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口元

作者: 尾手メシ

 表通りから一本入った路地、居酒屋がぽつんぽつんと軒を連ねるそこを歩いている時、伸二の前方から一人の人物が歩いてきた。最初は暗さでよく分からず、シルエットからかろうじて女だと分かる。近づくにつれて、街灯の明かりと店から漏れる光に照らされて、その姿がだんだんと闇に浮かび上がってくる。

 すっきりと横に伸びた眉に僅かに目尻の垂れた二重の瞳。顔の下半分はマスクに覆われていて分からないが、顎に沿うように形を変えるマスクがほっそりと柔らかな曲線を描いていて、その下にあるだろう小振りな唇を容易に想像させる。マスクから涼やかな鼻筋が覗いていた。

 歩く動きに合わせて、肩よりも長い真っ直ぐな黒髪がさらりさらりと微かに揺れる。小花を散らしたワンピースの裾から覗く足首が暗がりの中で一層白く見え、なんとも言えず艶めかしかった。

 思わず足を止め、惚けたように女を見ていた伸二の横をすれ違うその瞬間、上目遣いで流し見るように女が視線を向けた。伸二と女の視線が絡み合う。女が顔を傾けたことで、黒髪の間から細い首と、それに連なる鎖骨がちらりと見えた。裏路地には似つかわしくない、花の蜜を思わせる甘さを含んだ汗の香りが伸二の鼻腔を擽る。

 我知らず唾を飲み込んだ伸二を気にするふうもなく、すっと視線を切った女はそのまま歩いていこうとする。

「ちょ、ちょっと待って」

咄嗟に伸二は女を呼び止めた。ぐるりと女の前に回り込んで、その進路を塞ぐようにする。

「ねえ君、いま暇?暇でしょ?いやぁ、俺もいま暇でさ。どう、これから一緒に飯食いに行かない?」

捲したてるように女を誘いながら、伸二は内心「しまった」と頭を抱えた。これでは時代遅れのナンパのようである。いや、伸二がやっているのはナンパで間違いないのだが、それにしたってもう少し今風のスマートなやりようがあったのではと思うと、声の掛け方を間違えたのは明白だった。案の定、女は伸二を避けて歩いていこうとする。

「そんなに急がないでさ、ねえ、ちょっと俺と話そうよ。旨いところ知ってるんだ。だからさ、行こうよこれから、一緒にさ。いやぁ、そこの何が旨いって、何でも旨いんだよ。嘘だと思ってる?ほんとだって。出てくる水まで旨いんだから。どう?行きたくなってきた?行きたくなってきたでしょ。よし行こう、すぐ行こう、今から行こう。俺たちが出会ったのは、きっと運命だって」

 女の横に並んで歩くようにしながら、必死に伸二は言い募った。何をそんなに必死になっているのか、もはや自分でもよく分からない。ただ、ここで女を逃してしまえばひどく後悔する気はしていた。運命だなどと適当に口にしたが、いざ口に出してみると、本当にそうだと思えてくる。

 一目見て、体が震えた。あまりの衝撃に体は強張った。心臓は早鐘を打ち、全身の毛穴が開いたようになり、そのくせ指の一本すら動かせなかった。呼吸は浅くなり、吸い寄せられるように狭まった視界は女だけを捉えていた。すれ違うときに香った女の体臭は、鼻腔を突き抜けて脳を揺さぶり、ついでに下半身も揺さぶった。

「ねえ、そんなつれない態度じゃなくてさ、俺と少し話そうよ。俺、君みたいな美人、初めて見たよ」

それまで興味なさそうに伸二を無視していた女の足がピタリと止まる。このチャンスを逃すまいと、伸二はすかさず女の正面に回り込んだ。

 女は伸二の顔をじっと見ながら訊いてきた。

「私、きれい?」

「あ、ああ。もちろん綺麗さ。芸能人にだって君みたいな美人はいないね」

伸二の返事に気を良くしたのか、女の眉尻が下がる。

「私、美人?」

「美人、美人。君は世界一の美人さ」

 女の右手がゆっくりと上がる。強く握れば折れてしまいそうなほっそりとした手首から伸びる柔らかな掌が、蝶の羽ばたきのように優美に丸められる。親指と人差し指でマスクの右の耳紐を摘んだ。伸二の方を向いた小さな小指、その先にある薄桃色の爪がいやに鮮やかに目に映る。

 女が何をしようとしているのかは明白だった。特段、やましい事をしているわけではないが、妙な背徳感に胸がうずく。女が秘密の一端を曝け出そうとしていることに叫びだしたくなるのをぐっと堪えて、女の口元を見た。

 マスクの耳紐を摘んでいた女の右手が、ゆっくりと左側に移動していく。暴かれていく口元。桜色のやや薄い唇。口端は緩やかに曲線を描き、耳の根本まで裂けていた。

「ねえ、私、きれい?」

 大きく裂けた口を開いて、女が言葉を紡ぐ。どうやら笑っているようで、大きく裂けた口の上、頬がほんのりと紅く染まっていた。


 気が付いた時には、伸二は全速力で逃げ出していた。死物狂いで路地を走っていく。身体中の毛穴という毛穴から汗が吹き出す。浅い呼吸を繰り返す肺は悲鳴を上げ、心臓が何とか体を動かそうと激しく脈動する。急激な激しい運動に脇腹がキリキリと痛むが、そんなことは気にしてはいられない。もつれそうになる足を必死に前へと動かして走る。

 女が背後から追いかけてきている気がする。あの、大きく裂けた口で笑いながら迫ってきている気がする。生きてきた中で初めて感じる異形の恐怖が、重く伸二の背に伸し掛かる。自分の背後が気にはなったが、恐ろしくてとても振り向けはしなかった。

 疲労と酸欠で朦朧とした頭と視界で、もはや自分がどこを走っているのかすら分からない。ただ女から逃げるために、伸二は走り続けた。


 伸二がようやく立ち止まったのは、表通りに辿り着いた時だった。膝に手を置いて荒い息を吐く伸二を訝しげに見ながら、通行人が通り過ぎていく。

 怖々と振り返った視線の先、伸二の背後にあの女はいなかった。

 どうやら助かったようだと思うと、強張っていた体から力が抜けた。足が鉛のように重い。心臓と言わず、肺と言わず、脇腹と言わず、身体中がギシギシと軋むように痛んだ。ひどく喉が渇いて仕方がなかった。

 ある程度呼吸も落ち着いて顔を上げた視線の先、丁度よく一軒の居酒屋の看板が目に入った。看板を照らす照明の灯りに誘われるように、ふらふらと伸二はそちらへ足を向けた。


 ガラリと入り口の引き戸を引いて暖簾を潜る。カウンターの中に立っていた大将は、一人で入ってきた伸二にカウンター席を勧めた。勧められるままに席に着きながら、店内を見回してみる。二人で回しているらしい狭い店内には、六、七人の客が酒を飲んでいた。

「とりあえずビールと、あー…」

メニューを見るが、頭が上手く働かない。

「何でもいいから、何かつまめるもの頂戴」

「冷や奴だったらすぐに出せるけど、それでいいかい?」

白髪混じりの大将の言葉に頷いた。

 間を置かずに出されたビールにさっそく手をつける。付けていたマスクを外すのももどかしく、顎に引き下げただけで一口飲み込んだ。強い炭酸が喉を刺激する。冷たい液体が体内を滑り落ちて、身体中に染み渡っていくのを感じた。

 一息で、ジョッキの半分以上を飲み干してしまっていた。カウンター越しに冷や奴を出してきた大将が、驚いたように伸二を見る。

「いや、兄さん、いい飲みっぷりだねぇ」

「いやぁ、もう喉がカラカラで」

恥ずかしげに頭をかきながらマスクを戻した伸二は答えた。

「そういや兄さん、入ってきた時も汗だくだったね。なんかあったのかい?」

「いや、それが…」

少し口籠ったが、伸二は話してしまうことにした。どうせ店主と客の間柄、お互い名前も知らない初対面である。変に思われようが、全て話してしまった方が気が楽になるというもの。

「ちょっと聞いてくださいよ。信じられないかもしれないけど、実はさっきね……」

時折、マスクをずらして残りのビールを飲みながら、先程の出来事を大将に語りだした。大将も慣れたものなのだろう、妙な話に嫌な顔ひとつせずに相槌を打ちながら聞いてくれる。それに気を良くして、伸二は頭からお尻までをすっかりと語ってしまった。

「はあ、それは兄さん、酷い目にあったね」

 話を聞き終えた大将がしみじみと言った。

「いや、まったくその通りで。最初は美人だと思ったんだけどなぁ。まさかあんな口をしているとは」

「しかし兄さん、口が裂けてたって言うけど、どんな感じだったんだい?」

「どんな感じって。こう、耳元までガバっと裂けてて」

大将の疑問に、伸二はマスクの上から自分の口元を手でなぞってみせた。口元に持っていった人差し指が、耳元まですうっと動く。それを見て、大将が目を細めた。

「なるほどなるほど。それは丁度こんな感じかい?」

言いながら、マスクを顎下に引き下げた。顕になった大将の口元は、大きく耳元まで裂けている。

「ひゃあ!」

伸二は思わず悲鳴を上げて身を仰け反らせた。バランスを崩した体はそのまま後ろへ傾いて、椅子から転げ落ちてしまう。店内に派手な音が響き渡った。

 転げ落ちて尻餅をついた床、そこから見上げる大将の口元はやっぱり裂けている。大将の目がますます細まり、裂けた口端が吊り上がった。

「ひっ」

尻餅をついたまま、這いずるように後ずさる。どんっと伸二の背中に何かが当たった。恐る恐る振り返ればテーブルの足がそこにあり、辿るように見上げた先、食事中だった客と目が合った。驚いたようにこちらを見ているその口元は大きく耳元まで裂けている。

 飛び退くようにしてテーブルから離れて見回した店内、居合わせた人間の口元、その尽くが大きく耳元まで裂けていた。


「うわあああ!」

伸二は叫び声を上げながら転がるように店を飛び出した。

「ちょっと兄さん、お勘定」

慌てたような大将の声が店内から追いかけてくるが、それがまた恐ろしくて堪らない。脇目もふらずに通りを走り出した。何事かと驚いた様子で通行人が伸二を見てくる。それらの通行人たちのマスクの下、大きく耳元まで裂けた口が隠されていることは容易に見て取れた。

 恐怖から逃れるために必死に走る。治まっていた脇腹はすぐに痛みだした。足は鉛のように重い。飲んだばかりのアルコールが全身を駆け巡って頭がくらくらしてくる。荒い呼吸を繰り返すマスクの下のその口元、伸二の口端が大きく耳元まで裂けていることは容易に見て取れた。

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