向かい合う形になるのがルクァイヤッドやイドラスのいる部隊となる。
各部隊にはそれぞれの眷族が一人ずつ付き、三者間で連携を取るためのサポートをする手はずだ。
エンリェードは谷の上部でちょうど道のようになっている開けた足場に立ち、そこから見える景色を見渡した。今その視界に映るのは夜の闇ばかりだが、明日には明かりを持った二千人の兵がこのあたりで長い列をなすことだろう。
二千の兵など、歴史書や物語の中でしか知らない数だ。静かな渓谷に鎧や馬の蹄、馬車の車輪の音を響かせながら敵がひしめき、矢羽の羽音と剣戟、怒号が飛び交う――それを想像することはできても、実感はわかない。それが実践の経験のないエンリェードの限界だった。
知識や想像から現実がかけ離れているほど、状況判断に狂いや間違いが生じる。冷静に周囲に気を配り、的確に戦況を見極めていかなければ、戦いを長引かせるどころかあっという間に殲滅されてしまうことだろう。
エンリェードは険しい表情を浮かべ、想像の中の兵士たちがうごめく闇を睨む。
その時、まるで想像の中から一つ足音が歩み出たように思えた。
エンリェードが音のした方――背後を振り返ると、周りを見回すようにしながら近付いてくる流枝の民の姿が見える。
「レディ・ユーニス」
呟くように名前を呼ぶと、彼女は顔をエンリェードの方へ向けて尋ねた。
「あなた一人? フィンは?」
「先ほど休みました」
エンリェードがそう答えると、彼女は「ああ、それなら良かった」と言って小さく息をつく。
「私はさっきまで西側にいたんだけど、こっちに人影が見えたからまだ寝ていないのかと思って……それなら追い返してやろうと思ったの。彼は人間だから、眠らないといけないのに」
ユーニスの言葉にエンリェードは黙ってうなずく。
そんな彼の赤い目を見返しながら、ユーニスは小さく肩をすくめながら言った。
「あなたが彼の面倒を見てくれているようで助かるわ」
保護者めいた言葉に聞こえるそこには、どこか寂しそうな、あるいは残念そうな響きがわずかにあるようにエンリェードには感じられた。
部隊の配置が決まった時のことを思い出しながら、エンリェードは少しためらいがちに口を開く。
「良かったのですか? 配置は彼の案で即決したような形になりましたが……」
その言葉にユーニスはぴくりと柳眉を上げた。
谷の東西と正面を守る兵の現在の振り分けはフィンレーが提案したものであり、何人かがすぐにそれに賛同したこともあって、特に議論されることもなくそのまま決定事項となったような形だ。もちろんルクァイヤッドは異論のある者はいないか確認したし、その時にユーニスは何も言わなかった。
だが、彼女がフィンレーとほぼ同時に最初何か言いかけていたことに気付いていたエンリェードは、どうにもそのことが気になっていたのだ。彼女はフィンレーと組みたかったのでは、とエンリェードは思った。そう考える明確な理由はないが、しいて言えば先ほどのように彼女の言動からはしばしば、フィンレーを気にかけている様子がうかがえるからだ。
しかし、ユーニスは「私もあれが一番バランスがいいと思うわ」と応えた。
「彼だけ自分の翼で飛ぶことも、空を飛ぶ動物に姿を変えることもできないけど、ナルロス卿やあなたならそんな彼の動きにもきちんと気にかけておいてくれるでしょうし、ヴァルツはフィンレーとは仲が悪いからね。あれが一番無難だわ」
エンリェードはそれに無言でうなずいてみせる。そしてユーニスの真意を問うように、ただじっと彼女を見つめ返した。
その穏やかだが逃れがたい視線を受け、居心地の悪さというよりは、問い詰められて困惑したかのような様子を一瞬見せると、ユーニスは少しばかり言い訳じみた口調で「フィンは私にとって弟のようなものなの」と言う。
「それを聞いたら彼は不満そうにするでしょうけど」
そう言ったユーニスは、意外そうな表情を浮かべているエンリェードに「恋人だと思った、って顔ね」と呟いた。
それにうなずくエンリェードに、ユーニスは軽く鼻を鳴らして呆れたような口調で言葉を続ける。
「私が恋人なら、この近くに住む若い娘はみんな恋人か奥さん候補でしょうよ。あちらこちらで手を出していたようだから」
そういえば初めて館に来た日にも、彼の妻を名乗る女性が訪ねてきていたとルクァイヤッドが話していたことをエンリェードは思い出した。それについて深く追及したことは一度もなかったが、どうやらユーニスの口ぶりからして珍しいことではなかったらしい。
「最初はあんなやつだとは思っていなかったわ。年若い娘と見るや口説いて回るようになったのは、陛下が封印されてからよ」
ユーニスはそう言うと足下へ視線を落とし、何事か考え込んでいる風だったが、やがて独り言のように言葉を紡いだ。
「お互い、平和なのは落ち着かないのかもしれないわね。戦いに明け暮れていた時は、早く平和がくればいいと思っていたのに……陛下のいない平和は不安でしかなかった」
それは彼女にとって、まるで月のない夜のような心許なさであったと言えるだろう。
周囲にはいつもと変わらぬ星々が明るく輝いているというのに、煌々と闇を照らす月だけが見えない。
「平和だからなのか、陛下がいないからなのかはわからないけど……何だか自分の居場所じゃないような感じ。だから今は少し、ほっとしてるわ。陛下を取り戻せるかもしれないし……戦えることにも少し安心してる。彼もそうだと思うわ」
そう言ってユーニスは顔を上げると、耳をそばだてるようにして彼女の話を聞いているエンリェードに向けて言った。
「平和に生きてきた人たちはそう思わないでしょうね。あなたもだと思うけど。そんな人たちのために私のような者が戦うの。本当に平和な世界で生きたい人が、平和に生きられるようにね」
何も言わず、エンリェードはただ静かにうなずく。
ユーニスはそこではたと、自分が思わぬことまで話していたことに気付いた。
フィンレーがエンリェードに好意的なのは、憧れだった黒狼公の息子だからというのは間違いないだろうが、決してそれだけではないとその瞬間に悟る。
「あなた、厄介な人ね。黙ってじっと話を聞いてくれるから、ついしゃべりすぎてしまうわ」
そう言って翼を広げ、立ち去ろうとするユーニスをエンリェードが呼び止めた。
「レディ・ユーニス」
彼女が長い髪をなびかせて振り向く。
それにエンリェードはひやりとした静かな声で言った。
「陛下が戻られれば、あなたも安心して暮らせるはず」
「そうね。そのためにも頑張らないと」
「ご武運を」
「そっちもね」
ユーニスはそう言葉を返し、細い月の落ちる方へと飛んで行った。