昔の彼は左利き~千鶴と美里の仲良し事件簿~
〜千鶴と美里の仲良し事件簿〜
一
「こんにちは、おばちゃん。これ、お母ちゃんが持って行きて。イカナゴの釘煮や。どっちみち、ええもん食べてへんやろし、独り者やったら、多分こんな手間のかかるもん作れへんやろからて」
玄関を開けるなり、千鶴は大声を上げた。
胸にグサッ来るような言葉を平気で言う、遠慮のない子だ。だれに似たのだろう。あの親にして、この子ありかもしれない。だけど、同じ家系で私も口数が少ない方ではない。もしかすると、私も、他人にはこんな言い方をしているのではないか。
邦子は、千鶴のあいさつに傷つきながらも、自省してみた。
「ありがとう。ついでに、台所へでも置いていてくれる」
メイっ子に返事しながら、彼女はテーブルの上にまた目を落とした。
邦子は、千鶴の叔母にあたる。わけあって数年前離婚した。世間一般でいうバツイチ。ピカイチ、マルイチに言い換えようという動きもあったが、いずれにしても、要は独り身。
つい最近まで建築会社で働いていたが、この不況であえなく倒産、目下浪々の身である。
千鶴の家から歩いて数分の所にアパートを借りていて、互いに行ったり来たりの近所付き合いとなっている。時折メイっ子が家でこしらえた煮豆や梅干しを届けに来てくれる。
釘煮は、瀬戸内海で取れたイカナゴを、しょうゆと砂糖で甘辛く煮込んだものだが、手間と時間がかかり、調理がなかなか大変なのである。
二、三月ごろ、淡路島付近で取れ始める体長数センチの幼魚で、少し大きくなると使えない。漁は、瀬戸内海の春の風物詩として知られている。
届け物が終わったら一緒に遊ぼうと、美里と二人連れだった千鶴は、言われた通り、流し横のワゴンに釘煮を置くと、一心不乱にテーブルの上のものをのぞき込んでいる邦子のそばに寄ってきた。
「何してるのん、おばちゃん。古いアルバムなんか出してきて。あっ、小学校の卒業記念やんか。そういうたら、おばちゃんも東住成小学校やったなあ」
邦子の横に座り込みながら話しかけた千鶴のわきから、
「わあ、この理科室のガイコツ、おばちゃんらの時からあったん。今でも部屋の隅でぶら下がってるわ」
と、美里が声をあげた。
彼女は理科室や保健室にある臓器とか回虫の見本などが大好きである。あの樹脂製の変につやのついた人体模型を見るたび、ゾクゾクッとした気味悪さと怖いもの見たさのないまぜになった複雑な感触がわき上がってくる。それが、なんとも言えない快感というからちょっと変わっている。中でもガイコツの標本が大のお気に入りである。
食い入るように、アルバムを見つめている美里を放っておいて、千鶴は邦子に聞いた。
「アルバムがどうかしたん、何か考え込んでたけど」
「ううん、何も」
のぞき込むようにして尋ねてくる千鶴に、邦子は素っ気ない返事をした。
しかし、子供たちはだまされなかった。
千鶴らは、アルバムを食い入るように眺めていた邦子に、何か秘密を感じ取った。
この叔母は、隠そうとすればするほど、態度に表れる性格なのである。妙によそよそしく、目をまともにあわさず、落ち着きのないのが怪しい。否定の言葉にもかかわらず、うれしそうな、困ったような表情がちらちらと見え隠れしていた。
「ええやん、隠さんでも」
にやにやして叔母の顔を見つめる千鶴に邦子は必死になって弁明した。
「何もあらへん、あらへんもん。ほんまやで」
若くして結婚した邦子は、家庭を持つと同時に夫の転勤で東京方面へ移り、長い間あちらの方で過ごしていたため、ふだんの言葉はほとんど共通語に近い。
なのに、めったに口にしない大阪弁まで飛び出すというのは、相当心に動揺を来している証拠である。何か隠している。子供たちの直感は鋭くそれを感じ取った。
「あれっ、木田君て、だれ?」
目ざとい千鶴は、アルバム横にあった折り込み広告の余白に書かれた名前を、叔母がボールペンで何度もアンダーラインを引いているのに気づいた。
「あ、これ。あの、その。いや、新聞販売店の名前なんよ、これ」
「ウソ! おばちゃんとこ、ウチと同じ松本販売所やんか。おばちゃん、いつ新聞変えたん? それに販売店の名前になんで君がつくの」
いらないところに、つまらぬ落書きをしてしまった。考え込んでいるうち、つい無意識に手が動いてしまったとみえる。つまらぬことに、よく気がつくやつだ、とにらみつけたが、もはや遅い。いっぺん弱みを見せたら、意地でも離さない千鶴の性格を彼女はよく知っている。まさに母親譲りである。
「ウチら、ぜったい他の人に言えへんもん。二人とも口が固いのでは有名なんやから。お母ちゃんみたいなしゃべりと違うで」
美里も、わきでうなずいた。
確かに千鶴は約束をよく守る。これは内証やでと言った言葉を、これまでもらしたことがない。インターネットの掲示板同然である母親の美津子とは大違いだ。それに、邦子自体秘密にしたいような、他人にしゃべりたいような気持ちの入り混じった、少々うれしい話でもあった。
洗いざらい白状してしまうしかない。彼女は観念した。そして、
「他の人に絶対言ったらだめよ、特にお母ちゃんにはね。実は……」
と、声を落として秘密を明かし始めた。もちろん美里の耳もぐーっと二人の方へ伸びてきたのは言うまでもない。
「実は……」
と二度繰り返して、打ち明けたのは次のような話だった。
二
先週、邦子は小学校六年生時の同窓会に出かけた。二十年ぶりのクラスメートとの再会だった。
場所は、豚まんで有名な中華料理店である。
関西では、昔から肉まんでなく、豚まんと呼ぶ。豚饅頭の略である。関東の方でいう肉まんも中身はやはり豚らしいが、豚まんの方が、最近はやりのグルメ番組で乱発する言葉でいえば、ジューシーでおいしく感じるのは関西人だけだろうか。中華饅頭などという呼び方もあるらしい。
それはさておき、会合は大盛況。笑い声の絶えるいとまもなく、いくつものグループが輪をつくり、口から泡を飛ばしてしゃべり合っていた。
友の変わりように驚いたり、納得したり、学校時代の思い出話に花を咲かせたのは、お決まりのフルコースである。
会場をあちらこちらと渡り歩くうち、邦子は当時の担任が座るテーブルに行きついた。そこで先生から思いもかけぬ話を聞かされたのである。
それは、同級生のある男の子が、彼女のことを好きだったというのだ。
「クラスに『仲良し二人組』がいたでしょ。あのうちの一人が昔あなたのことを好きだと、私に打ち明けたことがあったの。二人のうちどちらだったか忘れたけど、すごいお熱のようだったわ。あなた、知らなかったでしょ」
少々アルコールが入っていたからか、元担任はちょっぴりからかうような目つきで邦子を見つめたという。
他の男子なら、別段そう気にも留めなかったが、二人組の一人と聞いて胸が躍った。実はそのうちの一人に邦子も、子供心ながら思いを寄せていたのである。
「そこまで言っておきながら、どちらだったか思い出せないはないでしょう。何度尋ねても先生は、首をひねるばかり。当の二人は、仕事が忙しいとか、遠くの方に赴任しているとかで、会合には欠席してるし、確かめようがないの」
と、叔母の邦子はため息をつく。
ふた昔も前のことで、それが分かったにしても、今さらどうなるというものでもないが、それ以来何となく気になり、今日も当時のアルバムを引き出してきて、ながめているのである。
「でも、何か手がかりはないの? 背が高いとか、丸顔だとか。成績の良い方だとか、おっちょこちょいの方とか」
千鶴は聞いた。
「それが、全く記憶にないというのよ、先生は。まあ、もう二十年も以前のことだし、何百人もの子供を見ておられるのだから、無理もないけど。でも、先生も罪だなあ、だれか覚えてないなら、言わなかったらいいのに。いじわるな花山先生ッ」
と、吐き捨てるようにつぶやいた邦子の言葉に、千鶴と美里は驚いて顔を見合わせた。
「花山先生って、もしかしたら花山佳織せんせいのこと」
二人は身を乗り出して、同時に叫んだ。
「なぜあんたら先生の名前を知ってるの」
「だって、いまウチらの担任やもん」
千鶴たちは再び声をそろえた。
「ええっ本当! 先生また東住成小へ戻っておられるのね。それも、あんたたちのクラスの受け持ちだなんて、まったくの偶然だわ」
叔母は、めぐりあわせの妙に目を丸くした。
「先生とてもやさしうて、いつも可愛がってくれはるねん。ウチらときどき家に押しかけることもあるんよ、なあ、みさちゃん」
千鶴は、友に同意を求めた。美里もうなずいた。
「よっしゃ、おばちゃん。まかしとき。そのボーイフレンド、どっちやったか調べたげる。こう見えても、ウチら探偵能力あるんよ。この前は、汚職事件の捜査にも手柄を立てたし、ねえ、みさちゃん」
彼女の問いかけに、美里は前にもまして大きく首を縦に動かした。
「でも、そんなことわかるの。先生だって覚えてないのに……」
「大丈夫、大丈夫。何か手がかりはあるはずや。じっくり聞き込んだら、人間て何か思い出すことてあるんやて。この前の事件で知り合うたお巡りさん、そない言うてはった。みさちゃん、ほんなら出動や。先生とこへひとっ走り行こ」
そう叫ぶと、邦子の止める間もなく、千鶴は美里の手を引っ張り、ドアを飛び出して行った。
三
「そう、邦ちゃん、そんなに気にしてるの。子供のころの初恋って、やはり忘れられないのねえ」
花山先生は、教え子の学校時代を思い起こしながら目を細めた。
「でも、悪いけど、どっちだったか本当に覚えていないの。不思議ねえ、二人組の一人だとはっきり記憶に残っているのだけど、さて、木田君だったかしら、それとも吉川君だったのかなあ」
と、額に手を当てて、先生は考え込んだ。
「ねえ先生、何とか思い出して。同じ仲間でも、えらい違いらしいねん。木田君なら、おっちょこちょいで頭のほうはもうひとつやけど、優しい親切な子。吉川君は成績はよかったけど、意地が悪く人をいじめるタイプで、みんな嫌がっとったらしいわ。どうしてあんな二人が仲良しなのか、女の子うちでも、不思議がる子が多かったんやて。もちろん、おばちゃんは木田君が好きやったん」
そのことが胸の片隅に引っかかって夜も寝られない、と少々オーバーな表現を交えながら、叔母が打ち明けたいきさつを話し、千鶴は花山先生をうながした。
「うーん、確かその話を聞いたのは彼が家に来て、野球のグラブをあげたときだったのよ。あの子たちが、公園でキャッチボールをしていたのを見ると、一方が素手だったの。聞くと、グラブを持ってないというじゃない。それで、家に一つ使わないのがあるから、取りにいらっしゃいと言ったら、そのうち一人でやってきたの」
先生は、古い記憶をたどりながら話し出した。
「今は九州の方に住んでいる、ウチの兄が学生時代に使っていたグラブが残っていたの。放っておいてもしかたないから、活用できればと彼にあげたわけ。後でいろいろ雑談していたとき、その子が邦子さんを好きだって打ち明けたのよ。でも、それが……」
そのとき、花山先生は何かを思い出して急に叫んだ。
「そうだ、思い出した。その子は左利きだったわ。そうよ、そうそう。兄もサウスポーだったから、そのグラブをあげることにしたのよ」
先生の顔が輝いた。
物置の奥の方に、野球道具だけがいつまでもほこりをかぶっていた。だれか子供にやろうと考えてはいたが、野球好きの子で、左利きというのが、たまたま周囲におらず、ついついそのままになっていたのだった。硬式のボールと一緒に与えると、うれしそうに何度もお辞儀をして持って帰っていったという。
「でも、それだけかなあ。あとは、いくら考えてもだめだわ。思い出せない。ごめんなさいね」
そう言って先生は、申し訳なさそうなそうな顔をした。
「やっぱり、名前はわからんかったなあ」
帰り道、千鶴がため息をもらした。
「そやけど、その子が左利きやていうのがわかったやんか。これは、大きな収穫やで。いままでは、全然手がかりがなかったんやから」
「でも、邦子おばちゃん、その子が右利きか左利きか覚えてるやろか」
「うん、そうやなあ。人間、見てるようでも、案外見てへんもんやからなあ。まあ、帰っておばちゃんに尋ねてみよ」
美里が促した。
四
「そんなの、覚えていないわ。教室でも席は離れていたし、いまどきと違って女の子が男子をジロジロ見つめるような時代じゃなかったのよ。それに、あまり目立つ子じゃなかったから」
遠く去った幼いころを思い出すかのようにして邦子は、残念そうに答えた。
彼女、子供のころは案外おとなしい女の子で、積極的なタイプではなかったという。友達の中には、同級生の男の子に胸のうちを明かしたりする子もいたが、そのような行動力をうらやましくは思うものの、自分でもやってみようという勇気は起こらなかった。
一緒に遊んだりしたのも、二学年で数回、それもグループだから、じっくり話をすることもなかった。だから、淡いあこがれみたいなものだったのだが、けっこう奥手でそれまで男の子を好きになったことがなく、文字通り初恋だったのである。
「やっぱりそうか」
予想していた通りの返事に、千鶴たちはがっかりした表情をみせた。
「それだけでは、わからへんか」
二人の顔から、最初の意気込みは消えかけていた。しょっぱなから捜査は行き詰まりを見せたのである。
千鶴たちは顔を見合わせ、ため息をついた。
「ま、しょうがないね。せっかく私のために働いてくれたのだから、お駄賃がなくっちゃね。お茶でも入れるわ。ケーキもあるのよ」
「何のケーキ?」
お菓子と聞いて、いっぺんに元気を取り戻した美里が、台所に立った邦子の後を追った。一人居間に残った千鶴は取るともなく、テーブルに残った叔母のアルバムを手に取った。
ページをめくると、学校の全景や校長先生の演説姿のあと、各クラスの集合写真が並んでいて、その後は学校生活のスナップが続いている。
運動会に学芸会、遠足や授業風景が、円形や花の形などにデザインされているのは、どこのものも同じだ。ただ、この記念アルバムは、親切にスナップ写真にも登場人物の名前が添えられている。
パラパラとページをくっていくうち、二人の男子が絵を描いているものが目にとまった。名前にはなんと、右木田君、左吉川君とあるではないか。
ここに答えはあった。木田君が絵筆を右手に、一方の吉川君は左手に構えている。左利きは吉川君だった。
「わかった。わかったで。おばちゃんの捜してる人」
千鶴は大声で叫んだ。
「ええっ、本当! どうして、どうして」
お茶をいれかけていた美里を押しのけるようにして、邦子が台所から飛んで来た。
「ほら、おばちゃん、この写真見て」
千鶴の指さすアルバムをのぞき込んだ叔母は、
「なんや、あの二人じゃないの。その写真なら前からそこにあるの知ってるわ。それがどうかしたの」
「違うんよ。その子の絵筆を持っている方の手を見て!」
気落ちしたように言いかけた彼女の目が、千鶴の意味することに気づいて突如輝いた。
「あ、ホント。あっ、でも……」
一瞬心をはずませかけた叔母だったが、写真を見直したとたん、再びがっくり肩を落としてしまった。
「なんや、吉川君だったのか。なあんだ。そうだったのか。ふうん」
期待は無残にも打ち砕かれた。自分に思いを寄せてくれたのが木田君だったら、昔のこととはいえ、幼なじみの淡い思い出の余韻にしばらくはひたれたのに、彼女は気落ちした表情を見せた。
「あーあ、何て人生だろ。前の亭主は、女つくって逃げてしまうし。小さいときは、いやなヤツに好かれるし。私の男運全敗だわ。生まれつき最悪なのと違うかしら」
よほど結果が気に入らないのか、彼女は子供相手にぶつぶつと愚痴をこぼした。
「おばちゃん、男はそういう風に考えたったら、あかんねん」
例によって、美里がわけ知り顔で口をはさんだ。
「お父ちゃん言うとったけど、男が外で女つくるときは、必ずしもヨメさんが嫌いになったんとも違うねん。男はやさしいよってに、何人もの女の人をいっぺんに愛することができるんやて。それで、両方とも同じように好きになるらしいわ。おっちゃんも、おばちゃんのこと嫌になって、出ていったんとちゃうで。そやから、あんまり気にせんこっちゃ」
慰めにはなっていなかったが、子供心にも邦子を気遣う、気持ちのやさしい美里であった。
だが、邦子は何か新しい発見をした様子で……。
五
「おばちゃん、まだアルバム見てるで。よっぽど残念やったんやね」
美里は気の毒そうに邦子の方を見やった。
「本当やね。まゆにしわを寄せてみたり、横からすかしたりして、一生懸命ながめてるわ。かわいそうやから、もう一回二人で慰めたろか」
食べ終わった食器を台所で洗いながら彼女たちは居間の方をうかがっていた。
「どないしたん。気の毒やけど、いくら調べても、右と左は変わらへんで」
慰めどころか、千鶴がからかい半分に声をかけると、邦子は不審げにつぶやいた。
「この写真、妙なの」
「どこが」
千鶴の問いに、邦子は指でさし示しながら
「六年生のときの教室は、教壇から見て左側に廊下があったはずなの。それが写真では右に写ってるでしょ。それに、天井からつり下がってるアメリカなんかの万国旗がみんな図柄が逆だわ。もしかしたらこの写真裏焼きと違うかしら」
と言い出した。
千鶴らは横からのぞきこみながら
「裏焼きて、なに?」
と叔母の顔を見上げた。
今はデジタルカメラが主流だが、昔ながらのフィルムを使う写真は、撮影したネガを引き伸ばし機に挟み込み、印画紙に焼き付ける。このとき、ネガの裏表を間違えて挿入すると、左右逆、つまり鏡に映った映像のようになる。
邦子には、その様子が記憶と合わないため、アルバムの絵柄が逆転しているのではないか、というのである。
新聞などでも、時折写真を裏焼きして、翌日訂正が出ていることがある。こういった場合、画面をよく注意していればミスを防げることが多い。
たとえば、和服の場合、襟の合わせ目が左前になっている。相手から見て左の襟が上になっている状態で、死に装束で不吉とされる着方だ。通常右が上にこなければならない。洋服なら左ポケットが右についているとか、ボタンが逆というのも発見方法である。
横断幕や腕時計の位置が逆になっていることもあるが、これは幕の裏側から撮影していたり、利き腕によって右に時計をはめている人だっているので、必ずしも決定的証拠とはならない。前髪が普段の反対向きに流れていたのに気づき、裏焼きを発見した珍しいケースもある。
「でも、旗は裏側から見ると、こんな形やで。それに、廊下が左側にあったのは間違いないん?」
「うん、そうやったと思うんやけど。何せ古い話やから……」
叔母の返事は、なんとなくあやふやな言い方にトーンダウンした。子供たちは、叔母があきらめきれないので、無理やり自分の有利な方向へ持って行こうとしているのではないかと考えたが、その心情をおもんぱかり、もう一肌脱ぐことにした。
「学校の建物は、おばちゃんらのときと変わってへんから、明日行ったとき、教室を見てきたげるわ」
そう言い残すと、千鶴らは叔母のアパートを後にした。
六
翌日の昼休み、千鶴らは校舎を見て回り、じっくり観察した。
建物はコンクリート造りで、三階建て。千鶴らの教室は先生の方から見て、つまり教壇側からすると、廊下は右側になる。ところが、建物が途中でL字形に折れ曲がり、なぜかそこから先は教室の向きが逆になっているので、今度は廊下が左手にくる。
上級生のクラスは、千鶴らの教室とは違う方向なので、叔母の記憶が正しいことになるが、昔から学年の配置が今と同じだったかどうか定かでない。だから、いずれとも判断はつかなかった。
放課後、千鶴は一人で叔母の家に立ち寄って、結果を報告した。邦子はただ「あ、そう」というだけで黙っていた。
千鶴の話に、もはやそれほど関心を抱いていないような風を装ってはいたが、机の上にアルバムを片付けず置いてるところをみると、まだ完全に納得しているわけでもなさそうだった。
「探偵ごっこはもういいから、ちづちゃん。学校の宿題しないといけないのじゃない? いつまでもおばちゃんの相手してないで、早く家へ帰って勉強しなさい」
邦子は、千鶴をうながした。
確かに、これ以上せんさくする手だては思い浮かばない。電話でもして直接本人に確かめれば事は簡単だが、邦子が嫌がるのは目に見えている。小学校時代の甘い思い出として、叔母の胸に秘めておかせがら、真相を究明しなければならないというのが、この捜査の難しいところである。
とはいえ、中途半端な調査結果で終わらせるのは、千鶴のプライドが許さない。
「おばちゃん、アルバム貸してくれる? もういっぺん家でゆっくり研究したいねん」
そう断ると、彼女はアルバムを抱え、自宅に戻った。
七
母は出かけて、家はからっぽだった。多分商店街で買い物か、近所で井戸端会議でもしているのだろう。
千鶴は、ランドセルをかたわらに置くと、例のアルバム写真を再度精査し始めた。
冬に撮ったものらしく、男の子たちはセーターやジャンパーを着ているが、ポケットや模様に左右を区別できる手がかりはない。教室後ろに飾られている習字の作品なども、かなり離れていてピントが合っていないため、何が書いてあるかよく見えなかった。
二人は、何かを手本にして絵を描いているところだ。叔母の話では図工の時間に、よく絵や本を持って来させ、模写させていたという。
彼らが写しているのは、絵本のようである。くっきりとは出ていないが、絵柄が何とか見て取れた。千鶴はその絵に何か見覚えがあるように思え、顔を近づけて詳しく観察した。すると、それは、彼女も持っている「ちいさいおうち」であることに気づいた。
この本は、米国マサチューセッツ州生まれの絵本作家・バージニア・リー・バートンの作品である。閑静な田舎にあった小さいおうちが、都市化してビル群の中に取り残される。何年かのち、前に住んでいた人の子孫によって見つけ出され、トレーラーでずっと離れた郊外の丘の上へ運んで行かれる。そして、再び静かな日々を取り戻すという話である。
全編明るく夢のある作品で、以来何十年も売れ続けているロングセラーだ。千鶴も大好きで、小さいときに買ってもらった。今でも大事に保管し、ときおり本棚から取り出してきては、布団の中でながめている。
「そうや、この本の絵を比べたらええんや。そしたら、写真が左右逆になっているかどうかわかるやん」
ひらめいた彼女は、自分の部屋に飛んで行き、取って来た絵本を手にページをめくり始めた。
写真と、実物の本をていねいに見比べていくと、写っているところは、どうやら物語の初めの方で、田舎の小高い丘にある小さい家の夜景であった。
空には星が浮かび、まばらに建つ民家を取り囲む木々や小川の流れが薄暗く描かれており、窓からは明かりがもれている。反対側のページには月の満ち欠けを順番に配したカレンダーがピンで留められてある。
千鶴の本では、右手が家の夜景、左手が月のカレンダーだ。目をアルバムに移すと、写真の中の彼らから見て全く同じ位置に夜景とカレンダーが来ていて、通常の写真として全く矛盾はない。結論は、裏焼きでなかったということになる。
最終的な答えは出た。左利きは吉川君に間違いなく、叔母に幼い恋心を抱いていたのは木田君でなかったのである。
真相を突き止めることはできたが、心は重かった。結果を報告したところで、一応は答えを得ている叔母のショックが深まることはないだろうが、気落ちの駄目押しまでしたくはなかった。
そのとき、ドアホンのチャイムが鳴った。受話器を取ると、やさしく澄んだ女性の声が耳に飛び込んできた。
八
「日の出書店です。毎度ありがとうございます」
「あ、知恵子ねえちゃん。ちょっと待って。すぐカギを開けるから」
千鶴は、あわてて玄関へ走った。
日の出書店は、電車のターミナル駅近くにある本屋だ。繁華街などに最近よくある大型書店でなく、裏通りに開けているこぢんまりした店舗である。
こんなちっぽけな店構えでよくやっていけるなと思えるほどの規模だが、古くからの固定した顧客がいて、結構安定した収入があるらしい。従業員なしの家族営業だけに、なんとか成り立っているのだろう。
父は職場の関係から同店と親しくなり、まだ小さかった千鶴を、食事やショッピングに連れて行ったついでに、よく立ち寄った。そして、絵本などを買い与えたりしているうち、家族同然の付き合いをするようになった。
だから、普通はそんなことをしないのだが、得意先の配達回りがてら少し足を延ばして千鶴の愛読している雑誌を毎月家まで届けてくれている。そして、お茶を飲んだり、母や千鶴のおしゃべり相手になってくれたりする、やさしいおねえさんなのである。
「入って。いまお母ちゃん留守やねん。ウチ一人でさびしいから、ゆっくりしていって。ね、いいでしょ」
千鶴は甘えた。
彼女にはきょうだいがいない。母は、いくらやさしくても、親であり、話しにくいこともある。知恵子との会話が唯一何でも相談できる年長の“おともだち”なのだ。
「いまコーヒー入れるから、待ってね。インスタントやけど」
笑顔を向けながら、千鶴はかいがいしく台所へ立ってガス栓をひねった。
「ええよ、そんなに気ィ使わんといて」
台所に声をかけながら知恵子は、居間のちゃぶ台に座った。
「あら、この本『ちいさいおうち』じゃない」
彼女は、懐かしそうな声をあげた。
「おねえちゃん、読んだことあるの?」
盆にのせたコーヒーを差し出しながら千鶴は尋ねた。
「うん、小さいころ何度もね。絵が、とてもやさしいでしょ。無理にかわいっぽくしてなくて、素直なトーンが気に入っていたの。大切にしてたんだけど、いつの間にかなくしてしまったのよ。珍しい本だから、いま持っていたら値打ちが出たのにね。惜しいことしたわ」
この言葉を聞いた千鶴は不審に思った。
「ええっ、どういうこと。その本、いまでも本屋さんで売ってるでしょ。私も、幼稚園のときに買うて、お母さんに読んでもろうたんやから」
千鶴は首をかしげて、知恵子の顔をのぞき込んだ。
「それが、違うのよ。この本には、小さい秘密があるの」
知恵子はほほ笑みながら、興味深そうに見つめる千鶴の目を見返した。そして、説明を始めた。
九
知恵子の語るところは、こうだった。
「ちいさなおうち」は、一九五四年に翻訳、出版された。原本は、もちろん横書き、左開き。これをわが国で翻訳出版するさい、日本語の縦書き右開きに改めた。このとき、絵の流れも右から左へするため、逆に製版した。つまり裏返し状態にして印刷したのである。これが、絵に矛盾を生んだ。
最初に気づいたのは、小学校一年生の男子だったという。編集者のもとに手紙で、カレンダーにある月の満ち欠けが学校で習ったのと逆だと、言ってきた。
カレンダーは、細い三日月が上弦となり満月を経て下弦、新月へと変化する月の移り変わりを、日を追ってイラストで表している。
ご承知のように、月は欠け終わると右端から現れ始め、徐々に太ってきて満月となる。それから、また右側から欠け出しほぼ一月で元の新月へ戻るのが当たり前である。ところが、本では、左から現れ、満月が左から消えていくという奇妙な現象になってしまっていた。
さらに、よく調べると、車のハンドルや走行車線が、アメリカでは逆なのに、日本同様右ハンドルの左側通行になってしまってもいる。
のちに正しい体裁に改められたが、古いものにはそういった楽しいミスがあって、それを見ながら読むのも楽しいという。
この本には、看板やネオンサインなどの文字があまり描かれていない。走っている自動車などにはあるが、小さくてほとんど読めない。そんなことも、逆製版で矛盾に気づきにくかった原因かもしれない。
「じゃあ、その間違った絵の本を撮った写真を、裏焼きしたらどうなるん?」
知恵子の説明を聞いた千鶴は、頭が混乱してしまった。
アルバムの本と自分のものが全く同じだと思い込んで、二つを照合していた。ところが、もし、相手方のものが元々左右逆だったとしたら、どうなるのか。頭の中で、彼女は絵をあちこちと入れ替えて考え出した。
千鶴がみけんにシワを寄せて悩んでいるのを見て、知恵子はわけを尋ねた。千鶴はこれまでのいきさつを説明して、助けを求めた。
「どこどこ、その写真は。あ、これなの」
知恵子も顔をしかめて、写真を細かく観察した。そして、明るい顔になって声を上げた。
「ほら、ちづちゃん。ちょっと見てごらんなさい。字は小さくて読めないけど、文章が縦書きになっているのがわかるでしょ。それに、カレンダーの位置もページの右端に寄っているわ。アルバムの本は、古い方のものよ。だから、ちづちゃんの本と絵は逆向きに印刷されているのよ」
言われた通り、千鶴は自分の本を見比べると、確かにそれは横書きで、カレンダーも中央の位置に変わっている。
「多分二人のうちだれかが、家にあった古い絵本を持ってきて手本にしたのね。逆さまに印刷されたものを撮った写真を裏焼きした。だから、正しいアルバムのように見えたの。結論を言うと、この写真は、叔母さんが疑問を持ったように裏焼きになっているのに間違いないわ。だから、左利きは木田君っていったかしら、その子の方よ」
彼女は自信をもって決定を下した。
この言葉に、千鶴は沈んでいた心が急にふわっと軽く浮き上がるのを感じた。
「ほんとう! うわあ、おばちゃんものすごい喜ぶわ。好きだった子の方が、同じ気持ちやったなんて聞いたら。おねえちゃんありがとう」
千鶴は跳び上がって、知恵子に抱きついた。
「叔母さん、よかったわね」
知恵子も千鶴の体をかかえ上げ、二人はおでこ同士をすり合わせて喜んだ。
次の日、叔母の邦子は晴れやかな表情でハローワークへ職探しに出かけた。遠い昔、木田君の抱いていた淡い恋心がいまでも続いているとは思わなかったが、とても気分良く、心は吹いてくる春風のように温かだった。
彼女は考えた。前の亭主を入れて、目下男運は一勝一敗のタイである。もしかすると、次にはもっといい相手にめぐり合い、人生二勝一敗の勝ち越しになるかもしれない。
青みを増した街路樹を見上げながら、邦子は胸躍らせ、さっそうと舗道を歩いて行った。
(おわり)
〔この物語はフィクションであり、実在の人物、団体とは関係ありません〕
次の作品もよろしく。
●千鶴と美里の仲よし事件簿『尿瓶も茶瓶も総動員、人質少女を救い出せ』『グルメの誘いは甘いワナ』
●超短編集『美しい水車小屋の娘』『虹色のくも』『はだかの王さま』『森の熊さん』『うさぎとかめ』『アラジンと魔法のパンツ』『早すぎた埋葬』
●前期高齢少年団シリーズ『ケータイ情話』『ミッション・インポシブルを決行せよ』『車消滅作戦、危機一髪』『さよならは天使のパンツ大作戦』『秘密指令、目撃者を黙らせろ』
(上段もしくは、小説案内ページに戻り、「小説情報」を選んで、作品一覧からクリックしていただければ、お読みになれます)




