2 取引
2
エンリェードたちが館の食堂へ行くと、そこにはルクァイヤッドをはじめ十余人ほどの人々が集まっていた。その全員が月夜の民だ。種族は妖精族が一番多く、流枝の民は先ほどのユーニスと男が二人。そして若草の民と呼ばれる小人族が一人、食堂のテーブルに腰かけて話をしていた。
「僕は同じ商人だし、彼に顔を知られると調査がしづらくなるだろうから、ここで待っているよ。戦いについては全然わからないしね」
「戦いに詳しい騎士様が来たわよ」
ユーニスの言葉に、一同が部屋に入ってきたフィンレーとエンリェードの方を見やる。
「フィンレー卿、エンリェード卿も、ありがとうございます。人間の商人の方が本格的に取引をしたいと、来られています。フィンレー卿は同席されるでしょう?」
「ああ、呼びに来てくれて助かったよ。ありがとう、レディ・ユーニス」
「エンリェード卿はどうされますか? 客人をお待たせしているので、詳しい事情を説明する時間がないのが申し訳ないところですが」
「商人のことはここに来る途中で少し話した。君も来い、エンリェード。どうせ商人にこちらの事情を説明をしないといけないんだ、君も同席すれば状況がわかっていいだろう」
フィンレーの言葉にエンリェードはうなずく。
「では私とフィンレー卿、エンリェード卿、そしてレディ・ユーニスとイドラス卿の五人で話を伺ってきましょう。これ以上の大人数で行っても、お相手を怖がらせるだけでしょうから」
そう言うとルクァイヤッドがいくつかの書類とおぼしきものを持って先に立ち、五人は客人である商人が待つ応接室へと向かった。
その途中、フィンレーが「確か予定では、商人が来るのは明日の日中じゃなかったか?」と尋ねる。それに答えたのはルクァイヤッドだった。
「そのはずだったのですが、月夜の民にとっては日が出ていない方が都合がいいだろうからと、わざわざ訪問時間をずらしてくださったようです。商談は早い方がいい、ということでもあるようですが」
「ずいぶんと月夜の民に好意的だな」
「ラトの話では、月夜の民に荷担することに否定的な父親の猛反対を押し切ってきたらしい。あまり公には言えない取引も行ってきた父親に対する反抗心からなのか、月夜の民に対する同情なのか、あるいは本当に月夜の民を良いビジネスパートナーだと思ったのか……その真意は未だわからないが、本気で取引を望んでいるのは間違いないようだ」
険しい顔でそう補足したのは妖精族のイドラスだった。もっとも、彼の表情が険しいのは普段からで、今回に限ったことではないが。
真面目で厳格な彼は、華奢な体格の者が多い妖精族にしては肩幅が広く、比較的がっしりとした体つきの戦士であるためか、その風貌には独特の圧がある。だが彼の語調は柔らかで冷静だった。豊かな白金の髪と端正な顔立ちもいかにも妖精族らしい華やかさがあり、彼の気難しそうな雰囲気を和らげるのに一役買っている。
そんな彼の言葉をさらに補足するように、フィンレーが隣を歩くエンリェードに向かって言った。
「ラトというのは、さっきいた若草の民の商人だ。見た目こそ小さな子供だが、あれでなかなかの商売人でね。人間に紛れて商売をしている。彼は顔が広いから、いろんな情報収集をしてくれているんだ」
「彼が調べてくれた限りでは、これからお会いする商人の方が変異種狩りの領主とつながりがあるという話もありません。ならば純粋な協力者は歓迎したいところです。彼の身の安全も考慮しつつ、協力関係を結べそうならそうしようと思います」
ルクァイヤッドのその言葉に、他の四人は異論なしといった様子でうなずいた。
「お待たせして申し訳ありません、ルース様」
応接室の扉を開けたルクァイヤッドの声に緊張した面持ちで顔を上げたのは、まだ十代とおぼしき流枝の民の少年だった。
彼が商談を持ちかけてきた商人ということだが、その若さにエンリェードは驚きの表情を浮かべる。彼自身も妖精族や月夜の民の中では若輩の部類だが、それでも年齢だけで言えば八十歳ほどで、人間なら二十代のはじめの方だ。ここでは最年少のフィンレーも二十を少し越えたくらいであるため、ルース少年は小柄なこともあってこの場ではいっそう幼く見えた。
エンリェードが他の者たちと共に応接室に備え付けられた椅子の一つに腰を下ろし、ふと顔を上げると、その少年と目が合う。
彼はエンリェードの顔を食い入るように見つめていたが、視線が交わると慌てて目をそらした。
それから全員が席に着くのを待ち、ルースは芝居がかった咳払いを一つして自信ありげに口を切る。
「ドクター・ルクァイヤッド、あなたの言った通り三ヶ月分。百人の月夜の民が必要とする魔力薬と魔石を提供するめどが立った。一度には用意できないが、安全な道と足さえあれば継続的に供給できるはずだ」
その言葉にエンリェード以外の月夜の民たちの口から驚愕の声があがる。
「それだけあれば充分戦えるわ。そのあいだに陛下を探し出して解放することも可能かもしれない」
喜色に満ちた声音でユーニスが言う。
イドラスもうなずきながら「少なくとも、長期戦は可能になるな」と冷静に呟いた。
「それに対する見返りとしてあなたが望むものは?」
ルクァイヤッドの静かな問いにルースはきっぱりと答える。
「前に言った通り、月夜の民たちとの優先的な魔力資源の取引だ。魔力薬や魔石を扱う商人はたくさんいるが、戦に勝った暁には私から優先的に買って欲しい」
「我々にとって、願ってもないお話です」
「では……!」
ぱっと明るい表情を浮かべ、ルースが身を乗り出す。
しかしそれにルクァイヤッドは、「いえ、少しお待ちください」と静かに言って手を上げ、慎重な口調と面持ちで言葉を続けた。
「具体的な取引の話をする前に、いくつかお話ししておかなければならないことがあります。当事者でないとわかりづらいところもありますので、順番に整理してお伝えしましょう」
ルクァイヤッドはそう言うと、持ってきた紙の一枚をテーブルの上に広げてみせた。そこには几帳面な共通語の文字で種族名や個人の名前などが記されており、同じグループとおぼしきものは枠で囲われている。
エンリェードにはそれが勢力図のように見えた。
そこに書かれたグループの一つを指差し、ルクァイヤッドが話し始める。
「まず私たち月夜の民ですが、ここに書いてある通り、変異種、吸血鬼、不死者といったいろんな呼ばれ方をされています。しかし、呼び名による違いは特にありません。よって、私たちがこのいずれかの名前を出した時は、月夜の民のことを指していると思ってください。そして現在、我々月夜の民を敵視しているのが、この反変異種派と呼ばれている人たちです」
そう言ってルクァイヤッドは月夜の民と向かい合うように書かれているグループを指で示してみせる。
「反変異種派自体は何百年も前からいますが、現在の中心的な人物は変異種狩りのあだ名で知られる、セント・クロスフィールドの領主です。彼の目的はただ一つ、月夜の民を一人残らずこの世から消し去ること。私たちはそれにあらがい、何度も彼と戦ってきました。そしてその泥沼のような戦いをついに収めようと、我々月夜の民を束ねる王と変異種狩りの領主のあいだで契約が結ばれたのが約五年前です。その内容は、今まさにあなたがいらっしゃるこの土地を月夜の民の領地として認め、干渉せず、お互い戦わないことでした。その代償は私たちの王の封印です。これで私たちは王を失ったものの、一応の自由を手に入れられるはずでした。しかし、その契約が人々の記憶からいささか薄れ始めた今、件の領主は隠す様子もなく戦いのための兵を集めています」
ルクァイヤッドはそこで一度言葉を切ると、応接室のテーブルの隅に置かれていたチェス盤に手を伸ばし、その上に乗っている白い駒のうち兵士の形をしたポーンをいくつか手に取る。そして彼はそれらを勢力図に記されている変異種狩りの領主の陣営上に並べ、さらに話を続けた。
「契約のあとも変異種狩りの領主には不穏な動きがありましたし、契約ははじめから月夜の民の王を封印するための口実に過ぎなかったのでしょう。彼が契約を反故にするのは時間の問題だろうと言われています。本来はそんなことをすれば各方面から非難がくるものですが、彼は月夜の民を滅ぼすことは人類のための正義だと主張し、絶対的な敵と交わした契約など守る必要がないと考えているようです。そして残念ながら、その主張は人間たちのあいだである程度まかり通っていると言えるでしょう。しかし、だからといってこちらから契約を破って攻撃するわけにはいきません。戦わないのが契約ですし、私たちがそれを破ったら一斉に非難を浴びるのは目に見えていますからね」
ルクァイヤッドはそう言って大きな肩をすくめてみせる。
それから彼は黒い駒を一つ取り、それを勢力図の月夜の民陣営の上に置きながら、「とはいえ」と言葉を続けた。
「おそらく戦いを避けられない以上、こちらも兵を集め、戦いの準備をするべきでしょう。そのため、一軍を支えるだけの我々の命の源である魔力資源が必要であり、それを提供してくださるというルース様のお話は、我々にとって願ってもないことなのです」
その言葉にルースは真剣な面持ちでうなずく。
ルクァイヤッドもそれにうなずき返し、「ここまでが今に至る経緯のようなものです」と言った。
「そして私たちはできることなら、ルース様の支援を受けたいと考えております。ですが、お互いの公平な取引のためにも現在の私たちの状況や、戦いの方針について先にお話ししておくべきでしょう。その中でも、ルース様に知っておいていただきたい大事なことがいくつかあります」
「まず一つは、この戦いが勝機の薄い負け戦だということだ」
ルクァイヤッドの言葉を継いでそう口をはさんだのはフィンレーだった。
「敵は月夜の民を滅ぼすため、反変異種派の他の領主と手を組んで傭兵をかき集めているばかりか、吸血鬼狩りと呼ばれる専門の狩人も雇ったと聞く。まだ月夜の民が吸血鬼と呼ばれていたころ、それを危険視し退治しようと、月夜の民を殺すことに特化した武器や技術を開発した人間たちがいたが、吸血鬼狩りはその末裔だ。その他にも、魔術師を何人も雇っているという情報もある」
言いながらフィンレーは勢力図の敵領主のそばに書かれている吸血鬼狩りと魔術師という文字を指差し、新たにチェスの白い駒を手に取ると、馬の形をしたナイトと魔術師の帽子をかぶったビショップを敵領主の陣営に加えた。
これで勢力図の上には黒い駒が一つと、白い駒が五つほど並んでいる状態だ。
それを手で示しながらルクァイヤッドがルースに言う。
「ご覧の通り我々は数の上で不利な上、天敵とでも言うべき狩人たちも相手にしつつ、魔術による攻撃の対策までしなければなりません。いくら月夜の民の身体能力が高く、魔術に長ける者が多いとは言え、劣勢であることに変わりはないのです」
「その状況で俺たちが目指すことは、どこかに封じられている我らが王の捜索と奪還だ。そのためには相手の目を捜索隊からそらし、戦場に引きつけておく必要がある。そしてとにかく戦いを引き伸ばし、奪還が叶わなかったとしても、相手をしばらく戦ができないところまで消耗させるのが目的だ」
そこまで言ってフィンレーが口をつぐむと、ルクァイヤッドは穏やかな微笑みを浮かべてルースに告げた。
「つまり正直なところ、我々は勝つことはあまり考えていないのです」
「何だって?」
驚きとも怒りともつかない複雑な面持ちでルース少年は声をあげる。
それに対し、三人の月夜の民と一人の人間の騎士は動じることなく若い商人に視線を返した。
エンリェードも無言のまま、そんな両者をじっと見守る。彼はここに来たばかりでまだ詳しい戦いの方針を聞かされていないが、ルクァイヤッドの言葉は想定の範囲内だった。月夜の民と彼らを嫌う人間のあいだで長きに渡りくり広げられてきた戦いにおいて、月夜の民が成果らしい成果を得ていないことをエンリェードは知っていたからだ。
「王の奪還の他にもう一つある俺たちの目標は、月夜の民が全滅しないこと。それだけだ」
フィンレーはそう言って腕を組み、椅子の背に身を預けた。
それとは対照的にイドラスがわずかに身を乗り出すようにしてテーブルの上で長い指を組み、淡々とした口調で話を継ぐ。
「あなたは若いからご存知ないかもしれないが、私たちは月夜の民を脅威と見なし迫害する人間たちと何百年も戦ってきた。しかし、その成果は皆無に等しい。戦えば戦うほど、彼らの私たちに対する嫌悪と憎しみが強まるばかりだ。今回の主な敵であるセント・クロスフィールドの領主は変異種狩りで名高いが、彼の前にもそんな人間は何人もいた。教会の権力者もいたし、飢饉を我々のせいだと言う農民たちの集団だったこともある。そういった者たちを徹底的に打ち負かし、その首領の首をとったところで、何十年かすればまた同じような者が現れるのだ。月夜の民に負けた歴史を忌まわしい悪の勝利とし、かつての者たちよりも深い恨みを持ってな」
「私たちも最初は、勝利の先に自由があると思っていました。しかし、いくら私たちを敵だと言う人を殺めても、その者の首を切った私たちを指差して他の人間が『やつらは敵だ』と言うのです。それを何度もくり返し、私たちは理解しました。自分たちを否定する者たちを殺しても、結局のところ何の解決にもならないと」
イドラスの言葉にうなずきながら、ルクァイヤッドはそう言って小さく息をついた。
寿命というものがない月夜の民の中でも、ルクァイヤッドとイドラスの人生は四百年を超える。その決して短くない歳月の大半を種族の生存権を守る戦いに費やしてきた彼らの言葉には、百年も生きていないエンリェードたちには決してわからない――だが確かに感じられる重みのようなものがあった。
それに打ちのめされたかのような、どこか疲れた口調でユーニスが呟く。
「私はそれでも戦い続ければいつか変わるんじゃないかと思っているけど、ここにいるルクァイヤッドやイドラスは実際に戦い、その成果のむなしさを目の当たりにしてきたから、不可能だと言うわ」
そんな彼女の言葉にイドラスは小さく顎を引くようにしてうなずき、さらに言葉を重ねた。
「特にドクター・ルクァイヤッドは、一番長く陛下の隣でそれらの戦いを間近で見て来られた。望まない戦いに応じ、やむを得ず命を奪って一時の平和を手に入れたところで、結局は何も変わらない現実を、何百年も……」
「だから私たちは、この領地を手に入れたのです。迫害される月夜の民の避難場所とするためですが、最終的な目標はここを人間と月夜の民が共存する地にすることでした。ですから陛下は行き場をなくした人間もこの地に招き入れ、月夜の民と人間が争わないことを条件に住むことを許したのです。それはおおむね順調にいっていますが、件の領主はそれも気に入らないと言い、この領地ごと私たちを葬り去るつもりです」
表情を曇らせながらルクァイヤッドは言い、ルースの青い目をじっと見つめた。その彼の双眸は血に濡れたように赤く、わずかに光を放って見える。
魔物が持つ鮮血の赤目は魔眼だ、という昔からの言い伝えをルースは思い出した。彼らの目を長く見つめると心を読まれ、支配されると。
眼前の席に並んで座っている者たちのうち、流枝の民の青年を除くすべての者の目が赤いのを見て取り、ルースはこの時になって初めて、今自分が人間とはまったく違う存在と相対していることを自覚した。
彼らの態度は紳士的だが、その気になれば流枝の民の少年を一人殺すことなど造作もないはずだ。そう考えると、胸の奥から恐怖が首をもたげてくる。連れてきた使用人など、彼らが部屋に入ってきてからというもの、震えながらうつむいたまま一度も顔を上げようとしない。
ルースの心の内に一瞬、自分は今非常に愚かなことをしているのではないか、という不安が湧き上がった。
しかし、それをかき消すようなはっきりとした声で、彼と同じ色の瞳をした流枝の民の青年――フィンレーが「だから俺たちは負けられないんだ」と言う。
「これは月夜の民がこれからも人間と同じ世界で共に生きていけるかどうか、その運命がかかった戦いだからだ。俺はあなたと同じただの人間だが、育ててもらった恩がある。両親はあっさり俺を捨てたのに、月夜の民は俺を迎え入れてくれた。そんな月夜の民と共存することは可能だと俺は信じている。だから月夜の民が滅ぶ必要はないし、ここにいるみんなを死なせるつもりもない。――だが、相手を倒すだけでは本当の自由も得られない。それも事実だ」
それにイドラスも厳しい面持ちで続けた。
「勝ち目の薄い、そして勝ったところで大して意味のない、種族の命運をかけた戦争……それが今私たちの眼前に迫っているものだ」
感情の欠けた冷静な言葉がルースの意識に突き刺さる。
「私たちの状況をご理解いただけましたか?」
痛みを和らげるかのような穏やかな口調でルクァイヤッドがそう尋ねたが、ルースは両者のあいだに横たわるテーブルの上に視線を落とし、不機嫌そうに、あるいは不服そうに応じた。
「何となく、仰っていることの概要は理解したが……それなら、私があなた方と取引をしても得をするとは思えない。勝つ見込みも、そのつもりもないなら、自由を得た月夜の民と優先的な取引をするという約束など意味がないだろう」
その言葉にルクァイヤッドは微笑み、意外にも明るい声音で首を振って応えた。
「いいえ、このような無駄な長話をお聞かせするためだけにあなたをお引き留めしているわけではありませんよ。私たちは確かに劣勢の状態で、しかも運良く相手を負かしたところで、その勝利には大した価値がありません。ですが、先ほど申し上げた通り、戦いを長引かせることができれば、どこかに封じられている我らが王を取り戻す機会が作れます。戦いが長引けば相手の資金や戦力も減り、次の戦の準備にかかる時間を稼げるでしょう。今回は特に、変異種狩りの領主を筆頭に、反変異種派の者たちが手を組んでいます。彼らを一気に消耗させられれば、しばらく反変異種派の活動は静かなものになるでしょう。そして万が一王を取り戻せたなら、陛下はあなたと正式に商取引を結ぶはずです。彼も月夜の民のために安定した魔力資源の供給をしてくれる商人を探していましたから」
「もし陛下が戻られなかった場合は、私たちはしばらく人の目に触れないよう隠れるつもりだ」
再びイドラスが補足するように言葉を足す。
それにうなずきながらルクァイヤッドは話を続けた。
「そうなると現在自分の領地を持っている月夜の民の中には、領地を手放した方が都合がいい者もいるのです。そういった土地をあなたにお譲りしましょう。陛下が戻られない時、あなたの仰る商取引の確約は難しくなりますが、我々には不要となる領地があなたの協力に見合う対価になるかと思います」
「それはつまり……」
驚きの表情を浮かべながら呟くルースに、ルクァイヤッドはにこりと人の好さそうな笑みを向ける。
「ええ、王の奪還、あるいは主なき敗北――どちらの結末を迎えたとしても、あなたには利があると思います。ですから、私たちと共にこの戦いを最後まで戦い抜いて欲しいのです」
そう言ってルクァイヤッドは、持参した残りの書類をルースに差し出した。
「以前陛下が作られた魔力資源の取引に関する見積書と、現状わかっているだけのあなたにお譲りできる土地に関する情報をまとめたものです。後者はそこに書かれている以上に増える可能性があることをお伝えしておきます」
「それらの領地はすべて、百年以上に渡る過去の戦いで得たものだ。領主が戦死し、主のいなくなった土地を陛下の裁量で我々に与えられた形だが、表向きは血の契約をした眷族たちが領主を務めている」
領地の書類の方を指差しながらイドラスが言い、それに続いてユーニスが言葉を継いだ。
「血の契約というのは、月夜の民が普通の人間を自分の眷族にするために行う魔術的な儀式のようなものよ。血の契約を結び月夜の民の眷族となった人間は、自分を眷族にした月夜の民と主従関係になり、月夜の民に等しい身体能力や再生能力を得る。年を取らなくなり、食事も必要なくなって魔力だけで生きていけるけど、主である月夜の民が死んだら自分も死ぬ――運命共同体ね」
そういった眷族を普通の人間のように見せかけ、治める者がいなくなった土地を管理する仮の領主として据えているのだとイドラスは説明した。それは月夜の民が人間の領地を侵略しているかのように思わせないための措置だ。
そのために領主やその土地に関する歴史についても、適当に改竄をしたり昔話を作り上げることでごまかしているとイドラスは言う。月夜の民が関わる土地だと知られないためには、そうするしかなかったのだと。
月夜の民が持つ赤い瞳には他者の意識をある程度操作する力があるため、それを駆使し、年月をかけ、世代を隔てて引き継がれる人々の記憶と記録を書き換えることで、領地に月夜の民の関与があると悟られないようにしてきたのだ。
彼らがその力を好んで使うことはほとんどなく、この場にいる月夜の民が人間に対して使用したのはその件のみだった。
「このあたりの多少の不正は大目に見てください。私たちは人間の土地を侵略するつもりはありませんし、お互い平和に暮らそうと思うと、そういう小細工も必要なのです」
少しばつの悪そうな表情を浮かべて弁明するルクァイヤッドに対し、ユーニスは「お互いにとってその方がいいんだから、気にする必要なんてないわよ」と強気に言う。
フィンレーも彼女に同意するように首肯し、「要するにだ」と口を切った。
「そこに書かれている土地はどれも人間の領主が治めていると思われている何の変哲もない場所で、土地の売買によっていつの間にか領主が変わっていても誰も気にしないということさ。今の時代、落ちぶれた貴族が金だけは持っている成り上がりの商人に土地を売るなんてのも、よくある話だしな」
それを聞いて自分のことを言われたと思ったのか、ルースはいくらかむっとした様子で言葉を返した。
「人間の領主が治めているということになっているなら、わざわざ手放す必要はないんじゃないか? 裏で手綱を取り続ければいい」
それはフィンレーに向けられたものだったが、答えを返したのはイドラスだった。
余計な揶揄など許さぬ生真面目な表情と厳格な口調で、淡々と言葉を紡ぐ。
「王が戻られない場合、我々は人間の歴史から完全に姿を消すくらいのつもりで身を隠す予定でいる。領地で何か問題が起きた時などに、その処理にわずらわされたくないのだ。元々、我々の土地ではないしな」
「私たち月夜の民の土地だったのは、陛下が手に入れてくださったここだけよ」
口をはさんだユーニスの言葉に一同がうなずく。
そんな月夜の民たちを眼前にしながら、ルースは彼らが恐ろしいほど謙虚で無欲であることに驚愕していた。
度重なる戦で何度も勝利を収め、得た土地の歴史を裏で操ることまでしながら、彼らはあくまで人間との共存を望み、支配することは考えていない。そういった傾向は、世界の監視者とも呼ばれ中立的な立場をとることの多い妖精族が月夜の民の過半数を占めるためだとも言われるが、これほどまでかとルースは感嘆した。全人類を敵に回すようなやり方は、圧倒的な数の差で不利な彼らには難しいことであるのは確かだが、月夜の民が本気で人間を滅ぼし世界の覇権を握ることを狙えば、もっといくらでもやりようがあり、それはある程度実現可能なことのように思える。
それにも関わらず月夜の民が未だに迫害される側で居続けるのは、彼らが人間との共存の姿勢を崩そうとしないからだ。月夜の民を束ねる王と呼ばれる男も、種族をまとめ上げながらも目指したのは人間や世界の支配ではなく、共存だと言われている。
その一貫した姿勢を人間たちが評価しないのは何故なのか、差別が続くのは何故なのかがルースには理解できなかった。眼前の彼らに恐怖を覚えないと言えば嘘になるが、平和的な商取引も隣人関係もそこまで難しいことではないようにルースには思えるのだ。そして実際にこうして彼らと対話しているからこそ、その思いはルースの中で強くなった。
だが、それと同時に彼は気付く。人間が月夜の民を恐れるのは、結局のところ、彼らのことをろくに知らないからなのだと。彼らが吸血鬼と呼ばれていた時代の恐怖と、少数でありながら人間離れした力で人との戦いに勝ってきたことが彼らを人類の敵だとする意識を強くし、忌避させたのだ。
それを考えると、今回の戦いで彼らが一般的な戦争の勝利を目指していないことも理解できる話であるように思えた。
「さて、私たちからお話しすべきことはこれですべてです」
そんなルクァイヤッドの穏やかな声にルースは我に返る。
彼は慌てて大柄な堅木の民の医者にうなずいてみせた。
それににこりと笑みを返し、ルクァイヤッドは「ここで話をまとめておきましょう」と言って指を二本立て、再び話を始める。
「私たちの戦いの目的は二つ。一つは戦いに乗じて、どこかに封印されている王を奪還すること。これは相手の変異種狩りの領主が王との契約を破り、戦を仕掛けてきた時点で契約は無効となるという判断によるもので、戦いをしかけてくるなら、こちらも王を奪われたままにしておく必要はない、という理論です。まだ宣戦布告はされていませんが、戦いになるのはおそらく避けられないでしょう」
そう言うとルクァイヤッドは、立てていた二本の指のうちの一本を折ってさらに言葉を続けた。
「もう一つの目的は、とにかく月夜の民が滅びないことです。我々にも生きる権利はありますからね。そして、その二つの目的を叶えるために私たちが採る戦いの方針は、可能な限り戦いを長引かせて王を取り戻す時間を稼ぎ、敵を消耗させること。そのために必要な魔力資源や資金を提供してくださるルース様には、決して危険が及ばないよう細心の注意を払いつつ、随時報告を送らせていただくつもりです。ルース様への見返りは、王が戻られた場合はルース様の望まれる優先的な商取引の確約。王が戻られず、我々がこの世界の歴史の表舞台から姿を消すということになった場合は、これまで月夜の民が人間からお預かりしていた土地をお譲りします。その二つに関する参考資料が、今ご覧になっている書類となります」
立てたままの指でルースの持つ紙束を指し示し、ルクァイヤッドは「以上が私から申し上げるべきことですが、何かご質問はありますか? 他の人も、何かルース様にお伝えしておきたいことは?」と言って一同を見回すように首を回した。
その言葉に声を発する者はない。
ルースが様子をうかがうようにエンリェードの方を見たが、彼も口を閉ざしたまま何も言うことはなかった。
それにルースは小さく息をつく。
それから改めて手の中にある書類に視線を落とし、しばらくその内容を確認していた彼は、やがて緊張した面持ちで顔を上げて言った。
「対価はこれで構わない」
「それは何よりです。では、これで取引をしていただけるということでよろしいでしょうか?」
「ああ。だが、私から一つ条件がある」
そのルースの言葉を聞いて、月夜の民たちは一様に不思議そうな表情を浮かべて彼を見やる。
「何でしょうか?」
穏やかに尋ねるルクァイヤッドにルースはすぐには答えず、再びちらとエンリェードの方へ視線を向けた。そして意を決したように告げる。
「私も戦場に同行させて欲しい」