3 手合わせ
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流枝の民の商人ルースと月夜の民たちはルクァイヤッドを中心に取引の内容をまとめ、正式に契約を結ぶと、これからの基本的な行動予定を立ててその日の商談を無事に終えた。
食堂に戻ってきたルクァイヤッドたちからの報告を聞き、話し合いがうまくいったことを他の月夜の民たちが喜んだのは言うまでもない。
だが、実際に商談の場にいた者の内の一人であるユーニスは、腑に落ちないといった様子で首をかしげながら食堂の椅子に腰かけて言った。
「それにしても彼は何を考えているのかしら。戦場についていきたいだなんて。腕が立つようにも見えなかったけど」
「まあ、いいじゃないか。戦場と言っても、本陣に来るだけで最前線に立つわけじゃない。安全なところで高みの見物でもしていてもらえばいいさ」
軽い口調でそう応じたのはフィンレーだ。彼はエンリェードを促し、食堂にしつらえられた優美なダイニングテーブルの一席に着く。
それを横目に見ながらイドラスは釘を刺すように呟いた。
「本陣が魔術による攻撃を受けたら、そんな悠長なことは言っていられないと思うがな」
「その対策を考えるのも私たちの仕事ですから、作戦会議をしなければいけませんね。でもその前に、エンリェード卿に他の人たちを紹介しましょう」
ルクァイヤッドが穏やかにそう割って入ると、今日ここへやってきたばかりのエンリェードに向けて、月夜の民の仲間たちを順に一人ずつ紹介をしていく。
それが終わると、彼らは夕食を摂りながらエンリェードも交えて今後のことを話し合うこととなった。
とはいえ月夜の民に必要なのは魔力のみなので、食事をする必要があるのは流枝の民のフィンレーだけだ。そういった生活様式の違いも、普通の人間と月夜の民が共存しづらい要因の一つであると言える。
だが、彼らはフィンレーの食事に合わせて魔力薬を調合した酒や紅茶を共に楽しむことを好んだ。
「さあ、今日は仕入れたばかりの鹿肉ですよ、フィンレー卿! そしてみなさんのお茶は、キナヤトエル様直伝のオールド・ブラッドベリーティーです!」
そう言いながら料理とティーポットを両手に持って意気揚々と食堂に入ってきたのは、小柄で恰幅のいい流枝の民の若者だった。もっとも、彼の瞳の色も鮮血の赤をたたえており、月夜の民の一人であることが見て取れる。
「ああ、サム、ありがとう。エンリェード、さっき紹介の場にいなかった彼が、俺の専属料理長とでも言うべきサム君だ。いつも俺の食事と、みんなのお茶を用意してくれる。魔力資源の在庫管理も担っているし、俺たちにはなくてはならない存在だ」
「これはどうも。エンリェード卿は黒狼公のご子息とうかがったので、お父様がお好きだったというお茶を用意しましたよ。お好みが同じなら、きっとお口に合うはずです。さあ、どうぞ!」
サムは元気にそう言うとティーポットからお茶を注ぎ、温かな湯気の立ち昇るカップを半ば強引にエンリェードに手渡した。
「ありがとう」
サムの勢いにやや気圧されながら、エンリェードはそれを受け取って口をつける。
魔力薬と食品との調合は非常に難しいと言われているが、それは魔力薬特有の苦味もほとんどなく、むしろオールド・ブラッドベリーの華やかな香りと酸味に溶け込んで絶妙なスパイスに仕上がっていた。
「こんなにおいしいお茶は初めてです」
驚きながらエンリェードが呟くように言うと、サムはすっかり満足した様子で何度もうなずく。
「サム、私にもちょうだい。今夜は遠出する予定だから、補給しておかなきゃ」
「もちろんです! さあどうぞ、レディ・ユーニス。みなさんもぜひ」
サムは大きな声で言って、一同にお茶を振る舞い始める。
それを愉快そうに眺めながら一人食事を始めたフィンレーは、やがておもむろに隣のエンリェードの方へ顔を向け、「それで」と口を切った。
「俺の記憶が正しければ、あの商人殿との話し合いのあいだ、君は一言も口を利かなかったように思うが、君の意見も聞かせてもらえるか?」
その言葉に他の月夜の民たちも一斉にエンリェードの方へと視線を向ける。
「私も同じ気持ちです。何も仰らなかったということは、基本的には我々の方針に賛同してくださっているものととらせていただいていますが、個人的なご意見やお考えはぜひ一度お聞きしておきたいです」
ルクァイヤッドの言葉にイドラスも黙然とうなずく。
そんな彼らの視線を受け、エンリェードはカップをテーブルの上にそっと置くと、窓の外に広がる夜のように静かな声音で言葉を紡いだ。
「お察しの通り、私は先ほど商談の場でうかがった方針に何も異論はありません。今回の戦いにおける二つの目的、陛下の捜索および奪還と、月夜の民が生き残ること――どちらも決して容易くはないでしょうが、戦いに勝利することよりも価値があると個人的には思います。その理由は、ドクター・ルクァイヤッドやイドラス卿が仰ったように、人間を倒して勝利を得ても共存の道へはつながらないと思われるからです。私も歴史をいくらか学びましたが、どこを見ても月夜の民と人間とのあいだに起きた戦いで両者の関係が改善した例はありません。月夜の民が勝利し、得た領地は、必ずあとから人間が取り戻そうとしています。もっとも、眷族を領主に据えるようになってからは、人間が月夜の民から領地を取り戻すという名目で攻めてくることはなくなったようですが。よって、眷族を使った対策は正解であったと私は思います。それを除けば、人間が月夜の民の領地と一度でも認めたことがあるのはただ一つ、ここだけです」
そこまで言ってエンリェードが口をつぐむと、彼の向かい側に腰かけたイドラスがいつもの険しい面持ちで言葉をはさんだ。
「君が学んだというその歴史は、表には出ていないはずのものだ。少なくとも人間の歴史には」
その追及にエンリェードは黙ってうなずき返す。
イドラスは心の内を読もうとでもするかのように数秒のあいだ彼の顔をじっと見つめていたが、やがて静かに「君は記憶の図書館へ入ったのか」と尋ねた。だが、その口調は質問というより確認に近い。
エンリェードはもう一度小さくうなずいてみせると、「かつて、父の故郷の森で許可を得て入りました」と答えた。
「一族で月夜の民の血を引くのは私だけでしたから、父のことも月夜の民のことも、もっと知っておくべきだと思ったのです」
その返答だけでイドラスは納得したようだったが、フィンレーは口の中の肉を飲み込むと少し不満げに声をあげた。
「記憶の図書館というのは何だ? 妖精族同士で通じることのようだが、俺にもわかるように教えてくれ」
それを受けてエンリェードとイドラスが一瞬顔を見合わせる。それはどちらが説明をするかうかがうものだったが、すぐにイドラスがその役を買って出た。
「記憶の図書館は、妖精族が共有している記憶領域のようなものだ。妖精族の記憶は木の根に例えられることがあり、まさに個人の記憶や知識という根は妖精族という大きな木につながり、共有の知的財産として保存されている。個人がそのすべての記憶や知識を引き継ぐのはあまりにも負荷が大きいため、記憶の図書館は普段封鎖されており、そこに入らない限り保管された記憶や知識に触れる機会は基本的にない。まれに記憶の図書館にある記憶や知識の一部を持って生まれる者もいるが、本当にまれな例だ」
「記憶の図書館にある記憶をすべて得ようとして、自我を失った人もいるわ。知識欲が旺盛なのは妖精族の長所であり、欠点の一つね。だから、そこに入るには許可が必要なのよ」
そう補足したのは、イドラスの隣の席でティーカップを傾けていた妖精族のキナヤトエルだった。彼女は長い白銀の髪を揺らし、どこか面白がるような仕種でエンリェードの方へと顔を向ける。
その横でイドラスもエンリェードの心の内を推し量るように見やり、冷静な語調で言った。
「記憶の図書館に入るためには、魔術的な儀式も必要とする。許可もそう易々と下りるものではないが――君には正当な理由があったようだな」
彼のその言葉からは、エンリェードが記憶の図書館の入室許可を得たなら、ある程度信頼の置ける人物だと判じたことがうかがえた。
もっとも、そうとわかったのは妖精族たちだけだったが。
「なるほど、それほど厳重な守りが施された書庫に残されている貴重な歴史を見ても、月夜の民と人間の関係は疑いようもない不仲というわけか」
妖精族たちの説明を受け、フィンレーが皮肉っぽく言う。
そんな彼に視線を向けたエンリェードは、生真面目な表情と語調で言葉を返した。
「だからこそ、私たちはこの戦いで生き延びる必要があると思う。種の存続のためでもあるが、確か変異種狩りの領主が治めるセント・クロスフィールドを含むあのあたりの教区は、最近司教が変わったはず。そしてその司教も今回の反変異種派に加わり、月夜の民の殲滅を支持している」
それを聞いて声をあげたのはルクァイヤッドだった。
「よくご存知ですね。仰る通りです。陛下が封印されてから五年近く経ち、反変異種派の人々が今になって動き出した理由の一つはそれだと私たちは考えています。多くの聖職者の方々にとって、私たちは実に体のいい悪役ですからね。新任の司教様の人気取りには悪者退治など最適でしょう」
「五年も空いたのは、吸血鬼狩りを探し出して味方につけるのに手間取っていた、というのもあるだろうがな。それも見つかったようだし、機は熟したということなんだろう。何せあの血の気の多い領主のことだ、本当なら陛下を封印したらすぐにでも攻めたかったはず。なのにこれだけ時間をかけたということは、総力戦のつもりだろう」
軽薄な口調で言ってフィンレーは肩をすくめ、サムが持ってきたワインに手を伸ばす。
それとは対照的に厳格な語調でイドラスが言った。
「だが、司教の介入で彼らの目標が明確に『月夜の民の殲滅』になった」
エンリェードはそれにうなずき、言葉を継ぐ。
「反変異種派を含むすべての人間にとって、月夜の民との戦いは本来利益のあるものではありません。せいぜい誰かがこの土地の権利を得るくらいのものでしょう。それでも彼らが戦いをしかけてくるのは、ひとえに月夜の民を『滅ぼすべき敵』だと考えているからです。特に今回は教会の威信もかかっている。教会は月夜の民を悪魔や魔物と同類のものとみなし、存在を許していないため、月夜の民を一人残らず滅ぼすことだけが彼らにとって完全な勝利と言えるでしょう」
「つまり、俺たちがまんまと生き延びれば新任司教殿の株も下がるというわけだ。変異種狩りの領主に対する司教の信頼も落ちるだろうし、険悪な関係になってくれるかもしれない。下手に俺たちが勝ったところで、これまで積極的に反変異種派の活動に参加してこなかった聖職者の連中を完全に敵に回すことになるだけだろうし、ならば試合に負けて勝負で勝ち逃げというのは悪くない。陛下が戻るなら、たとえここを失ったとしても俺たちはいくらでも立て直せるだろうしな」
ワイングラスをきれいに空け、不敵に笑って言うフィンレーに一同がうなずく。
そんな彼の隣で再びカップを手に取りお茶を飲み始めたエンリェードに、少なからず感心した様子で目を向けながらルクァイヤッドが言った。
「エンリェード卿、あなたのその知識も認識も正しいと私は思います」
「そうだろう?」
賛辞に近いルクァイヤッドの言葉に、エンリェード本人ではなく何故かフィンレーが得意そうな顔をする。
そればかりか、彼はその場にいる全員に聞こえる、はっきりとしたよく通る声でこう言った。
「彼に戦争の経験はないそうだが、戦術の基礎も理解しているようだし、ご覧の通り情報整理や状況判断の能力も高い。作戦会議にはエンリェード卿も加えることを俺は推すよ」
その言葉にルクァイヤッドは「もちろんです」と応じる。イドラスもそれに異論はないらしく、無言のままうなずいてみせた。
他の者たちも王の名代であるルクァイヤッドの判断に任せるといった様子で、反対の姿勢を見せる者はない。
ただ、好奇心旺盛な若草の民のラトがエンリェードに関心の目を向けながら、興味本位の疑問を口にした。
「黒狼公は剣術、魔術両方に長けた人だったと聞くけど、その名の通り狼の姿でも戦っていたんだろう? エンリェード卿も黒狼の姿で戦うの?」
その問いに再び、一同の視線がエンリェードに集まる。
「一応訓練は受けましたが……残念ながら体術、剣術、魔術、すべてにおいて私が父に勝るものはありません。形だけ同じように戦うことはできるかもしれませんが、とてもご期待には添えないでしょう」
謙虚にも聞こえる言葉を返し、エンリェードは空になったカップを静かにソーサーの上に置いた。
それを見ながらラトは少し残念そうに「そっかあ」と呟く。その様子から、彼も黒狼公に対して憧れに似た何らかの思いを抱いていることがうっすらと感じられた。
フィンレーの時もそうだったが、自分の知らないところで、自分の知らない人たちが父親のことをどのように評価していたかを目の当たりにするという感覚は、百年近く生きているエンリェードでもこれまで経験したことがなく、奇妙なものだ。ましてやそれが好意的で尊敬に近いものとなれば、面映ゆくもあり誇らしくもある。
早くに他界した母親同様、父親ともあまり縁のなかった彼にとっては、それを経験できただけでもここへ来た価値があるように思えた。
もっとも、彼らの黒狼公に対する評価が高ければ高いほど、エンリェードにかけられる期待は否が応でも大きくなる。それに応えられるだけの実力がないことを彼は自覚していたが、それをみんなにどのように示すかを考えるのはいささか気の重いことだった。
そんな彼の心を読んだわけではないだろうが、不意にフィンレーが明るい声で「いいことを思い付いたぞ」と言って手を叩く。
「エンリェードは俺と違って大見得を切るようなタイプではないだろうが、彼の言葉は謙遜にも聞こえる。実際のところどれほどの腕前か、一つ俺と勝負して確かめようじゃないか」
その言葉にどよめく一同をぐるりと見回し、それからフィンレーはエンリェードの返答を求めるように隣の席へと顔を向けた。
「作戦会議も必要だが、今日は起きてからずっと商談だの何だの、話し合いばかりだ。俺はそろそろ少し体を動かしたいし、君も自分の実力を皆に知らせておくいい機会だと思わないか」
エンリェードは軽く目を見開いて驚きの表情を浮かべていたが、フィンレーにそう尋ねられ、意を決したように一つうなずいてみせる。
それを見て取り、フィンレーは満足そうに「よし!」と言って立ち上がった。
「君は何をしてもいい。魔術を使ってもいいし、変身能力を使うのもありだ。もちろんお互い武器も使えるが、殺害はなしの真剣勝負。どうだ?」
フィンレーの問いにもう一度うなずき、エンリェードも椅子から腰を上げる。
彼らはそれぞれテーブルに立てかけていた自分の武器――剣と杖を持って顔を見合わせた。
「前庭が広いから、そこでやろう。誰か審判をしてくれ」
「私が立候補したいところだけど、もう出かけなきゃ。フィン、負けたら承知しないからね」
いつの間にか席を立ち、フィンレーのそばまで来ていたユーニスは、活を入れるように彼の肩を叩く。
「努力するよ」
フィンレーが肩をすくめてそう応じると、彼女は小さく笑って明るい髪をひるがえし、一瞬にしてコウモリへと姿を変える。そしてサムがすかさず開けた窓をくぐり、外に広がる闇の中へと飛び立っていった。
「では、審判は私が務めよう。見たい者は共に前庭へ、急ぎの仕事や用のある者はそちらに行ってくれて構わない。作戦会議の続きは勝負のあとだ」
イドラスが言って立ち上がり、先頭に立って食堂を出ていく。
それに他の月夜の民たちが続き、エンリェードもフィンレーに一歩遅れて彼らのあとをついていった。
そんなエンリェードの隣へ音もなく歩み寄り、「彼は強いわよ」とキナヤトエルが囁く。その語調は警告というよりも、単純に面白がっているように聞こえた。
がんばって、と声もなく口だけで伝え、彼女は機嫌良さそうに手を振る。
エンリェードはそれに何か応えるでもなく、ただ静かに彼女を見つめ返しただけだった。
館の外は夜のもたらす静けさと濃い闇に閉ざされており、見える明かりと言えば中天に浮かぶ青白い月とその周囲に瞬く星々、そして館を守る壁に等間隔で付けられた魔鉱ランプの青い光だけだ。エンリェードがここへ来た時にくぐった門と館のあいだに広がる前庭は広く、その中央付近ともなると外壁の明かりも届かないため、いっそう闇が深く感じられる。
天気はいいが風は冷たく、まだかすかな冬の名残を残していた。
「この暗さは君に不利だ」
前庭の中央に立ち、フィンレーと向かい合ったエンリェードは、わずかに目を細めてそう呟く。
しかし、魔術で明かりを作ろうとする彼にフィンレーは首を振って応えた。
「心配はいらない。今夜は晴れているし、月が出ていれば充分だ。俺だって月夜の民の陣営だからな。君たちほど夜目は利かないが、闇の中で戦うのには慣れている」
そう言うとフィンレーは腰の剣を抜き、その重さや感触を確かめるように一度剣先をくるりと回して片手で振ってみせた。その一連の動きにはよどみがなく、実に手慣れた様子で、彼が剣の扱いに長けていることが容易に見て取れる。
彼の剣は片手でも両手でも扱える長さの両刃の直剣で、片刃の曲刀のような斬撃の鋭さではなく刀身の重さを乗せて叩き切るタイプのものだ。刺突もできるように先端が尖っており、地上における対人戦では比較的扱いやすく、バランスがいい。
「俺の武器は剣だが、君はその杖か?」
刀身で自分の肩を叩くようにしながらフィンレーが尋ねる。
エンリェードはそれに応えるかわりに杖を一振りした。その拍子にガシャンという金属の音が響き、杖の先に湾曲した長い刃が組み上がる。三日月のようなその刀身は、まさしく大鎌の形状をしていた。
エンリェードとフィンレーを遠巻きに囲むようにして様子を見守っていた月夜の民たちのあいだから驚くような声がもれる。
フィンレーも軽く目を見張り、「珍しい武器だな」と呟いた。
「仕込み式の大鎌とは。しかも、かなり重そうだ。その細腕で扱えるのか?」
「私も月夜の民だ」
からかうようなフィンレーの言葉に短くそれだけ返し、エンリェードは大鎌を構えた。
それを見て取り、フィンレーも剣の柄を両手で握ると、切っ先をエンリェードへと向ける。
その両者の様子から準備が整ったと判じたイドラスは片手を上げ、二人を見やった。そして彼らがうなずき返すのを確認し、張りのある声で「始め!」と叫んで腕を振り下ろす。
その次の瞬間、相手の懐まで飛び込んだのはフィンレーだった。人間の動きにしては相当速い。
大鎌に比べてリーチの短い彼が踏み込んでくるのはわかっていたが、想像以上の速さにエンリェードは驚いた。そのためか、わずかに反応が遅れる。
腕を狙ったフィンレーの剣先がひやりと冷えた夜気とエンリェードの右腕を切り裂く。かすりはしたが、浅い。
お互いにそれを理解すると、エンリェードとフィンレーはほぼ同時にそれぞれの武器を振った。
夜の闇の中に鋭い剣戟の音が響く。それが二回、三回と続き、エンリェードが地面を滑るように後方へ下がると、無言で顔を上げた。
暗闇の中でうっすらと赤く光って見える双眸から投げかけられる無言の視線を受け、フィンレーはにやりと笑みを浮かべてみせる。
「俺は月夜の民と真正面から力比べをするつもりはないぜ?」
月夜の民が普通の人間よりも身体能力がはるかに高く、力が強いことを知っているフィンレーは、エンリェードの振った大鎌を正面から受けるようなことはせず、きれいに剣で受け流していた。
人間離れした速度で動ける月夜の民の攻撃を正確に目で追い、対処しきるフィンレーの戦闘技術の高さは並ではない。普通は月夜の民と人間が戦えば、まず月夜の民が負けることはないが、フィンレーは明らかに別格だった。
おそらく何度切り結んでもいなされるだろう、とエンリェードは心の中で呟く。
ならば、相手の手の届かないところから攻撃をしかけるしかない。
エンリェードは大鎌の長い柄を握り直し、一息で距離を詰めてなぎ払うように刃を振るった。
対するフィンレーはそれを下から頭上にはねのけるように流す。これで脇が空けば、踏み込みと同時に振りの速いフィンレーの剣がエンリェードの首に届く――はずだ。少なくともフィンレーはそう読んで大鎌を払ったつもりだった。
ところが、エンリェードはフィンレーの振る剣の流れに乗るように身をひるがえし、宙に舞う。
新月の夜で染め上げたような彼の黒い髪と服がフィンレーの頭上にかかる月を一瞬隠し、彼を見失わせた。
その一瞬の間隙にばさりと翼の羽ばたく音が刺さる。
フィンレーが勢いよく振り返ると、前方の上空にエンリェードの姿が見えた。その背にあるのは三対の黒い魔力の翼。そして彼の頭部からは二本の長い角が伸びていた。
その異形の姿に再び二人の周囲からどよめくような声があがる。
「六枚の翼に角持ち?」
「あんな姿、見たことないぞ」
しかし、エンリェードはそれに気を留めることなく空中で大鎌を振るった。その刀身から風となった魔力の刃がフィンレー目がけて走る。
一撃目を後方に飛びのくことでフィンレーはかわしたが、そのあとを容赦なく次の攻撃が追い、立て続けに砂埃が舞い上がった。
その中から飛び出したフィンレーは一瞬よろめき、慌ててその場で体勢を立て直すが、わずかに顔をしかめる。足下を見ると服の一部が裂け、血がにじんでいる。最後の一撃が彼の足をかすめていたのだ。
傷は深くないが、何発も食らうと不利には違いない。しかもエンリェードは剣の届かない上空だ。
これが剣を持った人間同士の戦いなら卑怯だと責められてもおかしくないが、相手が空をも飛べる月夜の民である以上、フィンレーはこの一方的な状況を打開する策を考えなければならない。
だがエンリェードはその時間を与えまいとするように、さらに大鎌を振るった。再び風の刃がフィンレーを襲う。
フィンレーは次々放たれる攻撃を避けながら前庭の一角にある弓の練習場の方へと駆け、的のそばに立てかけられていた弓を取ると素早く矢をつがえ、エンリェードに向けて放った。振りの遅い大鎌でそれを落とすのは難しいタイミングだ。
エンリェードは翼をはためかせ、自分目がけて真っ直ぐに飛んでくる矢をよける。
その軌道を読んでフィンレーは立て続けに矢を放ち、再び剣を握るとエンリェードの方へ駆け出した。
矢の一本がエンリェードの翼の一つを貫く。だが、ただの鉄製の矢じりでは彼の魔力の翼に傷一つ付けることもかなわない。
エンリェードは気にすることなく、自分の方へ突っ込んでくるフィンレーの方へ向き直った。フィンレーが矢を放ったのはエンリェードを射るためではなく、彼を地上の方へ追い立てるためだ。
もう一度高度を上げて上空へ逃げればエンリェードは優位を取り戻せるが、彼は上へよけると見せかけ、そのまま宙返りするようにして後方へと下がった。案の定、フィンレーは彼が空へ逃げると読んで剣を振り上げる。それは空振りに終わったが、フィンレーは休むことなく連続でエンリェードへ攻撃をしかけた。空へ逃がさないための猛攻だ。
振り上げた剣を即座に返して振り下ろし、エンリェードがそれを後方へ下がってよけるのを見切り、さらに大きく踏み込む。そして上ではなく、左右によけやすい方向から連撃をくり返した。
この近距離では大鎌を振るえないはず、とフィンレーは心の中で呟く。必ず距離を取りたがる瞬間が来ると彼は確信していた。
そのタイミングをつかめるよう、フィンレーはわざとエンリェードが距離を取れるだけのギリギリの隙を作ってみせる。その瞬間、彼が横へ大きく飛び退いたのを見て、フィンレーはここだと思った。
足の痛みも忘れ迷わず身をひねり、それと同時に深く踏み込む。これで剣を突き出せば、ちょうどエンリェードの心臓に刃が届く距離とタイミングだ。
それはフィンレーとエンリェードはもちろん、彼らの戦いを見守っている他の月夜の民たちにもわかった。フィンレーの勝ちだと。
イドラスが「そこまで」と言いかけた時、不意にエンリェードの姿が黒狼に変わり、するりとフィンレーの攻撃範囲を抜けた。そのまま地面に着地し、遅れて降ってきた鎌をつかんで人の姿に戻る。地面に片膝をついた状態で、エンリェードはそのまま大鎌を下から振り上げた。
大きな剣戟が一つ、闇と静寂に沈む前庭に響く。
「やられたかと思ったよ」
エンリェードの大鎌をかろうじて剣で受け止めたフィンレーが笑みを浮かべながらも、緊張した余裕のない面持ちで言う。
力は月夜の民であるエンリェードの方が強いが、体勢では上から抑え込む形のフィンレーの方が有利だ。
フィンレーは上から横へと大鎌を押し返そうとする。対するエンリェードは持っている武器を横に流されてしまうと、今の姿勢ではバランスを崩して倒れかねない。
それを避けるため、彼は身を引くように素早く後退し、大鎌を振り上げる。
しかし、その首元には冷ややかな月の光を反射するフィンレーの剣が突き付けられていた。
「……私の負けだ」
エンリェードがわずかに乱れた呼吸でそう呟くと、フィンレーは大きな息をついて剣を下ろした。その瞬間、周囲から拍手が響く。
「いい勝負だったが、惜しかったな」
剣を鞘に納めながらフィンレーが言い、エンリェードを見やる。
彼もフィンレーの方を見てうなずきかけたが、不意に何かに気付いたように目を見開き、空の一点を凝視した。それとほぼ同時に他の月夜の民たちのあいだからも「あれは……?」と声があがる。
「どうした?」
不思議そうに言って背後の上空を見上げるフィンレーにエンリェードは自分の鎌を無言でそっと預け、空を見上げたまま駆け出す。
「おい!」
訳がわからず叫ぶフィンレーの視界に、白い月の光が煌々と照らす夜空を不自然にふらふらと横切る小さな黒い影が映った。翼を持つその影がコウモリであるとわかった瞬間、それは急に高度を下げ、落下する。そして地面まであと数メートルというところで、黒いコウモリは人の姿に変わった。
その人影が地面に落ちる寸前、エンリェードが腕を伸ばす。どさりと鈍い音が響き、エンリェードの両腕に確かな重みがかかる。彼はそれを支えきれず膝をついたが、取り落とすことはしなかった。
「エンリェード!」
「エンリェード卿、今誰か……」
フィンレーと月夜の民たちが口々に何か言いながら駆け寄ってくる。
エンリェードはそんな彼らの方へ向かって、今までで一番大きく強い語調で「ドクターを!」と言った。
彼の腕の中には気を失った流枝の民が横たわっている。だが、コウモリに姿を変えていたことからして、月夜の民であるのは間違いない。その肩には矢で射抜かれたようなあとがあった。しかし、自己治癒力の高い月夜の民ならある程度ふさがっていてもおかしくないはずの傷は生々しく、皮膚には焼けたような形跡さえある。傷口の周りには、どす黒い液体がこびりついていた。
月夜の民の肌を焼くのは強い日光と、真銀や霊銀と呼ばれる魔力を帯びた銀だけだ。そういった銀製の矢を使うのは、反変異種派に他ならない。そして傷口についた黒い液体を使うのは――。
「見せてください」
エンリェードの周りに集まっていた月夜の民たちが道をあけ、ルクァイヤッドが駆け寄ってくる。
ひやりとした月明かりと誰かが魔術で作った明かり、その二つの光源で傷がよく見えるよう、エンリェードは腕の中の流枝の民の体を静かに動かしながら言った。
「気をつけて。傷口に黒い液体のあとが見えます」
それを聞いてルクァイヤッドがはっとしたような表情を浮かべる。
フィンレーが硬い表情で「ひどいのか?」と尋ねたが、ルクァイヤッドはそれには言葉を返さなかった。
代わりにエンリェードが呟くように言う。
「この黒い液体が死者の血なら、月夜の民には猛毒だ」
その言葉にフィンレーをはじめ、他の者も小さく息をのむ。彼らはその毒を使う者たちに心当たりがあった。反変異種派の中でもその毒を作れるのは、吸血鬼狩りと呼ばれる狩人たちだけ。彼らこそ、月夜の民の天敵だった。