ふたりの小さな家
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(ゆるふわ設定なので、細かいことは気にせずふんわり読んでいただけると助かります)
「ねえ見て、新しいお洋服を着せてもらったの」
ルナが言った。
「ええ、似合ってるわ。とっても素敵よ」
エマはうっとりとその姿を眺めながら、ルナをほめる。確かに、小花柄のカントリー調のワンピースは、ルナによく似合っていた。きっと、ハルカのママが作ったに違いない。
「ありがとう、エマ。エマも、新しいお洋服を着せてもらえたらいいのにね」
「仕方がないのよ。わたしはもう、御役御免なの」
無邪気に微笑むルナに、少し寂しい気持ちでエマは答える。
「オヤク……? それってどういう意味の言葉?」
そんなルナの問いに、エマは微笑むだけで答えなかった。
エマとルナは、子ども部屋のチェストの上、そこに置かれた小さな家にふたりで暮らしている。この家には正面の壁がなく、小さな椅子がふたつと、テーブルがひとつだけ。もっともっと小さなティーセットの乗ったそのテーブルをはさんで、ふたりはいつも向かい合って座っていた。
新しくて愛らしいルナは、子ども部屋の主であるハルカのお気に入りの人形だ。ふわふわした長いブロンドの髪の毛を梳かしてもらうのも、ハルカのママが作った新しい洋服を着せてもらうのも、いつもルナだけだった。すっかりくたびれてしまった古いエマの存在は滅多に顧みられない。ハルカはもう、ルナの友人Aとしてしか、エマのことを見ていないのだった。
いまのルナのように、かつてのエマもハルカのお気に入りだった。しかし、あるとき、ハルカがエマの髪の毛をいたずらに鋏で切ってしまったことから、エマの生活は一変した。自分で切ったにもかかわらず、ハルカはざんばら髪のエマの姿が気に入らないらしく、エマのことをぞんざいに扱うようになったのだ。髪の毛を切るだけにとどまらず、顔には赤いマジックペンで消えない化粧を施され、身体には同じく赤いマジックペンで消えない水着を描かれてしまった。人形であるエマは、ハルカの行為をされるがままに受け入れるしかない。それでも、ハルカがまだ自分をかまってくれることがうれしかった。
そんなとき、ルナが現れた。小さな家に突然現れたルナは、「こんにちは。わたしはルナ。あなたは?」と無邪気に尋ねた。
「こんにちは。わたしは、エマよ」
エマは驚きながらそう答えて、ルナの姿をまじまじと見つめた。ルナは、ふんわりとしたパフスリーブのピンク色のワンピースを着せてもらっていた。ふくらんだスカートの裾にはさくらんぼの柄がかわいらしく踊っている。その洋服はハルカのお気に入りで、かつて確かに自分が着せてもらっていたものだった。エマは理解した。ハルカはエマのことが嫌になり、新しい人形を与えてもらったのだ。しかし、エマはそのことを寂しくは思うが、不満に思っているわけではない。確かに、自分のこともかまってもらいたいという気持ちがないとはいえない。だが、ルナの姿かたちがかつてのエマにうりふたつなことに、エマは気づいたのだ。エマは以前、ハルカに抱かれた自分の姿を鏡で見たことがある。そこにうつる人形が自分だと、そのとき、すぐには理解できなかった。だが、その人形を抱いているのが左右反転したハルカで、さらには、その人形の着ている洋服が、自分の着ている洋服と同じだということに気づき、ああ、あれはわたしなんだわ、とエマは理解したのだった。そのとき見た自分の姿と、いまのルナの姿は全く同じといってもいい。エマは、ルナが新しい洋服を着せてもらったり、髪の毛を編んでもらったり、かわいく着飾っている姿を眺めるのが好きだった。まるで、鏡を見ているようだとエマは思っていた。ルナのかわいい姿を見ると、あのころの愛らしかった自分を見ているようでうれしかったのだ。
「素敵よ、ルナ。とってもかわいいわ」
ルナがハルカに着飾ってもらうたびに、テーブルをはさんで向かいの椅子に座ったエマは、ルナのことをほめた。
「ありがとう、エマ」
ルナはそのたびにうれしそうに礼を言い、ますますかわいらしく微笑むのだった。
ある日の夜、ふたりの小さな家が大きく揺れた。
「なにが起こったのかしら」
エマは呟く。向かいに座ったルナが短い悲鳴を上げた。壁のない小さな家を、毛むくじゃらの怪物が覗いていたのだ。さっきの揺れは、この四つ足の怪物がチェストに飛び乗ったために起こったらしい。暗闇に溶けてしまいそうに真っ黒なその怪物を、エマは初めて見た。まるい目は金色に光り、にえー、と不気味な鳴き声を上げた口の中は真っ赤で、鋭い牙が生えていた。
「エマ……」
ルナが消え入りそうな声でエマを呼んだ。恐怖に震えているようだ。
「大丈夫よ、ルナ。ここにいるわ」
エマは、声が震えそうになるのを必死にこらえてルナの呼びかけに答える。
「ルナ。大丈夫よ、ルナ。この家の中にいれば、きっと安心だわ」
怪物がまた、にえー、と一声鳴いて、ふたりの小さな家が揺れた。怪物はチェストを飛び下り、どこかへ行ってしまったようだった。
「ほら、大丈夫だったでしょう?」
そう言ったエマの声は、とうとうよぼよぼに震えてしまっていた。
「エマ、エマ……わたし怖いわ」
「ルナ、大丈夫よ。ハルカが部屋のドアを閉め忘れたのよ。こんなこと、きっと今日だけだわ」
エマはルナを安心させようと早口に言うのだが、ルナの震えは止まらない。
「知らなかった。外には、あんな怪物がいるの?」
ルナはそう言ったきり、黙ってしまった。
「この家の中は安心よ。さっきもそうだったじゃない」
エマは言う。だが、ルナは黙って震えているだけだ。
それ以来、ルナの元気がない。せっかくハルカに新しい洋服を着せてもらっても、表情が晴れない。エマがいくら「素敵よ」とほめても、生返事が多くなった。いつもびくびくして、怪物のことを気にしているようだった。夜になると、ルナはエマの名前を呼んだ。
「エマ、エマ、ねえ、そこにいるわね?」
「ええ、いるわ。わたしたち、いつもいっしょでしょう?」
そのたびに、エマはルナの気を落ち着かせるように呼びかけに答える。
「ねえ、ルナ。まだあの怪物のことを気にしているの?」
エマの言葉に、
「だって、またくるかもしれないわ」
ルナは硬い声で答える。
「前のは様子見で、今度は食べられるかもしれない。エマも見たでしょう? あの真っ赤な口」
「またきても大丈夫だわ。この家の中は安心なんだから」
エマは言う。そう言い切る根拠などなにもないことは、エマにもわかっている。こんな、壁のない小さな家が安心なわけがないのだ。だが、エマは自分の言葉を半ば信じてもいた。
「どうしてそんなことが言えるのよ?」
なので、怒ったようなルナのその問いに、
「だって、ここはわたしたちふたりの家だもの。誰も入れやしないわ」
エマはきっぱりとそう答えた。
日が経つにつれ、ルナの様子は少し落ち着いてきたようだった。エマの根拠のない自信につられたのかもしれない。徐々に明るさを取り戻していったルナは、エマが「素敵よ」とほめると、また、「ありがとう」と、よろこんでくれるようになった。あれ以来、怪物が現れる様子がないことも、きっとルナを安心させたのだろう。
しかし、そんな折、夜になって再び怪物がやってきたのだ。ふたりの小さな家が揺れ、ルナは恐怖に悲鳴を上げた。
「ほら、またきたわ! 安心だなんてうそだったじゃない!」
ルナは金切り声を上げている。
「うそつき! エマのうそつき!」
エマを詰りながらもルナは恐怖に震えている。
「大丈夫よ、静かにじっとして、怪物が行くのを待てばいいの」
エマは言う。しかし、怪物はその毛むくじゃらで真っ黒な前脚を、ぬっとふたりの家の中に突っ込んできた。ちゃりちゃりと軽い音を立ててティーセットがテーブルから落ちた。椅子が倒れ、エマは床に投げ出された。怪物の前脚から、曲がった鋭い爪がにゅっと飛び出したのを見たふたりは、すっかり震えあがってしまい声も出ない。怪物は、短いざんばら髪のエマよりも、ルナのふわふわしたブロンドが気になる様子で、ルナの髪の毛に爪を引っかけたかと思うと、チェストの下に勢いよく落としてしまった。
「ルナ……」
大きな声を出したつもりだったのに、蚊の鳴くような声しか出なかった。
「ルナ! ルナ!」
床に横たわったまま、エマは懸命にルナの名前を呼ぶが、聞こえるのはルナの悲鳴と、なにかがなにかにぶつかるような鈍い微かな音だけだった。絨毯に落としたルナを、怪物は踏んだり噛んだり転がしたり、いたぶって遊んでいるのだ。
「いやッ、いやよ! たすけて!」
助けを求めてルナは叫ぶ。しかし、人形の声が眠っているハルカに聞こえることはない。
「やめて、いやだったら! いやあッ……!」
無力な人形であるエマにもどうすることもできず、床に横たわって恐怖に震えながら、ルナの悲痛な叫び声を聞くことしかできなかった。
「エマ、エマ! たすけてえ!」
その声を聞いて、ついに耐えられなくなったエマは、覚悟を決めた。
「ルナ、いま行くわ!」
そう叫んで家から這い出ると、自らチェストの下に身を投げた。うまくルナのそばに落ちることに成功したエマは、ルナを安心させるように声をかける。
「ルナ、かわいいルナ。大丈夫。わたしたちは、いつもいっしょよ」
エマはルナのもとになんとか這いずって行きながら声をかけ続ける。
「大丈夫よ、あなたは大丈夫」
エマはルナを怪物から庇うように寄り添い、言った。
「エマ、きてくれたのね……」
ルナもエマに縋りつく。
「ごめんなさい、エマ。わたし、あなたにひどいこと言ったのに……」
「いいのよ、本当のことだわ」
その瞬間、怪物がエマの身体を前脚で押さえつけ、鋭い牙を持つ口でその頭をがぶりと咥えたかと思うと、そのまま自らの頭を激しくぶんぶんと振り、エマの頭を胴体から引きちぎってしまった。
「いやッ! うそ、いやよ、エマ!」
あまりに残酷な光景を目の当たりにし、気が遠くなるのを感じながら、ルナは叫んだ。
「エマ! エマ! ねえ、エマ!」
いくら名前を呼んでも、もうエマの返事はない。いつもそばにいてくれたエマの、やさしい声が聞こえない。
「エマ!」
絶望の中、エマの名前を叫びながら、ルナは意識を手放してしまった。
気がついたときには、ルナは小さな家の椅子に座っていた。いつも自分が座っていた椅子ではなく、エマが座っていた椅子だ。エマの姿はなく、向かいの椅子にはルナとうりふたつの新しい人形が座っていた。
「あら、おはよう。やっと起きたわ」
新しい人形はそう言って微笑んだ。ルナは戸惑いながら、「おはよう」と呟く。
「あなた、もう何日もその椅子で眠っていたのよ。ずいぶんとお寝坊さんなのね。でも、これでやっとあいさつができるわ」
自分とうりふたつの顔を持つ新しい人形は、かわいらしい舌ったらずな声でのんびりとそう言った。
「わたし、ルナよ。あなたはだあれ?」
新しい人形が言う。
「わたしは……わたしは、エマよ」
ルナはとっさにエマの名前を騙っていた。新しい人形が自分のものであるはずの名前を名乗ったので、驚いてしまい、とっさにそうしてしまったのだ。どうして彼女に自分と同じ名前が与えられているのだろう。ルナはわけがわからなかった。ただ、ふたりのこの小さな家にエマがもういないことだけは理解できた。白いレースのついたレトロな水色のドレスを身に着けた新しいルナを見て、ルナは、以前は自分があのドレスを着せてもらっていたことを思い出す。
新しいルナは愛らしく、ルナに代わってハルカのお気に入りとなった。怪物に弄ばれてしまったルナは、顔や身体に歯形がつき、髪の毛もごわごわで、怪物の唾液のせいで少し生臭いにおいがしていた。かつての愛らしいルナの姿は見る影もなくなっていたのだ。
愛らしく着飾った新しいルナを見て、ルナは激しい嫉妬を覚えた。あの洋服を着せてもらうのは自分だったはずなのに。髪の毛を編んでもらうのはいつも自分だった。ハルカに「ルナ」と呼ばれ、その腕に大事に抱かれているのは、自分だった。そう、ついこの間までは。
「ああ、わかったわ。これが、オヤクゴメンってことなのね」
ルナは呟いた。
「なあに、エマ」
小さな家の中、テーブルをはさんで向かいに座った新しいルナが無邪気に尋ねる。
「なんでもないわ」
ルナは答え、そしてふと、エマのことを思った。エマは、自分のことをどう思っていたのだろう。ハルカに着飾ってもらったルナを見て、ハルカにかわいがられているルナを見て、どんな気持ちだったのだろう。
エマはいつも、ルナのことをほめてくれた。やさしく微笑んで、ルナのほしい言葉をくれた。もしエマがここにいたら、きっと新しいルナのこともほめるだろう。「素敵ね」と言って、「かわいいわ」と言って、やさしく微笑むのだろう。そんなのいやだわ、とルナは思う。エマにほめてもらうのは、いつも自分でありたかった。
そのとき、にえーにえー、と遠くで怪物の鳴き声がした。あのときの恐怖がよみがえり、ルナは不安に襲われる。怪物の声に重なるように、ハルカの声も聞こえた。
「だーめ。クロは入っちゃだめよ。あなた、あたしのお人形、めちゃくちゃにしたじゃない」
そう言ったハルカが子ども部屋のドアを閉める音がすると怪物の声もしなくなり、ルナはやっと安心した。そして同時に、エマがもうこの小さな家にはいないのだという事実を改めて思い、ルナは打ちのめされた。
「ああ、エマ……」
ルナは小さな声でエマを呼んだ。幸い、その声は新しいルナには聞こえなかったようだ。自分が泣けないことを、こんなにももどかしく思ったことはない。ルナは泣きたかった。エマのことを思って泣きたくなった。だが、人形の自分には涙を流すことはできない。
エマに会いたい、と、ルナは強く思う。やさしいエマに、もう一度会いたい。だけど、それは叶わない。
「そうね。だったら、わたしがエマになるわ」
ルナはそう決めた。
「わたしたちは、いつだっていっしょだもの」
呟いたルナに、
「エマ、いまなにか言った?」
新しいルナが無邪気に問いかける。
「いいえ、なんでもないわ」
エマになったルナはそう言って微笑む。いつも微笑んで、やさしい言葉をかけてくれたエマのことを思いながら、自分もそうなりたいとルナは願う。そうなることを決めたのだ。
「ねえ、ルナ。そのお洋服、素敵ね。とってもかわいいわ」
「ありがとう、エマ」
新しいルナは、ほめられてうれしそうにしている。
エマとルナは、ずっといっしょよ。心の中で呟いて、エマになったルナはやさしい微笑みを浮かべ続ける。
了
ありがとうございました。