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バタバタと身支度を終えると黄金から今日の予定を伝えられる。
「紫苑様、本日は午前中は呪術の講義がございます。午後からは天神祭に同行する侍女達との顔合わせが御座います。顔合わせには月天様もご同席しますのでご安心ください」
スラスラと今日の予定を告げていく黄金の話を聞きながらも紫苑の心の中は今朝の月天のことでいっぱいだ。
昨日の夜は確かに自分は応接間の長椅子で寝ていたはずなのに、なぜ朝になったらあんな事になっていたのだ。
うんうんと唸って頭を抱えている紫苑の様子を見て黄金は小さくため息をつく。
「紫苑様、月天様のお戯れに一々付き合っていては身が持ちませぬよ?」
黄金の一言で初心な紫苑は益々顔を赤らめて今にも卒倒してしまいそうだ。
「あの、今朝のことは本当に身に覚えがなくて……」
しどろもどろになりながら懸命に弁解しようとする紫苑を哀れに思ったのか、黄金から事の真相が告げられる。
「昨晩は紫苑様がお眠りになった後、月天様が紫苑様を抱いて寝所へと入られました。なので紫苑様が身に覚えがないのは当たり前です。それよりも講義に遅れてしまいますから急ぎますよ」
紫苑が「え?え?」と告げられた内容を理解する前に午前の講義を受けるべく連れて行かれた。
◇◇◇
午前の講義では呪術の一種である鬼堕ちについて学んだ。自分の出自を知ってからというものやはり、鬼に関する事には人一倍興味を抱いてしまう。
鬼堕ちは強い恨みや嫉みを抱くことでその身を鬼に堕としてしまう呪術であり、大抵は邪魔な相手を陥れるために使われるらしい。
鬼堕ちした者の顔は皆醜く歪み般若の相を成す。
確かに人里で暮らしていた時も夜話で女が般若に変貌する話はあったが、実際に幽世に来て話を聞くと人里で語られていた話もまんざら出鱈目ばかりではなかったのかと思う。
いずれにしろ、その身を鬼に堕としてまで他者を恨むなど紫苑には全く理解ができなかった。
午前の講義を終えると、急いで昼食を取り午後の顔合わせのために着物を着替えに月天の自室へと戻る。
前の一件があってから紫苑の私物は全て夢幻楼の月天の自室へと移動されたのだ。
以前は正式に契りを交わすまでは別々の部屋でと言っていた黄金もあの一件以降は紫苑が月天の自室から出ることを嫌がるようになってしまった。
「黄金戻りましたよー」
講義で使用した道具を自分に与えられている机に置くと、黄金が居そうな衣装部屋へと足を進める。
衣装部屋の入り口からひょこっと顔を出すと丁度、紫苑が着る予定の衣装の用意が済んだところだったようで紫苑の気配に気づいてふりかえった黄金に微笑まれる。
「紫苑様、お待ちしていました。では早速着替えましょうか」
手慣れた手つきで鏡の前まで連れて来られると、周りに控えていた侍女たちによってあれよあれよと瞬く間に着替えが進んでいく。
今日の着物は亜麻色の打ち掛けに鬼灯の実が描かれている落ち着いた風合いの打ち掛けが用意されていた。
黄金の手を借りて着付けを終えると、時刻も丁度頃合いとなり顔合わせの行われる曼珠沙華の間へと向かう。
曼珠沙華の間に入ると上座には月天が既に座っており、側に控えている白夜に何やら指示を与えているようだ。
邪魔にならないようにそっと月天の隣に用意された席に座ると、黄金は気配を薄めすぐに紫苑の後ろに控える。
白夜との会話を早々に済ませるとすぐに月天は紫苑の方を見て笑顔を浮かべる。
「今日の装いも似合っている。鬼灯には色々と花言葉はあるが、やはり紫苑にはこの朱色が良く似合う」
余りにも恥ずかしげもなく褒めるものだから紫苑は赤らめた顔を右手の裾で隠す。
その仕草が月天の独占欲を刺激した。
「紫苑?その仕草は誰に教わった?今までそんな仕草した所見たことは無かった気がするが?」
先ほどまでの雰囲気を一変させたかと思うと、笑みを浮かべたまま猫撫で声で月天は紫苑に問いかけ右手を掴む。
「そんな愛らしい仕草を私の知らないところで紫苑に教えるなんて、きっちり御礼をしないといけないね?誰に教えてもらったのか教えてくれるかい?」
これはまずい。
短い間だが、紫苑なりに月天の機嫌の変化が分かるようになってきた。今のような甘ったるい猫撫で声で話す時は高確率で不機嫌な時なのだ。
先ほどまでの笑みとは違いその瞳にぎらつく狂気を宿らせた月天を見て紫苑は慌てて答える。
「この仕草はその……月天様の仕草を見て…」
恥ずかしそうに小さな声で返すと月天は狂気を潜め、そのまま掴んだ右手を引き寄せ抱きしめる。
「可愛い紫苑……これ以上私を狂わせないでおくれ?」
ぎゅっと抱きしめられ頭の上から聞こえてくる月天の声にいつも以上の優しさを感じ紫苑は強張った気持ちを落ち着かせる。
「少しでも月天様の隣にいて恥ずかしくないよう所作なども優雅にできるようにしなきゃと思いまして」
紫苑からの思いもよらない言葉に月天は少し驚きつつも嬉しそうに目を細める。
「紫苑が私たちのことを真剣に考えてくれていると分かっただけですごく嬉しいよ。所作などはゆっくり覚えればいいから私を妬かせることはしないでおくれ?」
紫苑を抱きしめていた月天の腕が離れると、ちょうど部屋の入り口から来訪者を告げる声が響いた。
「今日の顔合わせはそんなに緊張しなくとも大丈夫だ」
月天は紫苑にそういうと、いつも通り脇息にもたれ掛かり気怠げな表情を浮かべる。
「白木屋の雪江、白藤が参りました。入室を許可してもよろしいでしょうか?」
入り口のすぐ側に控えた極夜が言うと、月天はさして興味がなさそうな声で入室を許可する。
部屋に入って来たのは二人の女性で、大人と子供の二人だけだった。
侍女というので何人も来たらどうしようと思っていたので、二人だけと知り少しほっと心を撫で下ろす。
紫苑の位置からは御簾が邪魔で二人の顔を良く見ることができないが、初対面のはずなのに二人から感じる気配がどうも懐かしく感じる。
二人が紫苑の前まで来て深々と頭を下げると、月天の頭を上げよと言う一言でようやく二人の顔を知ることになる。
御簾越しに見たその顔を間違いなく小雪と凛のもので、紫苑は思わず大きな声を上げて腰を浮かせてしまう。
「小雪姉さん!凛も!」
今にも御簾をくぐって二人のもとへと駆け寄ってしまいそうな紫苑に月天はぴしゃりと言葉を投げる。
「紫苑、落ち着きなさい」
そうだ、今は天神祭に同行する侍女との顔合わせ。ここで勝手な行動をとれば月天にも小雪たちにも迷惑がかかる。
紫苑は駆け寄って色々と話をしたい気持ちを堪え、もう一度座り直す。
紫苑が座り直したのを確認すると、極夜が正式な任命書を読み上げ小雪と凛にそれぞれ妖狐の一族に仕えることを証明する手のひらほどの石板を与える。
一通りの儀式が終わると、隣でずっと退屈そうにしていた月天は立ち上がり白夜を近くに呼ぶと二言三言告げる。
「紫苑、これで顔見せは終いだ。あとの時間は積もる話もあるだろうから好きに過ごすと良い。私は今日はこのあと上の里に行かねばならないから寝所は紫苑が使っておくれ」
月天はそう言うと術で開いた大穴を通って姿を消してしまった。




