1 招集
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エンリェードのもとにその手紙が届いたのは、彼が魔術学院を出て数年経った頃のことだ。生まれ育った領地を出てからは、もう何十年と経つ。
今さらこの名前を目にすることがあるとは、と思いながら、エンリェードは血の気のない白い指先で封筒に書かれた宛名の文字をなぞった。『黒狼公』という単語の隣につづられている名は彼のものではなく、今は亡き父親の名前だ。
月夜の民であった父、黒狼公の領地を現在治めているのはエンリェードの異母姉の一族だが、姉自身をはじめ、彼女の娘や孫も月夜の民の血は薄いと聞く。すでに他界した異母兄も月夜の民の血こそ引いていたものの、その特質を持っていたわけではなく、死ぬべき定めの下に生まれた『人間』だった。
父親と同じ特質を受け継ぎ、魔力を食らっている限りは寿命が尽きることのない変異種――月夜の民として生まれたのは、兄弟の中でただ一人、エンリェードだけだ。
だからこの手紙は今自分の手元にあるのだろう、とエンリェードは思う。
手紙の差出人は、月夜の民を束ねる王の名代だった。王自身は月夜の民の殲滅を望む人間の領主との契約で、何年も前に封印されたままだ。彼を取り戻すことが多くの月夜の民の願いであり、名代が目下の目標にしていることでもある。
それを考えると、月夜の民の『黒狼公』宛てに届いた手紙の内容は、中を読まずともおおむね察しがつくというものだろう。だから姉は、領地からはるか遠い人間の街でひっそりと暮らしているエンリェードの下へ、わざわざその未開封の手紙を届けたに違いない。
手紙の内容が何であれ、『黒狼公』としての判断はエンリェードに一任する、というのが姉からの伝言だ。姉一族からの使いはそれだけを伝え、押し付けるように手紙を渡すと、もはやそれ以上告げるべきことも、関わるつもりもないといった様子でさっさと帰ってしまった。
それが数日前のことだ。
エンリェードは小さく息をつき、手紙を懐にしまうと、部屋の中をぼんやりとした青白い光で照らしている魔鉱ランプの明かりを消した。そしておもむろに窓に歩み寄り、それを開け放つ。
春とはいえ、ひやりとした寒気をはらむ夜の風が音もなく吹き込み、エンリェードの闇に溶けるような黒髪を揺らした。
もうここですべきことはない、と彼は心の中で呟く。ただ一人の友人であり、恋人である彼女との別れもすませた。大家に退居の知らせもしたし、ここに戻ることは二度とないだろう。
エンリェードは魔術師用の杖を持って窓枠に手をかけ、外へと身を乗り出すと、瞬く間にコウモリへと姿を変え、そのまま夜の来る方、深い闇の中へと消えていった。
「まさか黒狼公のご子息が来てくださるとは」
そう言って砦の門の前でエンリェードを歓迎したのは、比較的長身な彼よりも頭一つ分は背が高く、がっしりとした体格の、理知的な目をした男だった。巨人族と呼ばれることもある堅木の民の血を引く彼は、一見無骨にも思えるその風貌からは想像しがたい知性派の参謀であり、軍医としても知られている。月夜の民をまとめていた男がまだ王と呼ばれていなかったころからそばで支え、王不在の現在もその名代として指揮官を務めている忠臣だ。
「お会いできて光栄です、ドクター・ルクァイヤッド」
エンリェードがそう言って会釈すると、医師は小さな感嘆の声をあげた。
「黒狼公――父君によく似ていらっしゃる。彼のまとう空気はもう少し猛々しい感じではありましたが、一瞬、戦友が戻ったのかと思いましたよ」
「残念ながら、私は父ほど腕が立つわけではありません。この要請状にある通り、本来なら戦力となる兵も連れて参戦する盟約でしたが、その兵もなく、私一人が馳せ参じるのみとなってしまいました」
エンリェードは姉経由で届いた件の手紙を懐から取り出し、その宛名の文字に視線を落としながら申し訳なさそうに言う。
しかし、ルクァイヤッドはそれにゆっくりと首を振って応えた。
「父君が亡くなられたことは存じております。かつて黒狼公が他の諸侯と共に陛下と交わしたこの盟約――陛下の窮地の際にはその名の下にすべての兵を従えて参じ、命を賭して戦うというこの約束を、ついに果たしていただく時が来たと要請状を送らせはしましたが、正直なところ、おそらく参戦はされないだろうと諦めていたくらいなのです。ですから、ここにこうして来てくださったことがどれほど心強いか……黒狼公は確かに盟約を守られました」
大柄な医師は深い感謝の念を込めてそう言い、エンリェードを門の中へと招き入れる。
月夜の民が住む土地であるこの地の領主の館は高い石壁と頑丈な鉄門に守られ、まさに砦のような様相だ。裏手は海となっており、崖の上に築かれたこの館に攻め込むのは、翼を持たない人間には難しい。コウモリのような空を飛ぶ生き物に姿を変えたり、自分の背に魔力の翼を持つ月夜の民だからこそ住める場所と言えるだろう。
しかし、徐々に迫る夕暮れの赤に染まりゆく館はどこか物悲しく、がらんとした敷地内はうつろに見えた。前庭の一角には的がいくつか並ぶ弓の練習場があるが、そこも今は人影がなく、立てかけられた弓だけが寂しげにたたずんでいる。
ここの主である月夜の民の王は五年ほど前、ここを月夜の民の安息の地とするために人間の領主と契約を交わし、この地の平和と安全の代償として封印されて以降、帰還は叶っていない。
王はいずことも知れぬ場所に囚われ、しかし、件の領主は契約を無視してこの地への侵略――彼らは奪還だと主張しているが――を図り、兵を集めている。
それに対抗すべく、月夜の民の名代を務めるルクァイヤッドは、黒狼公をはじめとする各地の同胞たちに参戦の要請状を送ったのだった。
「これほど早く駆けつけてくださったことにも感謝します。何しろこちらは人手が不足しているもので、戦に備えて仕事が山積みなのです。せめて館の案内くらいはゆっくりとして差し上げたいのですが……」
「その役、私に譲ってはくれないか、ドクター・ルクァイヤッド」
突然、若い男の声が二人の会話に割って入った。
声のした方を振り向くと、腰に剣を佩いた流枝の民の青年が大股で彼らの方へとやってくるのが見える。その姿を認め、ルクァイヤッドは驚いた顔で青年に言った。
「フィンレー卿、その提案はもちろん歓迎ですが、今までどこにいらしたんですか? さっきあなたの妻を名乗る方がお見えで、探していらっしゃったようですが」
「防壁の上から見ていたんだ。勝手に結婚したつもりでいる、過去の女に捕まりたくなくてね。それより、黒狼公のご子息だって?」
「エンリェードです」
流れるように向けられた視線を真っ直ぐに受け止め、エンリェードが名乗ると、青年は人懐っこい笑みを浮かべてみせた。
「お会いできて光栄だ、エンリェード卿。あなたの父上である黒狼公は私の憧れでね。陛下から前任の黒狼公がいかに優れた戦士であったかを幾度となく聞いたが、私は何度彼の話を耳にしても飽きたことがなかったくらいだ」
「前任……ということは、あなたが……」
「あなたの父君が去られたあと、陛下の右腕として近衛騎士を務めているフィンレーだ。いや、正確には『務めていた』と過去形で言うべきか。主なき今となってはね」
そう言って若き騎士は冗談めかした大仰な身振りで肩をすくめてみせる。
そんな彼を穏やかに見下ろし、ルクァイヤッドは少し申し訳なさそうな語調で言った。
「フィンレー卿、それではすみませんが、お言葉に甘えてここはお任せします。エンリェード卿、のちほど他の者たちもご紹介しますので、今は館の中で旅の疲れを癒してください」
「ありがとう」
「では、失礼」
ルクァイヤッドは二人に会釈すると、忙しそうに早足でその場を去っていった。
その後ろ姿を見送りながら、フィンレーが隣に立つエンリェードに「彼はまれに見る働き者だろう?」と声をかける。
「真面目で知られる堅木の民だから、というのもあるかもしれないが。稀少度で言えば、そもそも堅木の民は変異種である月夜の民の中では非常に珍しいしな。私はこれまで多くの月夜の民に会ったが、堅木の民の血を引く者は彼しか知らない。変異するのは大体、妖精族か流枝の民だ」
そこまで言うとフィンレーはエンリェードの方へ向き直り、先端が細く長い特徴的な彼の耳を見ながら、どこか懐かしいものでも見るような面持ちで言葉を続けた。
「あなたも妖精族系だな。父君と同じく、妖精族には珍しい黒髪、目元は……母上譲りでいらっしゃる」
「私の両親をご存知なのですか」
わずかに驚きの色を浮かべて尋ねるエンリェードにフィンレーはにこりと笑みを一つ浮かべると、「あなたにお見せしたいものがある」と言い、先に立って館の中へと入っていった。エンリェードも黙ってそれに従う。
領主の館を案内するフィンレーが最後にエンリェードを連れていったのは、ちょっとした図書館さながらの蔵書量を誇る立派な書斎だった。
部屋の四方の壁は暖炉を囲むようにして本棚で埋め尽くされており、そのすべてに本がぎっしりと詰まっている。窓の下に置かれた机の上にも本が積み上げられ、書物による支配が及んでいない場所といえば、床と天井を除けば暖炉の上くらいのものだ。
唯一壁が露出している暖炉の上部には一枚の絵が飾られていた。
「先ほど、あなたにお見せしたいと言っていたものはこれだ」
フィンレーは絵の前に立ち、エンリェードを振り返って言った。
「あなたのご両親だよ。素晴らしい出来だろう? この館には多くの絵が飾られているが、その中でも私はこの絵が一番好きなんだ」
「私の両親の絵が何故ここに?」
月夜の民特有の赤い目をわずかに見開き、エンリェードが尋ねる。
フィンレーはそれに「陛下があなたの父上の二度目の結婚祝いに贈ったそうだが、奥方が亡くなられてからは見るのがつらいからというので、こちらに移されたらしい」と答えた。
そして隣に立って絵を食い入るように見つめているエンリェードと、そこに描かれた二人の男女を交互に見やる。額縁の中で寄り添うように並ぶ黒髪の妖精族の男性と銀髪の妖精族の女性には、確かにエンリェードと面差しが似たところがあった。
エンリェードの母親も月夜の民の血を半分だけ引いた妖精族で、月夜の民特有の赤い瞳と血の気の欠けた肌の色をしている。男女共に中性的で華奢な体格の者が多い妖精族にはもともと外見上の性差が少なく、個性に欠ける端正な顔立ちをしていることもあって、絵の中の二人とエンリェードはなおさらよく似ているように思えた。
「……初めて母の顔を見ました」
独り言のようにぽつりとエンリェードが呟く。
それを聞いてフィンレーは一瞬意外そうな表情を浮かべ、それから得心したように「そうか」と言った。
「あなたの母上は、あなたの弟か妹となる赤ん坊と共に亡くなられて――そのころのあなたはまだ幼かったのだったな」
「私が妖精族ではなく流枝の民の血を引いていれば、顔くらいは覚えていたかもしれません」
「妖精族はすべての人種の中で、一番成長速度がゆっくりだと聞く。覚えていらっしゃらなくても無理はない」
フィンレーはそう言って、なぐさめるようにエンリェードの肩を軽く叩いた。
エンリェードは首を回らせ、若い流枝の民の騎士の顔を見返す。
「あなたは私の両親に会ったことが?」
「いや、絵で存じ上げているだけだよ。あなたのご両親がご存命だったころは、私は生まれてもいないのでね」
その返答にエンリェードは無言の視線だけを騎士に向けた。
フィンレーの目は澄んだ空のように青く、肌の色も血の気を帯びて生き生きとして見える。
病人のように血色を欠いた月夜の民の肌は日光に弱く、それゆえに夜に活動する者が多いことから月夜の民と呼ばれるが、フィンレーはその肌の色からしても、魔力の宿った赤い目をしていないことからしても、明らかに普通の人間――変異していない流枝の民に見えた。
「月夜の民でもない私が何故ここにいるのか、不思議にお思いだろう」
エンリェードの心の内を読み取ったかのようにフィンレーが尋ねる。
生きるために魔力を必要とする月夜の民は現在、魔力の結晶である魔石や、魔石を加工して生成される魔力薬といった魔力資源から主に生命力を得ており、血を介して他人から魔力を奪うということはほぼない。だが、それでもなお人間とは異質な存在として忌避されているのが現状だ。吸血鬼と呼ばれ、恐れられた時代から続く彼らに対する恐怖と偏見は根強く、人類ばかりかあらゆる生物の敵だとして嫌う者も未だ少なくない。
そんな中で、月夜の民に協力的な人間というのは非常にまれな存在であると言える。ましてやそんな普通の人間が月夜の民の王の近衛騎士を務めるなど、前代未聞だ。
エンリェードはフィンレーに一つうなずき、「変異種ではないただの人間が近衛騎士をしているという話は聞き知っていましたが、どういう経緯で月夜の民の側に?」と問い返した。
それに騎士は面白がるような笑みを浮かべてみせる。
「お聞きになりたい?」
「差し支えなければ」
ひかえめにエンリェードがそう応えると、フィンレーは「大した話ではないよ」と前置きしつつも、戸惑いのないなめらかな語調で話し始めた。
「うちはもともと、騎士の家系でね。そこそこの名誉と金があったもんだから、ある日幼い三男坊が誘拐された。もちろん相手の目当ては金だったわけだが、そいつは実に運のないやつで、当時近くを周遊していた月夜の民の王に出くわし、あっさりと人質の子供を奪われてしまったのさ。月夜の民の王は親切にその子供を家に帰してやろうとしたが、子供の両親は恩人が月夜の民の王と呼ばれる男と知り、臆病風を吹かせた。自分の子供が変異種にされたかもしれない、あるいはそうでなかったとしても、変異種の王に恩を受けては、変異種狩りで有名な領主に人類の裏切者として目を付けられるかもしれない、とね。そこで両親は、三男を死んだものとして返還を拒否した。そして行き場のなくなった子供は月夜の民の王に育てられ、彼の近衛騎士になったというわけだ」
まるでおとぎ話でも口にするような、どこか他人事のような話し方でそこまで語ると、フィンレーは反応をうかがうようにエンリェードに目を向ける。
それに対し彼は数秒の沈黙のあと、「あなたにとってそれが良い運命であったのならいいのですが」と言った。
それを聞いて騎士は快活に声をあげて笑う。
「あなたは慎重だな、エンリェード卿。いや、賢明か、それとも優しいと申し上げるべきか? もちろん良い運命だったとも。そうでなければ、私は今ここにこうしていないだろう。確かに両親が案じたように、月夜の民には人を従わせる力がある。血を奪われた者は眷族となり、解放されるまで下僕になるなんて噂も。だから私が月夜の民の傀儡となって戻ってくると恐れたのも無理はない。実際にそんな風に人間を支配した者も過去にはいたかもしれないし、噂の真偽までは私は知らないが、たとえ本当だとしても関係ない。少なくとも陛下がそんな卑劣なことをするわけがないからだ」
フィンレーはそう言うと大仰に両手を広げ、一呼吸はさむと、吟遊詩人のような口調で「かくして」とさらに言葉を続けた。
「数奇な運命の三男坊は月夜の民の王に従う騎士となり、今は主を失ったが、ここにきて憧れだった黒狼公のご子息に出会う幸運にも恵まれたというわけだ。種族は違うが同じ王の名の下、共に戦う友となったのだから堅苦しい言葉遣いはもう必要ないよな? 君も俺のことはフィンレー卿などと呼ばずに、ただフィンレーと呼んでくれ」
「……あなたがお望みなら」
エンリェードの返答に騎士は満足そうにうなずく。
明るい夏の日差しを思わせる金色の髪に血の通った肌の色を持つフィンレーは、冬の夜に落ちる闇の帳のような黒髪と、月のように白い肌を持つエンリェードとはまったく見た目が違うにも関わらず、彼に対してまるで家族であるかのような親し気な口調でさらに続けた。
「俺は君とは近しいものを感じているんだ。俺は人間の両親に見捨てられ、月夜の民に育てられた異端児。そして君は自ら変異したのではなく、月夜の民の親を持ち、その特質を引き継いで生まれた稀な子供だ。月夜の民の親から月夜の民の子供が生まれるのは、数百年に一度くらいだと聞く。そんな君を産んだ母君は早くに亡くなられたため、幼かった君を育てたのは三番目の奥方で、流枝の民の女性――だろう? つまり、我々はお互いに自分とは種族の異なる親に育てられたというわけだ」
「何故そんなに私のことに詳しい?」
「陛下から聞いたんだ。黒狼公がご自分の領地に去られてからも、何度か手紙のやり取りがあったらしくてね。それで月夜の民の血を引く、黒狼公の正当な後継者とでも言うべき君が生まれたことも聞き知った。それで俺は勝手に君に共感していたんだよ。境遇に似たところがある気がしてね」
誰にも話した覚えのない自分のことを、会ったばかりの青年がやけに詳しく知っていることに疑問を持った様子のエンリェードに対し、フィンレーはいささか自嘲気味に笑って肩をすくめてみせる。
そして彼は自分でも言い訳がましいと思いつつも、どこか独り言のように心の内を口にした。
「実のところ、俺も自分の親の顔はあまりはっきりと覚えていないんだ。別に恨んじゃいないが、思い出したいとは思わないし、会いに行こうとも思わない。会いたくてももうご両親に会えない君とは状況が少し違うだろうが……どうにも君には自分を投影してしまう。俺にはあまり、自分につながるものが周りになかったせいかな」
「……」
そんなフィンレーの言葉に、エンリェードはただ沈黙のみを返した。しかしそれは返す言葉に困ったからではなく、理解ある寛容の沈黙であったと言える。彼にもフィンレーの気持ちが判る気がしたからだ。
二人はどちらからともなく視線を暖炉の上の絵画の方へと移し、それを眺める。
繊細な筆で描かれた美しい油絵の表面には、劣化と汚れを防ぐ魔力薬製の仕上げ剤が薄く塗られており、魔力薬の持つかすかな青みを帯びた神秘的な光沢を放っていた。それはとどまることを知らない時の流れの中で、決して変わることのない『永遠』の象徴であるかのようにも見えたが、その絵に描かれた人物は二人とももはやこの世にいないというのが皮肉にも思える。
主のいない館も、今は亡き二人の妖精族を描いた絵も、この領地にあるものはすべて形だけのからっぽなものばかりだ。それはフィンレーもルクァイヤッドも、ここに来たばかりのエンリェードでさえ判っている。
だが、それでもフィンレーは落ち着いた声音ではっきりと言った。
「育ての親も封印されてしまった。どうせあの変異種嫌いの領主が契約など守るわけがないと止めたんだが、聞き入れてもらえなくてね。陛下と意見を異にして言い合いをしたのは、あれが最初で最後だよ。案の定、俺の言った通りになってしまった。だが、ルクァイヤッドは徹底抗戦することを決断してくれたし、君も駆けつけてくれた。我らが王を取り戻す機会が与えられた今、俺にもまだ生きる意味がある」
その言葉にエンリェードは再びフィンレーの方へ顔を向け、静かに尋ねる。
「……本当に取り戻せると?」
「君は利口だな、エンリェード」
フィンレーはそう言って微笑み、エンリェードに体ごと向き直ると、険しい表情を浮かべて言った。
「どれほどの者が召集に応じるかわからないが、全員が参戦したとしても不利には違いない」
「数は?」
エンリェードも真剣な面持ちでうなずき、フィンレーに問いを重ねる。
彼らは絵画に背を向け書斎を出ると、並んで廊下を歩きながら話を続けた。
「敵は推定では四百。開戦する頃には少なくとも倍になっているだろう。対するこちらは三桁に届くかどうか、というところだ」
廊下の先を真っ直ぐに見据えながらフィンレーが言う。
「普通の人間同士の争いなら、半日もあれば決着の付く人数差と規模だ。月夜の民がいくら百人力とはいえ、とても有利とは呼べない。しかも、もともと数が少ない月夜の民と違って、相手はいくらでも増援を得られる」
「資金が続く限りは」
そう付け足したエンリェードに若い騎士はにやりと笑いかける。
「その通り! 我々の勝機はそこにかかっていると俺たちは見ている。傭兵稼業の者は結構いるが、需要があると判ればその値はどんどんつり上がり、人が増えるほどその分の費用もかさむ。しかも戦況が芳しくないとなれば、参戦を断る者も出てくるだろう。増援を用意するのが難しくなり、最初の勢いは衰える。そこまでもたせれば、勝機はなくともひどい負け方はしないはずだ」
「秋まで長引かせれば、いかに変異種狩りに熱心な領主も収穫と冬支度のために領地に戻らなければいけなくなる。それは彼に追従する他の領主や権力者も同様だ。たとえ件の領主が一人で粘っても、多くの者は帰りたがるだろう」
「そう、そしてこちらは冬支度など関係ない――少なくとも月夜の民は」
そう言ってフィンレーは隣を歩くエンリェードの方へ顔を向けると、興味深そうな表情を浮かべて「君は話が早そうだ」と言った。
「戦の経験が?」
「いや、父の書斎にあった本と、盤上遊技の経験で得た知識くらいのものだ」
「盤上遊技? チェスのことか」
初耳だという様子で尋ね返すフィンレーに視線を向け、エンリェードは首を振って答えを返した。
「チェスに天候や地形の効果、兵糧、資金、視界情報の要素などを加えた、より実戦に近い条件下で戦略を競うものだ。まだ生まれて間もない遊技だが、軍学の講義に採用しているところもある」
「なるほど、学問に無縁の俺が知るはずもないな」
フィンレーはため息混じりに言い、肩をすくめてみせる。
それに対し、エンリェードは「実戦に勝るものはない。座学のみの知識しかない私など、何も知らないのと同様だ」と静かな語調で応えた。
フィンレーの口振りからして、彼には戦の経験があるのだろうとエンリェードは考える。実際、月夜の民の王が封印される前にも、彼らは変異種狩りの領主と小競り合いじみたことを何度か行っている。それに決着を付けるための王の封印だったはずだが、皮肉にもそれが全面戦争を決定づけてしまったようなものだ。
その過去の戦いにフィンレーが加わっていたなら、おそらく彼はその時、まだ十代の少年だっただろう。そんなころから実戦の経験を積んでいる彼と、歴史と魔術の勉学にばかり勤しんできたエンリェードでは、戦に関する知識など比べようもないと思われた。
しかし、フィンレーは再びエンリェードに目を向け、「そうでもないな」と面白がるような口調で言う。
「君は確かに実戦を知らないだろうが、戦の仕組みは理解していると見た。先人の言葉も、過去の経験も価値がある。それを活かす頭がないなら何の意味もないが、君はそうではないだろう。人が戦う理由の多くは名誉のためでなく利害、真に勝敗を決めるのは戦力ではなく戦術だ。ただ正面から殴り合うだけが戦争じゃない。兵を養う物資、それを運ぶ馬車、当然それらを用意する費用もかかる。大軍を動かすなら、通れる道も選ばなければならない。そういったことをきちんと理解している人材は有用だ。腕が立てばそれだけで勝てると思っている連中よりもはるかにな」
「そういった者が英雄になる。自分の腕と勝利を信じて戦い、実際にそれをつかみ取れる者こそが英雄だ」
エンリェードは淡々とした声音でそう応える。
しかしそのあとに彼は一言、呟くように言葉を足した。
「だが私は英雄になりに来たわけじゃない」
フィンレーは窓から差し込む夕焼けの残り火のような、かすかな赤に照らされたエンリェードの顔を見返し、小さく息をつく。
そして「そうだな」と言って首肯した。
「我々の大半がそうだろう。ここに集うのは世にも珍しい、負け戦と承知で、利害も損得も度外視した者たちばかりだから」
「月夜の民の存亡がかかっている」
「そうだ。今戦わなければ、おそらく月夜の民に未来などないだろう。王もいない今、もはや守るべきは月夜の民自身の命くらいのものだ」
この館も領地も、住む者がいなければ守ったところで何も意味はないと彼らにはわかっていた。彼らにはもう自分たち以外に何もないのだ。
「だが、失うものがない者は、戦略でへまをしなければ強い」
穏やかに、しかし強い意志のこもる音吐でフィンレーは言う。エンリェードは彼の横顔を見やり、黙然とうなずいた。
その時、彼らの向かう廊下の先からコウモリが一匹飛んできたかと思うと、若い女の声で「フィン!」と声を上げる。
そして次の瞬間にそのコウモリは二人の目の前で女の姿に変わった。
「ここにいたのね」
「レディ・ユーニス、また館内を飛び回っているのか? イドラス卿に叱られるぞ」
いつものことなのか、フィンレーは驚くどころか少しあきれた口調で言う。
しかし、ユーニスと呼ばれた女は明るい茶色の髪を揺らし、まったく意に介していない様子で不敵に笑って彼に応えた。
「今日は大目に見てくれるわよ、急いであなたを呼びに来たんだから。それに、エンリェード卿もね」
「何かあったのか?」
「あの商人がまた来たの。本気みたい。みんな食堂にいるわ」
それだけ言うとユーニスは再びコウモリに姿を変え、来た方へと戻っていく。
それを見送り、フィンレーはエンリェードに目を向けると、「行こう」と言って足早に歩き出した。エンリェードもそれに黙ったまま従う。
「ちょうど君に話そうと思っていたところだった。人間の商人が一人、我々に協力を申し出て来ているんだ。魔石や魔力薬、資金の提供をするかわりに、今後も月夜の民と優先的に商取引をしたいと」
「……真意は?」
「わからん。本当に月夜の民とは縁もゆかりもない、ただの流枝の民の少年だ。商人をしている月夜の民の仲間が調べた話では、父親が名の知られた商人で、これまで父親と共に稼いだ金を元手に一商人として独り立ちするつもりらしい。そこで、生きるために魔力を必要とする月夜の民を魔力資源の市場における新たな上客として目を付け、継続的な取引を求めて声をかけてきた、ということのようだが……吸血鬼だの人類の敵だの言われている月夜の民に自ら商売を持ちかけるなんて、よほどのバカか変わり者だろう」
「だが、それが本当なら我々には願ってもない話だ」
エンリェードの言葉にフィンレーは真剣な面持ちでうなずき、「バカか変わり者か、それとも俺たちの救世主となるか、彼の顔を見に行こうじゃないか」と言った。