5 それぞれの役目
5
「今回の私たちの一番の目的は、陛下を探し出して取り戻すことです。そのため、捜索隊が敵に邪魔されることなく活動できるよう、戦場に変異種狩りの領主たちの目を引き付けつつ、捜索のための時間を稼ぐ必要があります。それには籠城するのが一番手っ取り早いでしょう。この館の周りには頑丈な石の防壁がありますし、対魔術用の防御壁を構築する大型の魔術装置もあります。また地図を見てわかる通り、館の北側は切り立った崖になっていて、その先は岩礁の多い海です。この北側から敵が船で来ることはまず不可能ですが、我々には魔力の翼があるので、主に北の海路から魔力薬や魔石といった物資の補給を行います。欠点の一つは、ここからの攻撃手段が弓と魔術という遠隔のみになることでしょう。弓矢はあとで多少回収できますが、魔術に関しては魔力資源を消費する一方です。それは対魔術用防御壁についても言えることで、魔術による攻撃をそれで防ぐことはできますが、防御壁の動力となる魔石を消費します。魔力資源を提供してくださるルース様の協力により、物資に余裕はあるものの、何十日も守り切るのは難しいでしょう。何故ならここで籠城するだけでは、相手も陸路で物資を補給し続けられるからです。相手の物資補給路を断つための別働隊が必要になります。また、石壁を攻城兵器の類で物理的に攻撃された場合、すぐには修復できないというのも欠点です。修復用の魔術をかけることは可能ですが、当然それにも魔力資源を消費します。石壁が崩れ、魔力資源が尽きた時、我々にはなすすべがなく、しかもここを落とされたらあとはありません」
「そこで出たもう一つの案が、ここから出て外で少しでも時間を稼ぐことだ。石壁や大がかりな防御壁を張る魔術装置はないが、ここに開けた荒れ地がある」
そう言ってフィンレーは地図を指差した。館から少し離れた場所に、彼の言う通りこれといった障害物となるようなものがない平地が広がっているのがわかる。
「ここに本陣を置いて簡易の防壁を築き、敵が攻撃してくる昼間は防衛に徹して、こちらの活動時間帯である夜に積極的に攻撃に出る、という案だ」
駒の一つを荒れ地に置きながらフィンレーが言うと、それに次いでイドラスが荒れ地の先の岩場を指で指し示し、「敵はこのあたりに陣取ることになるだろう」と続ける。
「だが、館の周囲にある石壁をここから攻城兵器で壊すには距離がありすぎる。前に出てきている我々の本陣や部隊に向けて撃つにしても、岩が多くて思うように大型兵器は動かせないに違いない。となると、敵の攻撃は弓と魔術による遠隔攻撃、そして歩兵や騎兵による近接攻撃だが、後者に関しては空を飛べる私たちにとって大した脅威ではない。主に弓と魔術による攻撃に警戒し、それらをしのぎながらの戦いとなるはずだ」
「弓矢には毒が塗られているでしょうしね。気は抜けないわ」
毒の入った小瓶を持ち上げ、中の黒い液を忌々しそうに睨みながら言うキナヤトエルに、ロスレンディルも緊張した面持ちで同意するようにうなずいてみせる。
イドラスもそれに首肯し、話を続けた。
「陛下がこの地を領地として選んだのは、土地こそ豊かではないが守りやすい地形だからだ。岩場の先――我らが領土と隣の領地のあいだにある中立地帯は谷で、道も狭い。大軍を引き連れている敵は動きが取りづらいだろう。館は文字通り最後の砦であり、ある程度は外で守ることをはじめから考えて選んだ土地だ、それを生かさない手はない」
それに納得したり同意したりする一同を見渡しながら、フィンレーは険しい口調で「だが」と口をはさんだ。
「この策の最大の問題点は、柔軟に皆の指揮を執れる者がいないことだ。住み慣れた場所でひたすら防衛のための指揮を執るのと、外で臨機応変に敵の動きに対処しつつ、積極的に攻撃の指揮を執るのとではわけが違う。そもそも、外で戦うのは陛下自身が兵を率いていることを前提としていたしな。外で戦うなら、陛下の代役を務められる指揮官が必要だ」
その言葉に皆が一様に嘆息をこぼし、表情を曇らせる。
「我々は戦いにおいて、あまりにも陛下の統率力に頼りすぎていたんだ」
誰かがぽつりと口にしたその呟きを、その場にいる誰も否定することができなかった。
広々とした食堂に、夜の静寂にも勝る重々しい沈黙が落ちる。
破りがたいその静けさを破ったのは、普段は寡黙なエンリェードのひやりとした声だった。
「イドラス卿が適任なのでは? 白狼公の名で武功をお聞きしていますが」
彼の言葉に皆の視線がイドラスへと集まる。
それを一身に受けたイドラスは小さく息をつき、「久しぶりに聞いた呼び名だな」と呟いて首を振ってみせた。
「私は陛下とは離れ、少数精鋭の別働隊を率いてずっと戦ってきた。陽動や急襲などが主な仕事で、私自身の戦い方もそれに適したものだ。本隊を率いるのには向いていない」
どこかかたくなな思いの感じられる硬い声音でイドラスは言う。
エンリェードはそれに無言のまま数度まばたきをしたあと、おもむろにフィンレーの方へと顔を向けた。
何かを問うように彼の目を見る。
するとフィンレーも首を左右に振り、皮肉っぽさの混じる口調で彼の言葉なき声に応えた。
「俺は確かに陛下のそばでずっと戦っていたが、月夜の民ではないただの人間の俺が指揮を執るのに不満な者はいるだろう。そこのヴァルツとかな」
そう言ってフィンレーは、今この場にいる月夜の民の中でサムの他にもう一人いる流枝の民の男を見やる。
褐色の肌を持つ目つきの鋭い小柄な青年は何も言わず、ただ尊大に鼻を鳴らしただけだった。
その様子を見て、キナヤトエルがいくらか同情的に呟く。
「流枝の民の変異者は特に、人間に迫害された経験のある人が多いから、気持ちもわからなくはないわ。フィンレーは仲間なんだから他の人間とは違うと思って欲しいところだけど、理屈ではどうにもならない感情というものはあるものね」
「これでもずいぶん和解した方なんだぜ。なあ?」
親しげな軽い語調で声をかけるフィンレーに、ヴァルツは腕を組んでそっぽを向いたまま何も応えなかった。
「まあ、彼があなたにあたりが強いのは、ユーニスがあなたに好意的だからでしょうけど。奥手なんだから」
「おい、適当なことを言うな」
キナヤトエルの冗談めかした言葉に、ヴァルツは不機嫌そうに返して彼女を睨む。
それにキナヤトエルは小さく肩をすくめ、「そうね。悪かったわ」と言った。
「でも奥手なのは本当よ。みんなね。妖精族は元々平和主義的な種族だし、流枝の民も陛下の言葉には忠実だけど、自分から兵を率いることはしたがらないか、我が強くて独走しがち。復讐に躍起になったり、周囲の状況に目を向けるのを怠ったりね。そんなみんなを陛下が上手く手綱を握って統率していたの。その弊害かしらね、大きな兵や複数の部隊をまとめて指揮できる人がいないのよ」
そう言いながらキナヤトエルはダイニングテーブルの美しい天板の上に頬杖をつき、「陛下の代わりは誰にも務まらないわ」とこぼした。
ルクァイヤッドもそれに同意するように言葉を紡ぐ。
「みんな、彼についていけば世界が変わると思っていましたからね。かく言う私もその一人です。改めて彼の存在の大きさを感じますよ」
そうしてまたその場に沈黙の幕が下りた。
「レディ・ユーニスは強いが、イドラス卿同様、別働隊を率いて戦うことを好むし、結構無茶をするからな」
ぽつりと呟くようにフィンレーが言うと、ロスレンディルもためらいがちに言葉を発した。
「正確に戦況を読み、的確に指示を出せるのは、ここにいる中ではドクター・ルクァイヤッドだけでしょう」
それを受けて堅木の民の医師は申し訳なさそうに「しかし、私自身にはろくに戦う力はありませんよ」と応じる。
「私も陛下のそばにはいましたが、あくまで助言や提案をしていただけで、実際に兵を率いて最前線で戦っていたのは陛下ですから。私が同じことをしようとしても、皆の足を引っ張るのが落ちでしょう」
「ドクターに最前線まで行かれるのは困るわ。私は治癒術こそ使えるけれど、人間の身体構造もよく理解していて、外科手術までできるのはドクター・ルクァイヤッドだけだもの。治癒術での治療が難しい捕虜や人間の怪我を治すのは、私や他の治癒師には無理よ」
「要請に応じ、これから合流してくれるであろう者たちの中にも、正直、陛下に並ぶ統率力のある者はいないというのが現状だしな」
キナヤトエルに次いでフィンレーもそう呟き、苦々しげな表情を浮かべて頭を垂れる。見ると他の者も同じような面持ちで、途方に暮れた様子だった。
彼らは王を取り戻すと決め、戦う決断を下したが、唯一の王を失ったことで少なからず弱気になっている――そのことにエンリェードは気が付いた。
だがそれは、彼らが長年間近で王と共に戦ってきたからこそだ。
月夜の民の真の強さは人間離れした能力ではなく、王の指揮による団結力と忠誠心と言われるほど、彼らは統率のとれた動きで数の不利をものともしない戦いを続けてきた。その要を失ったのだから、彼らの動揺も無理はない。
少なくとも、同じ月夜の民でありながら、遠く離れた地で安穏と過ごしてきたエンリェードに彼らを責める資格はなかった。
しかし、それでも自分たちを否定する者たちにあらがうと決めた以上、やるべきことはやらなければならない。
「本当に人がいないと言うなら、私がやりましょう」
おもむろにエンリェードがそう口を切った。
フィンレーを含め、月夜の民たちは感嘆とも困惑ともつかないざわめきをもらし、顔を見合わせる。それは諸手をあげて喜ぶという風ではなく、反応としては微妙なものだ。
もっとも、エンリェードにもそんな反応が返ってくることはわかっていた。彼らに本当に必要な言葉は別のものだ。それをこの場にいる誰よりも理解していた彼は、「ですが」と言葉を続けた。
「今一度よく考えてみてください。もしも私に指揮を執らせることを良しとするなら、フィンレー卿を指揮官とすることにも問題はないはずです。大して腕が立つわけでもなく、今回の召集に応じて加わっただけの戦争未経験者である無名の月夜の民か、長く戦いを共にし、経験も豊富だが普通の人間――どちらが信頼できるかという点で考えた時、大差ないと言うなら、実力も経験も充分なフィンレー卿が適任であると私は思います。あるいは、イドラス卿」
エンリェードはそこまで言うとイドラスの方へ顔を向け、静かに言葉を続けた。
「あなたは私が知る限り、私たちの中でもっとも戦いに長けた方です。すべての指揮を執ることになったら、あなた個人の力は存分には発揮できないかもしれませんが、別働隊を率いていらっしゃったのなら、まったく兵を率いたことがない私などよりもはるかに適性があると思います。規模は大きくなりますから大変でしょうが、補佐くらいなら私にもできるかと思いますので、その時は尽力します。それ以外の他の方に適任がいらっしゃるならそれでも構いません。同じように私はできる限りの補佐をしますし、それでも誰もいないのなら、私が指揮を執りましょう」
そう言ってエンリェードは改めて意見を求めるように一同を見やる。
それにはじめに応じたのは若草の民の商人、ラトだった。流枝の民の子供ほどの背丈しかない小人族である彼は、テーブルに腰かけた状態で皆の方へいくらか身を乗り出しながら言う。
「僕はエンリェード卿でもいいと思うけどな。彼はさっき自分のことを無名だと言ったけど、エンリェード卿は黒狼公の息子だ。戦闘面における陛下の代任を務めていたのが、まさしくその黒狼公だったんだから、そのあとをエンリェード卿が引き継いでもいいんじゃないかと思うよ。さっきの戦いではフィンレー卿に負けたけど、いくら強くても自分には全軍を率いるなんてできないって臆病風を吹かせている人よりも、やってもいいと言える人の方が僕は適任だと思うね」
「ラト」
咎めるというよりは注意する程度の柔らかな口調でキナヤトエルが彼の名を呼ぶ。その言外には言いすぎだという控えめな警告が込められていたが、ラトは気にしていない風だった。
「だってそうだろ。子供のお遊びじゃないんだ、やりたくないとか、種族が気に入らないから任せたくないとか、つまらない駄々をこねてる場合じゃないよ」
「でも、あなただってやれと言われてもできないでしょう?」
「それはまあ、そうなんだけど……」
ぴしゃりとキナヤトエルに言われ、ラトはきまり悪そうに応じる。
そのやりとりを見てルクァイヤッドは微笑み、剣呑になりかけた空気を変えるように穏やかに言った。
「籠城するにせよ打って出るにせよ、全軍の指揮を執る者はいた方がいいでしょうね。打って出る場合は、指揮官の重要性はさらに高くなるはずです。それでも、それを誰かがやらねばなりません。私は軍人ではなくただの医者で、戦闘能力もろくにありませんが、必要とあらば指揮を執ることもやぶさかではありません。他の方はどうですか? 他に適任だと思う人がいるなら、挙げてくださって構いませんよ」
「僕はエンリェード卿に一票」
「レディ・ユーニス」
ラトに続いてヴァルツが名前を挙げる。
フィンレーは「俺はイドラス卿だな」と迷いなく言った。
「俺は戦いの経験があるとは言っても、十年にも満たない。だが、イドラス卿は百年以上戦ってきたんだ。月夜の民でもあるし、誰も文句は言わないだろう」
他の者も口々に候補者を挙げるが、イドラスかフィンレーで意見が割れる結果となった。今は外出していてこの場にいないユーニスや、エンリェードを支持する者も少数いるが、エンリェード自身はイドラスに票を投じたこともあり、多数票の二者の中から決めるのが妥当と思われた。
「イドラス卿、あなたご自身のお考えは?」
ルクァイヤッドに穏やかに尋ねられ、イドラスは珍しく戸惑ったような表情を浮かべる。
だが、やがて意を決したように「皆が私を信頼すると言うなら、最善を尽くそう」と、いつも以上の真剣かつ険しい面持ちで応じた。
「決まりだな。ヴァルツもイドラス卿なら納得するだろう?」
フィンレーがそう言って、気難しい流枝の民の青年へと目を向ける。彼はそれに無言で首肯した。
それを見てフィンレーは満足そうに「よし」と声をあげる。
「あとから来る流枝の民の変異者たちも同様だろう。人間の俺より、イドラス卿の方がいい。誰も不満は言わないはずだ」
エンリェードも皆と一緒にその言葉にうなずいた。
「大任を押しつけるような形になってしまい、申し訳ありません。ですが私たちも最大限の補佐をしますから、ご安心ください」
ルクァイヤッドがイドラスに言って微笑むと、彼も短く「頼む」と応じて笑みを見せた。
それに伴い、暗く沈んでいた一同の表情も明るくなる。
そんな彼らに向かってエンリェードが控えめに口をはさんだ。
「もう一つ、提案をしてもいいでしょうか」
「どうした?」
フィンレーが不思議そうに尋ねると、エンリェードは血の気の欠けた白く長い指でテーブルの上に広げられた地図の岩場の部分を示しながら、「外で守るならこの岩場まで敵を入れるより、その手前の谷のところで足止めした方がいいかと思います」と言った。
そして荒れ地に置かれたままの自軍の駒と同じ色の駒を二つ手に取り、細い道を挟むように切り立つ谷の上の両側に一つずつ駒を置く。
「ここへ来る時に、この谷を見かけました。彼らの弓が吸血鬼狩りの狩人たちの使うものと同じ弩なら、下から谷の上までは斜線が通らないはずです。弩は矢が太く、威力は高いですが比較的真っ直ぐに飛ぶので、あの谷の高さなら少し顔を引っ込めれば当たることはないでしょう。長弓の矢は大きな放物線を描くので、角度次第では届くとは思いますが、顔を出していない状態の我々に当てるのは難しいはず。当てずっぽうに撃つことになるでしょうから、敵の矢を消耗させられるかと。そして我々は敵の射程外の上空や谷の上から易々と攻撃ができます。前方の谷の終わりのところ、岩場につながるあたりを本隊で押さえれば、相手は後方にしか逃げ場がありませんが、大所帯の彼らは下がるのも一苦労でしょう。外で守るなら、ここでないとほぼ意味はないように思います。この地の利を生かさず、自軍を荒れ地まで下げてしまうのはあまりにも弱い」
そう言ってエンリェードは荒れ地のところにあった自軍の駒を岩場と谷の境目に置き、谷の上の両側二つと合わせて三方から谷の下の細道を囲む配置を作ってみせた。
それを見てフィンレーが興味深そうに声をあげる。
「驚いたな、ドクター・ルクァイヤッドも以前、まったく同じ提案をしていた」
「断念したのは、谷の上の二部隊と本隊の連携を密に取って相手の出方を見ながら的確に動かないと、強引に正面突破されたり、大型魔術で各個撃破され壊滅しかねないからだ」
イドラスが厳しい口調で説明を加える。
「そこまでの統率は無理だという判断から、夜襲のしやすさも考慮して荒れ地にまで下がる案になったんだが、連携が可能なら確かにそこの方がはるかに強いな」
フィンレーは地図とその上に置かれた駒を見やり、考え込むように顎に手を当てながらそう言った。
エンリェードはそれにうなずき、さらに言葉を続ける。
「ただでさえ数で劣る戦力を分散させるのはリスクが高いですが、各部隊が少数だからこそ守る数が減るとも言えます。敵はさすがに三方同時に魔術で攻撃することはできないでしょうし、たとえ同時に攻撃してきたとしても、各部隊で張る対魔術用の防御壁は小規模ですみます。大がかりな魔術装置は必要ありませんし、規模が小さいほど守りは堅くできるので、デメリットばかりではありません。夜襲のことを考えるならこちらの領土に入ってくれた方がやりやすいですが、交戦状態の場合、敵の部隊や駐屯地および領地に攻撃をすることは伝統的に容認されています。隣の領地に多少の迷惑はかかりますが、他者の土地に駐屯する彼らに非があるということになるので、我々が国際的に非難されることはないでしょう。ならば、昼でも防衛のしやすい谷を押さえた方がいいと思います。谷の上に敵も兵を出してくるでしょうが、大軍を動かせるほどの広さはありません。どちらにどれほどの敵がいるのかを正確に把握し、きちんと対処すればある程度の期間、守ることは可能だと思います」
「ただし、指揮を誤れば総崩れ、か」
「そうさせないために、私たちが補佐をします」
きっぱりとそう言い切ったエンリェードを、少し驚いたように一同が見やる。
フィンレーも目を見張り、一瞬ぽかんとした様子で彼を見ていたが、たちまち表情を変えてにやりと笑みを浮かべると、「俺はその案に賛成だ」と、よく通る大きな声で言った。
「確かに荒れ地での防衛は弱すぎる。攻城兵器の脅威こそないが、防御壁を構築するまともな魔術装置もない状態で、自軍すべてや本陣を守り続けるのはあまりにも厳しいだろう。携行魔術装置を使うにしても限度がある。エンリェードの言うように、規模の大きい対魔術用の防御壁を構築するのは、小規模のものより壁が薄く魔力資源の消費も激しいしな。それに、この狭い谷で押さえ込めれば敵は攻城兵器はもちろん、歩兵や騎兵すらろくに動かせなくなるんだ、ほぼ弓と魔術にだけ気を付ければすむ状態になるのはいい」
フィンレーの言葉に半数ほどが同意の声をあげた。残り半分はまだ考えあぐねている様子で、沈黙を守っている。
そんな者たちの意思を問うように、ルクァイヤッドは「籠城するか打って出るか、決断を下しましょう」と言った。
「どちらの策を採るにせよ、それに見合った準備をそろそろ始めなければいけませんからね。前回話し合った時は籠城した方がいいと言う人が多かったですが、イドラス卿の指揮の下で連携を取れるとなると、話も変わってくるでしょう」
「多数決で決めるのですか?」
ロスレンディルの問いにルクァイヤッドはイドラスの方へ視線を向けて答える。
「皆の意見はうかがいますが、最終決定はイドラス卿にお任せするのがいいでしょう」
その言葉に異論を唱える者はなかった。
多数決の結果は若干、館の外へ打って出る策を支持する者が多く、エンリェードの指摘した谷で足止めする案に票を投じた形と言える。そしてイドラスの最終的な決断も籠城ではなく、館の外に出て兵を率い、谷を封鎖して防衛することだった。
作戦会議が終わるころにはすっかり空は白み、雲の切れ間からこぼれ落ちる春の暖かな日差しが立派な館の屋根や石壁、広々とした前庭を照らしている。
わずかに鳥の声はするものの目につくところに生き物の姿はなく、館の周辺は相変わらずのわびしさに包まれていた。
「そんなところにいたら灰になるぞ」
軽い口調の青年の声にエンリェードが振り向く。
石で作られた外壁の内側に備えられている、おそらくほぼ彼専用の梯子を登り切ったフィンレーは、壁の上から外の様子を眺めていたエンリェードの隣に並んで立った。
そこから見える景色は一面朝靄に煙り、白く飽和して遠くまで見通せない。月夜の民は比較的目がいいが、彼らの赤い瞳でも靄の向こう側まで見透かすことはできないだろう。
その光景はまるで先の読めない未来のようにもフィンレーには思えた。
「月夜の民でも、そんなに簡単には灰にならない」
生真面目に、そして静かにエンリェードが応える。
それにフィンレーは小さくため息をついて上着を脱ぐと、エンリェードの頭からそれをかぶせて言った。
「遠路はるばる、ここまで長旅をしてきたんだろう? 休んだ方がいい。今から張り切っていると開戦前に倒れるぞ」
「君こそ睡眠を取るべきだ。人間は毎日眠らないと」
両手で少し持ち上げた上着の下から顔をのぞかせ、エンリェードが淡々と言葉を返す。
その反論にフィンレーはもう一度息をつき、「それはそうなんだが、敵は昼に攻めてくるからな。俺もそろそろ夜の生活から昼に戻さないといけない」と言ってあくびをかみ殺した。
月夜の民と共に生きる彼は、日暮れ前に起きて月夜の民と時を過ごし、夜が明けると眠るという昼夜逆転の生活をしている。
だが、それともしばらくはお別れだ。
フィンレーはエンリェードの方へ顔を向け、おもむろに「よくイドラス卿を説得してくれたよ」と言った。
「俺も何度か彼に発破をかけてはみたんだが、彼は慎重だからなかなか首を縦に振ってくれなくてな。イドラス卿がその気にならないなら、俺がやるしかないと思っていたところだった」
「……彼にはずいぶんと失礼なことを言ってしまった」
ぽつりとそう呟いたエンリェードに、フィンレーは明るく笑って首を振ってみせる。
「イドラス卿はあんなことで怒るような器の小さい人じゃない。むしろ感謝してるさ」
その言葉にエンリェードはうつむき、「ここへ来る前、礼は言われたよ」と、朝露が一粒落ちるように言った。
「へえ、何て風に?」
「私とラトの言葉で目が覚めたと」
エンリェードの返答にフィンレーは声をあげて笑った。
「確かにラトの言葉は効いたな。誰も言わなかったことを堂々と言い切ったから」
そう言ってフィンレーは石壁の上に腰を下ろし、白くかすむ眼前の景色を眺めながら深呼吸をする。かすかに潮の香りをはらむ朝の空気は柔らかく、夜のうちに冬の名残はずいぶんと遠くへ去ったようだ。
エンリェードは立ったままフィンレーを見下ろし、独り言のように言葉を続けた。
「もう一つ」
「うん?」
「死ぬなと言われた」
短い言葉を紡ぎ、エンリェードも息を一つつくと、驚いたように自分を見上げているフィンレーからゆるりと視線を外して、白くぼんやりとした眼前の世界へと目を向ける。
「父には世話になったから、息子の私だけでも生きて欲しいと」
「そうか……君は黒狼公の唯一の後継者だしな。俺もそれを願うよ」
どこかひやりとした夜の気配を感じさせるエンリェードの言葉にフィンレーはうなずき、やがて「よし」と明るい声音で言う。
「何かあったら俺が守ってやろう」
得意げに胸を張るフィンレーに、しかしエンリェードは思案するように沈黙を返しただけだった。
未だ白くかすむ壁の向こうの景色に意識をとらわれたままでいるエンリェードを一瞥し、フィンレーはぼやくように言う。
「俺の護衛は不満か?」
エンリェードはそれに黙然と首を振り、いくばくかのためらうような沈黙をはさんだあと、静かな声音で呟いた。
「父との思い出など数えるほどしかないのに、ここにきて父に背を押されている気になるから不思議だ。彼の残した功績が人々の耳を私の話に傾けさせ、彼の築いた人望が私を守ろうとする」
その言葉にフィンレーは少し寂しげに微笑んだ。
「お互い、父親の影を追うばかりだな」
エンリェードがフィンレーの方へと顔を向ける。
この陣営でただ一人の人間の騎士は、自嘲混じりの苦笑を浮かべて言った。
「俺にとっての父親は月夜の民の王だ。彼の代役を務めようと、彼のようになろうとしてきたが、なかなか上手くいかない」
「……指揮官の件はイドラス卿に任せていいと思う」
エンリェードがそう言うと、フィンレーは「わかってる」と返して顔を正面へ戻し、誰かを探すように朝靄の向こうをじっと見やる。
「その件に限った話じゃなく……」
そこまで言ったところで、フィンレーはまるで次の言葉を見失ってしまったかのように口をつぐんだ。
それから大きく息をつき、立てた片膝を抱えるようにして顎を乗せると、ぽつりとこぼす。
「やはり俺はただの人間なんだなと思うよ。陛下のようにはなれない」
それにエンリェードは何も言葉を返さず、ただフィンレーが次の言葉を発するのをじっと待った。彼には他にも何か吐露したいことがあるのだと気付いていたからだ。
やがてフィンレーはエンリェードに話しかけるというよりも、自分に事実を確かめるように言葉を紡いだ。
「もし陛下が戻らなかったら、俺には本当に何もなくなってしまう。実の両親は俺を死んだものとした、当然俺の存在を家の歴史から消しただろう。そうなると俺に残されているのは、育ててくれた陛下だけだ。その彼が戻らなかったら、人間の歴史の中では死んだことになっている俺は、誰とも縁もゆかりもない幽霊のような存在になってしまう。月夜の民は人間の歴史から姿を消し、俺も消える……はじめからいなかったみたいにな」
そう言うとフィンレーは顔を上げ、エンリェードの方へ目を向けると、「今日死んだやつもそうだ」と続けた。
「灰になって、あとには何も残らない。だから月夜の民には葬儀をする慣習すらないと聞く。彼は皮肉屋のヴェルナンド卿にずいぶんといじめられていたが、主を主と思わぬ物言いで反論しては、仲良くけんかしている愉快な連中だったよ」
「……ここにいる者は誰一人、彼のことも君のことも、共に過ごした者たちのことを忘れないだろう」
ひやりとした静謐な声でエンリェードが言う。
「もちろん私もだ。今日亡くなった人については残念ながらほとんど知らないが、それでも忘れることはできないと思う。この手で受け止めた時はまだ生きていたから」
あの時のように伸ばした両腕に視線を落とし、エンリェードはそう呟いた。
フィンレーはそれにはっとした表情を浮かべ、「そうだったな」と小さくうなずく。
そんな彼の方へ視線を向け、エンリェードは言葉を継いだ。
「君のこともそうだ。父の亡きあと、長らく空席だったという近衛騎士となって陛下を守り、そばで戦い続けたその功績を、月夜の民も私も忘れることは決してない。人間の歴史には残らなくても、妖精族の共通にして不滅の歴史である記憶の図書館には残る。私が記すから」
「それはますます、君を死なせるわけにはいかないな」
フィンレーはそう言ってにやりと笑う。
その彼の名をエンリェードは一つ呼び、じっと目を見据えながらゆるやかに言った。
「何一つ表舞台の記録には残らないとしても、世界中の人にその存在を認められなかったとしても、華やかな足跡のない人生が無駄ということは決してない。君自身にとって満足のいく生であったなら、それは誰にも文句のつけようのない上等な一生だ。そしてもし君が自分ではそう思えなかったとしても、誰か一人にとってでも君と分かち合った時間が尊いなら、やはりその人にとって君は何物にもかえがたい、唯一無二の価値ある存在だと言える。たぶん君にとってもその人が唯一無二の存在であるように」
「……それは屍学者の言葉か?」
彼が本当に恐れているのは他人とのつながりが切れて独りになることではなく、自分の人生に価値を見出せなくなることだ。それをあっさりと見透かされた気がして、動揺を隠すようにフィンレーは冗談めかしてそう言ったが、エンリェードは表情を変えず淡々と言葉を続けた。
「お望みなら、屍学者からも真実を一つ教えよう。魂には一つとして同じものはなく、そして絶対的に平等だ。だから誰かと比べて価値のない生、などというものは存在しない。どんな人生を送ろうと、魂は一分の一の欠けることなき完璧な生の結晶だ」
「……まるで聖職者の言葉みたいだな」
「だから彼らは屍学者を嫌うのだろう」
「なるほど、商売敵というわけだ」
そう言ってフィンレーは笑い、そんな彼にエンリェードも微笑んで応えた。
「心配しなくても、少なくとも君は私に日よけを貸してくれる私の人生でただ一人の、奇特な人間の友人だ」
「一人? 学院にも人間の友人がいたんじゃないのか。君が学んだのは人間の街にある学院なんだろう?」
エンリェードの言葉に小首をかしげながらフィンレーが問う。
それにエンリェードは「広義では人間と言えるが、彼女は妖精族だ」と言葉を返した。
その返答を聞き、興味を引かれた様子でフィンレーが身を乗り出す。
「へえ、妖精族か。しかも女性とは隅に置けないな。恋人か?」
「そうだ」
短く返ってきた言葉にフィンレーは目を見開き、「本当に?」と声をあげる。
「それなら是が非でも帰らないとな」
明るく言うフィンレーに対し、エンリェードはわずかな沈黙をはさんだあと、「おそらく間に合わないだろう」と感情の欠ける音吐で言った。
フィンレーが眉を上げ、いぶかしげな表情を浮かべる。
「何だって?」
「彼女の病気は末期だ。秋までここで戦うなら、帰るころには彼女はいまい」
「そんな重篤の恋人を置いてきたのか?」
「連れてくれば良かったと?」
「まさか! そばにいてやれば良かったのに」
よく通る大きな声でそう言ったフィンレーの真剣な顔を見返し、それからたおやかに吹きつけた春の風でも追うように視線をよそへ移したエンリェードは、「医学の知識も薬学の知識もない、多少治癒術が使えるだけの私がそばにいるだけで治るなら、迷わずそうしただろう」と平板な口調で応えた。
そんな彼を見据えたままフィンレーも言葉を返す。
「死の迫った病人が恋人に求めるものは、知識でも魔術でもないぜ」
「そして愛も万能薬にはならない」
フィンレーはその返答に返す言葉を失い、口をつぐんだ。
エンリェードは再び彼に視線を戻し、ほんの少し申し訳なさそうな表情を浮かべて「気にしないでくれ」と言う。
「私たちはお互い、自分のやるべきことのためにこの選択をした。彼女は未だ不治の病である自分の病気を治すため、最後まで研究を続けることを選び、私は父が交わした盟約を守るため、そして月夜の民という自分の属する世界を守るためにここへ来た。戦いが長期にわたることは予想していたから、何も問題はない。何も後悔はしていないし、お互いの選択を誇りに思っている」
そう言ってエンリェードは微笑み、かぶっていた上着をフィンレーの肩にかけると、「ありがとう、もう大丈夫だ」と言って踵を返した。
軽やかに石壁から飛び降り、館の方へ視線を向ける。
「どこへ?」
「ペンとインクを借りる。姉に手紙を送らなければ」
外壁の上から顔を出すフィンレーを見上げてそう返したエンリェードは、たちまち黒い狼に姿を変えると、音もなく前庭を駆けていった。
月夜の民の血は引くものの、人間として生活している姉に月夜の民のことで手をわずらわせるのはどうにも気が引ける、と彼は心の中で呟く。
しかし、エンリェードにはどうしても姉に頼らなければならない理由があった――というのも、外で戦う策を推したのは自分だからと、館の外での防衛に使う携行魔術装置を自らが用意すると皆に約束したからだ。
魔術装置は効果範囲内の魔術の威力を増幅する他、あらかじめ構築した魔術を装置内に書き込み、それを任意のタイミングで発動することのできる魔器の類である。持ち運びできるような小型のものでも非常に高価で、エンリェードの私財をすべて投じても必要な数だけそろえるのは不可能だ。
よって、彼は黒狼公の領地を治めている姉に、領地内の他の財産とは別に管理しているはずの、王からの要請時に備えた軍資金を借り受けるつもりでいる。それを使う権利があるのは、現状、黒狼公としての決断を姉自身から一任されているエンリェードだけだ。規則や規約に厳しく、真面目な堅木の民の血を引く姉なら応じてくれるだろう。
領地の今後の管理も姉一族にゆだねることを伝えなければ、と彼は思った。
彼らが月夜の民の王の奪還に失敗し、表舞台から姿を消すことになった時、領地を持っている者はこの戦いで協力関係にある商人のルースに土地を譲ることになっているが、そもそもそれは任意であり、すでに人間が治めている場合、そのまま維持しても何も問題ないことはルクァイヤッドに確認済みだ。
長年黒狼公の持つ領地の良き主を務めた姉に、エンリェードの一存で領地を手放すよう言うことはとてもできなかったため、彼女に正式に託せるようになったのはエンリェードにとって朗報と言える。
黒狼公の領地が正式に人間のものとなり、エンリェードのことを知る姉がこの世界を去れば、おそらくもう人間には誰も彼が何者なのかわからないに違いない。フィンレーのように彼もまた、人間にとっては幽霊のような存在になる。
それでいい、とエンリェードは思った。
人間のフィンレーとは違い、月夜の民には無限に近い時間がある。光の時代が終わり、闇に沈む夜の時代が来た時、彼らの生きやすい時代がやってくるだろう。それを待つだけの忍耐力もある。
だが、そのためにはまず、この戦いを生き延びなければいけない。それが叶わなかった者は灰となり、風に乗って消えていく。
その風を追うように、その日の夜にはキナヤトエルの寂しげな竪琴の音色と、ヴェルナンド卿やその眷族たちを悼む彼女の澄んだ歌声だけが静かに夜の闇の中に響いていた。