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9 裏切り

「死神だ……!」

 セント・クロスフィールド軍の兵士たちが一様に恐怖と憎しみの色をその目に浮かべ、吐き捨てるように唸る。

 月夜の民最後の砦たる領主の館、その上方にかかるやけに青ざめた太陽を背に、一つの黒い影が浮かんでいた。ひやりとした朝の気配をわずかに残した風になでられ、その痩身にまとった黒い外套がひるがえる闇夜のごとくはためいている。

 遮光用の外套に付いたフードが細い人影の血の気に欠けた白い顔を隠しているが、背にある三対の翼はそれが何者であるかをありありと語っていた。フードの下から覗く一本の角とその手に持った大鎌も、この数か月のあいだ刃を交えてきた兵士たちには見覚えのあるものだ。

「吸血鬼なんてものじゃない、やはりあれは悪魔か死神だったんだ」

 六翼の悪魔。月夜の民の死神。戦場でエンリェードは、セント・クロスフィールド軍の者たちからそんな風に呼ばれるようになっていた。

 その彼が上空から見下ろす視線の先――領主の館をぐるりと取り囲む高い石壁の外では、セント・クロスフィールド軍の兵士たちが戦いをくり広げている。

 彼らが戦っている相手は、外壁にしつらえられた門を召喚門としてエンリェードが呼び出した死霊たちだ。死してなお安息を得ることも叶わず、生死の境をさまよい歩く亡者の群れである。

 それはエンリェードが主従関係に近い召喚契約を交わしている者たちというわけではなく、生死の狭間にいる死霊たちの領域に展開された生者の世界とをつなぐ召喚門をくぐり、この場に流れ出ただけの存在にすぎない。そのため、彼らはエンリェードの指揮下にあるわけでもなく、自分にはない命の炎を宿した眼前の生者たちに本能的に襲い掛かっているだけだった。

 現世とは異なる領域、この場合は死者の領域にほぼ無条件で死者が通れる召喚門を開くというのは、屍学、召喚学両方の深い知識があって初めて行使できる高度な召喚術だが、召喚主の制御が利かない、あるいは制御することを意図的に放棄した召喚を行うことは魔術を使う上で罪とされているため、禁術に近い。

 しかも死霊は日光に弱いため、日の下に召喚された死霊たちは放っておいてもいずれ帰還するか消滅する運命だ。残っていた携行魔術装置を使って館の上方に日光を遮る霧をかけてはいるものの、魔術装置の魔力が枯渇したり故障すればそれまでの、彼らは言わば使い捨ての雑兵扱いである。

 召喚門をくぐったのは彼らの意思だが、そもそもほとんど理性が残されていない死霊たちが何らかの救いを求め、許されない死と焦がれる生の狭間から這い出てくるのは当然のことだ。そんな救いなき者たちの魂を成仏させるでもなく白日の下で焼き、消滅に追いやる可能性のある召喚など禁忌中の禁忌でしかない。

 現世に留まるだけの力を失って死者の領域に帰還した死霊たちも、今は閉ざされている召喚門が再び開けばまた這い出して来るのは明白だった。

「悪魔と言われるのも道理だな」

 心の中でエンリェードは呟き、魔力を帯びて赤く輝く目を眼下に向ける。

 今日の午前中に、セント・クロスフィールド軍が駐屯している隣の領地で停戦協定が結ばれることになっていたが、月夜の民の陣営にいる全員が推測した通り、セント・クロスフィールド公は協定の時間と同時にこの館の襲撃を開始した。兵士の数は推定で五百を超えている。

 そして、襲撃の知らせが協定の場に届く前にセント・クロスフィールド公は停戦協定に出席している月夜の民の王の名代であるルクァイヤッド、総指揮官のイドラス、彼らの補佐を務めるナルロスたち三人を滅そうとするだろう。

 彼らが協定の場を脱し、追手から逃れる時間を稼がなければならない。

 そのためには、たった今領主の館を襲撃している最中のセント・クロスフィールド軍の兵たちをこの場にとどめ、追跡に人員を割かせないようにする必要がある。

 その役を買って出たのがエンリェードだ。たとえ禁を犯し悪魔とそしられようとも、彼はその任を果たすためなら何一つためらうつもりも手を止めるつもりもなかった。

 しかし、数百の兵士を抑えるには死霊の兵たちだけでは足りない。

 エンリェードはまばらに飛んでくる銀の矢をかわしながら、次なる召喚術の詠唱を始める。

「勝手に撃つな、矢の無駄だ!」

 空中にいるエンリェードめがけて矢を放っていた兵士たちにそう叫び、セント・クロスフィールド軍の一部隊の指揮を執る者が号令をかけた。

「逃げ場がないよう、一斉掃射する! 我が第二隊、盾を持つ者は前方で死霊どもを弾け! 後衛は整列、弓を構えろ!」

 指揮官の怒号が飛び、兵士たちは群がる死霊を振り払って盾や弓を各々構え、配置につく。

 その様子を後目に、セント・クロスフィールド軍の魔術師が呟いた。

「矢をかわしながらも詠唱が途切れないとは……実戦慣れしている者か、魔術の熟練者だぞ」

「死霊を何体も召喚している時点で、真っ当な奴じゃないのは明白だろう」

 苦々しい口調で指揮官が応じ、上空のエンリェードを睨む。

「放て!」

 セント・クロスフィールド軍第二隊の指揮官の号令と同時にエンリェードの詠唱が終わり、空間が裂ける。

 日中であるにもかかわらず空には夜の闇より深く暗い漆黒がまたたく間に広がり、そこから大きな翼と巨躯がずるりと這い出した。それに次いで骨だけとなった長い尾が現れる。その全身は露出した白い骨と腐肉ばかりの無惨なものであったが、間違いなくドラゴンと呼ばれるものの姿をしていた。

「まさか、光の時代の終焉を待って眠りについたと言われるドラゴンに、永遠の眠りを奪われた者がいるとは驚きだ。あれも生ける屍だぞ」

「どこまでもおぞましい死霊使いめ」

 驚嘆とも呆れともつかない声音で言う魔術師の言葉も、指揮官の吐き捨てるような侮蔑の声も、数本の銀の矢に魔力の翼を射抜かれて地に落ちるエンリェードの耳には届かなかった。

 館の前庭に落下したエンリェードは苦しげにうめき声を発しながら身を起こし、銀の矢でいくらか破れ、穴の開いた翼を引っ込める。幸い、翼を射貫いた矢以外は手足をかすめた程度で、体に大きな損傷はなかった。戦いが長引いたせいで毒が尽きたのか、矢に何も塗られていなかったのも幸運だと言える。

 大鎌を支えにして立ち上がったエンリェードは、激しい戦いの音が続く外壁の方へ視線を投げた。

 焼けるような怨嗟をはらんだドラゴンの咆哮と、セント・クロスフィールド軍の兵士たちの悲鳴が響き渡っている。

 死霊と化しているとはいえ、さすがにドラゴンが相手となれば五百を超える兵たちも簡単には突破できないだろう。ボロボロになった剣や槍を振り回している死霊の兵たちも未だ戦いの渦中にある。彼らに戦場を委ね、エンリェード自身の脱出をはかるならこの混乱に乗じるのが一番だと思われた。

 しかし、日はこれからますます高くなり、携行魔術装置に仕掛けた日除けの霧もいずれは晴れる。しかもセント・クロスフィールド軍は死霊にも効く銀の矢を装備しているのだ。その数が現在どれほど残っているかの情報はない。偵察で知り得た最後の数値を元に推測はできるが、それもしょせんは推測にすぎず、この場にいる死霊たちだけで協定の場にいる仲間が逃げおおせるだけの時間を充分に稼げるという確証をエンリェードに与えるには至らなかった。

 ならばもう一度召喚門を開き、ギリギリまで死霊たちを召喚し続けよう。

 エンリェードはそう考え、地に落ちた時に脱げてしまったフードをかぶり直すと、叫び声や剣戟の音、荒々しいドラゴンの声に矢音が混じる阿鼻叫喚のごとき外壁の方へと歩き出す。

 ドラゴンの死霊を呼び出すために、残っていた魔力資源はすべて使い果たしていた。あとはエンリェード自身の魔力が底をつくまで、できることをするだけだ。

「まだ死霊を召喚するつもりか?」

 不意にエンリェードの背後から聞き慣れた――しかし、ここにはいないはずの、そしていつになく堅い声が聞こえた。

 驚いて振り返ったエンリェードの腹部に鋭い痛みが走る。その直前に鼓膜を打ったのも、この戦場では嫌というほど聞いた弩の音。人間が月夜の民に射かける、憎しみと殺意の音だった。

「フィンレー……」

 弩で自分を撃った人間の名を呼び、エンリェードが矢の刺さった腹部を抱えるようにして地面に片膝をつく。

 そんな彼をフィンレーはひどく激しい怒りに満ちた目で見ていた。その手にはセント・クロスフィールド軍が使っている弩が握られている。

 彼はそれに次の矢をつがえたが、引き金を引くかわりにつかつかとエンリェードに歩み寄ると、その襟首をつかんで叫ぶように言った。

「外を見たか? まるで地獄だ!」

 怒気をはらんだ問いにエンリェードは横目で城壁の方を見やり、それからフィンレーに視線を戻すと「上から見た」といつも通りの淡白な言葉を返す。

 もっとも、その声は銀製の矢が体を苛む痛みによって苦しげに響いたが。

 そんな彼の返答に顔をゆがめ、フィンレーはエンリェードから手を放して言う。

「こんなことなら、やはりお前を一人ここに残すんじゃなかった」

 そう言い終わる頃には、フィンレーの表情は今にも泣き出しそうなものに変わっていた。

「召喚術にも屍術にも詳しくない俺でもわかる。お前が相当やばい魔術を使ったんだろうってことはな」

「……ドラゴンのことを言っているなら、あれは正当な召喚契約だから問題ない」

「その言い方だと、他の死霊たちの方は正当じゃなさそうじゃないか」

 フィンレーは苦虫をかみつぶしたような面持ちと声音で言い、エンリェードに再び弩を向けた。

 首元をつかまれた拍子に彼のかぶっていたフードは細い肩の上に落ち、血の気を欠いた白い顔が露わになっている。

 それをまっすぐに睨みながらフィンレーが言葉を継いだ。

「あれはもう、月夜の民と人間の戦いじゃない。戦争なんてものですらないだろう。お前もわかっているはずだ。だから……死にたくなかったら死霊たちを引っ込めろ」

「断る」

 エンリェードの返答は短い。しかし、そこには断固として譲るつもりはないという強い意志が感じられた。

 フィンレーはそんなエンリェードの真意を探るように、彼を険しい表情で見つめる。

 エンリェードがこの館に来た日、手合わせのあとに自分は死に惹かれるのだとエンリェードが言っていたことをフィンレーは思い出していた。その時、エンリェードは死にたいのだろうか、という疑問を持ったことをフィンレーは覚えている。

 もしそのつもりでエンリェードがこの戦争に参加し、今ここに残って死霊たちと共に果てるつもりでいるなら、フィンレーの「死にたくなかったら」などという脅しは何の意味もないに等しい。

「……お前は死にたいのか?」

「別に。ただ、仲間を死なせたくないだけだ」

 フィンレーの問いとも脅迫ともつかない言葉に、エンリェードは痛みに耐えながらそう応じると、腹に刺さった矢に手をかけて一息にそれを引き抜いた。それと同時に血があふれ出す。

 セント・クロスフィールド軍の使う弩の矢は太く、矢尻も大きいため傷口は大きい。

 だが、それでも銀製の矢を抜かないよりはましだった。月夜の民にとって銀の武器は危険だ。心臓や脳のような急所なら、当たれば一撃で灰になる。そうでなくても銀は触れているだけで彼らの体を焼き、自己再生を妨げるのだから。

 傷口をそっと押さえる、血の気のないエンリェードの白く長い指の間からボタボタと赤い雫がこぼれる。

 その次の瞬間、がしゃりと弩が音をたてて地面に落ち、フィンレーがエンリェードに手を伸ばした。傷を押さえているのとは反対の腕を取り、担ぐようにしてエンリェードを立たせる。

「君は……」

 何をしているんだ、何をしに来たんだと問おうとしたエンリェードの言葉を待たず、フィンレーは「時間稼ぎはもう充分だ」と言って彼を支えながら歩き出した。

 その言葉にエンリェードは戸惑いの表情を浮かべ、すぐ横にあるフィンレーの顔を怪訝そうに見やる。

「私を殺しに来たんじゃないのか?」

「そのつもりなら、お前のことを見捨ててさっさと自分だけ逃げていたよ」

「しかし……」

 傷のせいもあるのか頭の整理が追い付かず、困惑したままのエンリェードにフィンレーは前を向いたまま「逃げるぞ」と呟くように言った。

 それから一瞬のためらいにも似た沈黙のあと、独り言のように言葉を続ける。

「お前がここで死ぬつもりなら、半殺しにしてでも無理やり連れて逃げようと考えていた。しかし、まさかこんなことになっているとはな。お前が戦場に残って敵を引き付ける役を買って出たと聞いた時、俺たちと戦っていたあいだは一度も使わなかった召喚術を使うつもりなんだろうと察しはついたが……外壁の門から死霊たちがぞろぞろと出てくるのを見て、お前が何故これまで一度も召喚術を使わなかったのかを理解した。死霊たちは敵味方関係なく、目についた者を襲っているだけのようだから、俺たちがいたら巻き込まれていただろうし……外の光景はまるで光の時代が終わり、闇の時代が訪れる時、常闇の国から死者が帰還して闇の軍勢たちと共に地上を滅ぼす、なんていう子供の頃に聞いた恐ろしい伝説そのままだった」

 そこで一度口をつぐみ、フィンレーは唇を引き結んで苦い表情を浮かべる。そのあとも彼は正面を見据えたまま、歩みを止めることなく言った。

「お前は俺たちの味方ではなく、ましてや反変異種派の味方でもなければこの光の時代を生きる者の味方ですらない、闇の時代をもたらす敵だったんじゃないかと思ったよ」

「なら何故助ける?」

 エンリェードの簡潔な問いにフィンレーはちらりと彼の方へ目線だけを向ける。それからすぐにそれを前方へ戻し、当たり前のことを訊くなとでもいうような口調で「本気でそう信じたわけじゃない。この数ヶ月でお前がどういう奴かくらいは理解している」と応じた。

「あの死霊たちをこのまま放っておいてどうなるのか俺にはわからないが……こうなったらもう俺の知ったことじゃない。ただ俺が今言えるのは、友人を助けるのに合理的な理由も打算的な理由もいらないってことだけだ」

 エンリェードがそれに返せたのは沈黙だけである。

 彼は自分を撃ったのがフィンレーだとわかった時、この友人が反変異種派であるセント・クロスフィールドの側についたのかと考えたが、それがひどい誤解であったことを理解し、それと同時にこの三ヶ月を共に戦い抜いた戦友を一瞬でも疑った自分を恥じた。フィンレーが本気でエンリェードを敵だとは考えなかったのならなおさらだ。

「……すまない」

 謝罪とも謝辞ともとれる短い言葉だけをようやく呟き、エンリェードは立ち止まる。そしてフィンレーの腕をほどこうとするかのように、自分に回されている彼の手を持ち上げようとした。

「放してくれ。血を止めたい」

「悪いがそれはできない。たとえ引きずってでも、俺が乗ってきた舟まで連れていく。ぐずぐずしている時間はないんだ。見ろ、雲が厚い。雨が降り出したら、小舟で逃げるのは困難になる」

 フィンレーはそう応じ、手を放すどころかいっそう力を込めて歩を進める。晴れた空のように鮮やかな青い両の瞳は、やはり行く先をじっと睨むように見つめたままだ。

 「それに」とフィンレーは言葉を継いだ。

「お前があんな恐ろしい連中を召喚してまで俺たちを――仲間を助けるつもりだったというなら、そんなお前を俺は見捨てるわけにはいかない」

 そう言うフィンレーの精悍な横顔には、最初に弩をエンリェードに向けた時に見せていた怒りの類は一切なくなっていた。

 あの激しい感情は、後悔と失望だったのだとエンリェードはぼんやりと心の中で思う。

 こんなことならお前をここに残すんじゃなかった、とフィンレーは言った。エンリェードが使った死霊の召喚術が禁術に近いものであることには彼も気付いている。

 そういった魔術を使ったことが魔術学院をはじめとする魔術を専門的に扱う何らかの機関に知られようものなら、各専門魔術の最高術位を修めた者に与えられる称号の剥奪はもちろん、最悪、重罪人として命まで奪われることもある。

 敵の目を引き付けるためとはいえ、そんなことをさせてしまったことをフィンレーは悔やんでいるのだ。

 禁術には禁術とされるだけの理由がある。自他の命を危険にさらすといったこと以外にも理由はいろいろあるが、共通して言えるのは「人として行うべきではない」と判断されるものだということだ。

 したがって、そんな禁術に類する死霊召喚の魔術を使ったエンリェードに対する失望もフィンレーには少なからずあっただろう。魔術に精通していなくとも、禁じられたものの忌まわしさ、そういったものに対する忌避の念は多くの者が共通認識として持っている。

 そして、そんな感情を抱いてもなお友と呼ぶ者を捨てきれないのがフィンレーという人間なのだった。

「もういい」

 不意にぽつりとそれだけ言い、エンリェードは崩れ落ちるようにしてその場に膝をつく。

 フィンレーはあわてて振り返り、眉根を寄せて「何?」と険しい口調で尋ねたが、エンリェードは顔を上げることもなく、腹部の傷に魔力を集中させながら静かに応じた。

「君の言う通りここを出よう。このままここにいたら君の命も危うい」

 今もなお石壁の外からは悲鳴や怒号、そしてドラゴンの雄叫びなどが響いてくる。

 しかし、死霊たちと戦っているセント・クロスフィールド軍の者たちもうすうす気付いているはずだ。出てくるのは死霊ばかりで、月夜の民の姿はエンリェードしか見ていないと。

 他の月夜の民たちは壁の外での戦いを死霊の群れに任せ、壁内での戦いに専念するつもりだとセント・クロスフィールド軍は考えているだろう。まさか本拠地であるこの地を捨て、すでに闇に潜むことを選んで去ったあとだとは思わないに違いない。

 そのため、セント・クロスフィールド軍は死霊たちの攻撃に耐えながら、一刻も早く外壁の門を破ろうと試みている。そこを突破されれば、もはやエンリェードたちを守るものは何もない。

 正直なところ、エンリェードには傷の応急処置をして翼で逃げ切るだけの魔力と体力が残っているかも怪しいところだったが、先のことについて彼はあえて考えないことにした。状況がどうであれ、やるしかないのだ。

 フィンレー同様、彼もまた友人をここで死なせるつもりはなかった。自分を長居させないため、わざわざ危険を冒して戦場に戻ってきたフィンレーだけは守らなければ、とエンリェードは心の中で決意する。

 そのためにも何とか血を止めようと魔力を集中させるエンリェードに向かって、フィンレーが念を押すように尋ねた。

「本当にもう、ここに残るつもりはないんだな?」

「ああ」

 エンリェードの短い返答の真偽を判じるように少しのあいだ沈黙を返したフィンレーだったが、やがて彼は小さく息をつき、「ならこれを使え」と言って上着のポケットから何かを取り出すとエンリェードの方へ差し出した。

 その手に握られているのは魔力の結晶たる魔石だ。そこから放たれるほのかな青い光は神秘的ながらも力強い。まだ充分に魔力が残っている、ほぼまっさらな結晶と言えた。

「サムから餞別としてもらったんだ。俺の考えがバレていたのかもな。魔術師でもない俺に残り少ない魔石を預ける意味なんてないだろうから」

 フィンレーはそう言って肩をすくめてみせる。

 そんな彼から魔石を渡され、エンリェードは深々と息をつきながら「君たちには感謝してもしきれないな」と静かに言った。

「君にも、サムにも……イドラス卿やドクター・ルクァイヤッド、他のみんなに、ここで命を落とした者たちにも……」

「お互いに感謝の言葉は無事に逃げ切れてからにしようぜ」

 フィンレーの言葉にエンリェードは頷き、友人の手を借りてその場に腰を下ろすと魔石の魔力を使って治癒術で止血を始める。

 この魔石の魔力があればもう一度召喚門を開くことは可能だが、エンリェードはもうそのことを考えはしなかった。

 エンリェードとフィンレーが今いる前庭には、未だ石壁の外で続く戦いの音が響いている。

 そこに上空で蠢くような雷のゴロゴロという低音が混じった。

 この地で失われたあらゆるものを悼むかのような暗い色を浮かべる空に視線を向けたエンリェードの脳裏にふと、別れを告げてきた友人であり恋人でもあった妖精族の女の顔が浮かぶ。

 彼女はまだ生きているのだろうかと心の中で呟くも、それに応える声はない。

 先天的に抱える難病により、彼女は着実に死に向かっていた。エンリェードが最後に会った時点で本人から聞かされた彼女の寿命は、ひと月にも満たない。ならば彼女にはエンリェードの帰りを待つだけの時間はなかっただろう。

 もしそうなら、エンリェードが生きて帰ったところで出迎える者は誰もいないことになる。彼の異母姉はまだ故郷に健在だが、おそらくはセント・クロスフィールド軍から追われる身になるエンリェードが、生家であり黒狼公の領地である土地を治めている姉の下に戻るわけにはいかなかった。追撃の手が伸びた時、月夜の民としてではなく人間として生きている異母姉の一族を巻き込むことは避けたかったからだ。

 ならばいっそ手放しても惜しむ者はないその命を、しかし、戦場で得た友人の一人に彼は拾われ、死ねない理由まで与えられた。少なくともその友人――フィンレーを無事に逃がすまでは。

「エンレイ……?」

 傷口に手を当て、治癒のために魔力を集中させているエンリェードが身動き一つしないことに不安を覚えたのか、フィンレーはためらいがちに愛称で呼んたエンリェードのそばに屈み込み、彼の華奢な両肩をつかんだ。

 それにエンリェードは「生きてる」と淡白に言葉を返し、一つ大きな息をついてフィンレーの広い肩に額を乗せる。それから彼はゆっくりと体を起こした。

 フィンレーもそれを助けるようにして立ち上がり、再びエンリェードの細い腕を自分の首にまわして支える。

「血は止まった。しばらくしたら自己治癒力でもう少し動けるようになるだろう。そうしたら君を抱えて飛べるはずだ」

 友人の手を借りて再び前庭を歩き出したエンリェードがそう言うと、フィンレーは「俺のことはいい」と首を振って応えた。

 そしていつものように軽薄な口調で続ける。

「逃げ遅れて見付かったところで、俺は人間だからな。殺されることは……」

「彼らは君の強さを知っている。月夜の民を支持する演説だってしたんだ、私たちと肩を並べて戦えるような人類の裏切り者を彼らが見逃すわけがないだろう。見付け次第、君の命を奪うはずだ」

 フィンレーの言葉を途中で遮り、エンリェードは隣を歩く友人を見やる。

 普段の穏やかな面持ちに比べてずっと険しいその表情に、フィンレーは続く言葉を失ってただ肩をすくめただけだった。

 彼らは前庭から館の中へは入らず、そのまま建物の脇を抜けて海に面している側の石壁を登る。その足元は崖になっており、崖下の海面には岩場に引っかかるようにして一艘の小舟が浮かんでいるのが見えた。

「あそこから登ってきたのか?」

 思わずエンリェードが尋ねると、「昨晩の宴のあと、海から登れるようにロープを垂らしておいた。計画的だろ?」とフィンレーが笑いながら言う。当初の予定通り脱出したかのようにエンリェードの前から立ち去ったあと、彼はその崖からロープを伝って戻ってきたらしい。

 上手くいったことにフィンレーは満足げな笑みを見せ、今度はエンリェードが肩をすくめる。

 その直後に彼らの額や頬を大粒の雨の滴が濡らした。

 ぽつり、ぽつりとまばらに降り始めた雨粒は瞬く間に数を増し、土砂降りへと変わる。

 フィンレーが苛立たしげに舌を打って「降り出した」とぼやいた。

 エンリェードが魔術でかけた霧よりも厚い雲が太陽の光を覆い隠し、夕方かと思うような暗い空に雷鳴が轟く。地面を激しく叩く雨音とそれが混じり合い、もはや二人の耳には死したるドラゴンの咆哮も、剣戟や兵士たちの声も聞こえなかった。

 黒々とした海は大きくうねり、小さな舟を小指ほどのちっぽけな木の葉であるかのように翻弄している。

「まずいな。急ごう」

 そう言って外壁の上から崖の方へ降りようとしたフィンレーの隣で、くすくすとかすかな声が上がる。

 ぎょっとして彼が振り向いた視線の先には、小さく肩を揺らして笑っているエンリェードの姿があった。

 共に過ごしたこの数ヶ月の間に彼が微笑む顔は何度か見たことがあったが、笑い声を聞いたのはフィンレーもこれが初めてだ。

 手合わせのあと初めて笑顔を見た時のように、あまりの驚きのために呆然としている彼に向かってエンリェードが独り言のように言った。

「まさか友人が二人そろって迎えに来ようとは」

 そしてまた少し喉を震わせて笑う。

「戦場でもたくさん雨が降ればいいのに」

 以前、エンリェードの友人であり恋人であった妖精族はそう言った。

 雨が降れば、日の光に弱い月夜の民の肌が日光に焼かれることもない。

 雨はエンリェードの味方、彼女はそう言って戦場に雨が降ることを願った。

「彼女が連れてきたのか、それとも君が連れてきたのか」

 空一面を占める雨雲を一瞥したあと、エンリェードはフィンレーに顔を向ける。

 そのどこか無邪気そうにも見える微笑を見返し、フィンレーは友人の気が触れたのかと一瞬疑った。

「お前……大丈夫か?」

「人に大穴を開けておいて、それを君が訊くのか?」

 エンリェードはそう応じると三対の翼を広げた。銀の矢に射抜かれたはずのそれにはもう傷跡一つ残っていない。

 腹の傷はまだ少し痛んだが、やけに彼の心は軽かった。

「舟はやめておこう。彼女が私との最後の盤上遊技で負けたのも、雨の中、船を出さざるを得なかったからだ」

 フィンレーには意味のわからない言葉をこぼし、エンリェードはこの戦場で新たに得た友人を抱えて空へと舞い上がる。

「もう飛んで大丈夫なのか? 怪我は?」

 慌てた様子でエンリェードを見上げながらフィンレーが問うと、彼は「今なら雨で視界も悪い。セント・クロスフィールドの兵たちの目が千あっても私たちには気付かないだろう」と応えた。つまり、逃げるなら今だということだ。そのためなら多少の無理も必要であるし、それをいとわないのだとエンリェードは言っている。

 言葉にはされないその意思をフィンレーは正しく読み取ってため息をついた。

「相変わらず無茶をする」

「それはお互い様だろう」

 エンリェードの返答にフィンレーはもう一度大きな息を吐き出し、降参だというように小さく両腕を広げて見せただけだった。お互いの「心配」を裏切って無茶をすることなど、これが初めてではなかったからだ。

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