19. 唯一の主人
師匠たちと出会って間もない頃に、よく使うからという理由で師匠から簡易皮膚という療法を教わった。
隠したい傷跡の上に液体上のそれを乗せ乾かすと、まるで新たな皮膚ができたかのように見せることができるというものだ。
簡易皮膚は多くの人から支持を得ている人気療法であったものの、永続的な効果はないこと、濃い傷などを隠す時は重ねて塗るため見た目が少し盛り上がってしまうこと等の欠点はあった……そんなことを思い出しながら、師匠の目の下にある宝石を見つめる。
つまり、皇帝との夕食の場で見た師匠の頬骨が盛り上がっていたのは、宝石の上に簡易皮膚を施していたからということなのだろう。
師匠が花守り。
しかも、グレイと同じ"例外"の。
出会った初めから私の正体に気付いていただろうに、どうして花守りであることを隠していたのだろうか。
そんな疑問も湧いてくるが、師匠の正体を知って一番に脳裏に蘇ったのはかつてのお兄様の言葉だ。
『──いいかい、カトレア。これから先なにがあろうとお前には沢山の味方がいる。それを忘れてはいけないよ』
……ねえ、シュロ兄様。
お兄様の言うとおりだったよ。
「……私には、たくさんの味方がいた」
ポロリと一粒の涙が溢れる。
それを見ていたグレイが「はい、姫様はお一人ではありません」と切なげに微笑んだ。
「……グレイは、私の師匠が花守りってこと、知ってたの?」
「そうですね……まあ、その話はまた後でしましょう。そろそろこの事態も収束するはずですから。──ほら」
グレイが視線を向ける先には、多くの騎士を引き連れたジェローム様の姿。
「そこまでにしてもらおう」
ジェローム様の登場に師匠が動きを止め、それに合わせて会場が静まり返った。
私が会場に入ってきた時に彼の姿はなかったことを、そういえばと今さらながらに思い出す。
「ジェロー、ム! 早く……此奴らを、ッ片付けろ……!!」
皇帝の言葉に一瞬ドキリとしたが、すぐにその心配は杞憂であったことに気付く。
「片付けられるのは貴方ですよ、父上」
「……っ、は?」
唖然とする皇帝たちの周りを、ジェローム様が連れてきた騎士たちが囲んだかと思うと、手早く拘束していった。
そこには一人倒れ伏した皇帝が残り、その前にジェローム様は立つ。
「どういう、ことだ」
「正常な判断ができない父上には今日限りで玉座から退いていただこうと思いまして」
肉親であるにもかかわらず一切の情を見せないジェローム様。本当に私の味方でいてくれているのだと思うと、胸が熱くなる。
「都合の良いところしか見ようとしない父上はご存知ないでしょうね。これまでにどれほどタレイアが世界に貢献してきたのかを」
静かに語りかけるジェローム様だったが、どうやら皇帝にはその話に耳を傾けるほどの余裕はないようだった。
「ッ、反逆と、捉えるぞ……!」
「反逆も何も、これは正統な皇位継承です。──ほら、聞こえませんか? 拍手の音が」
パチパチパチ、と誰かが叩いたのを皮切りに、会場中に大きな拍手が巻き起こった。
皇帝は何が起きたのか分からず唖然と固まっている。
「ここにいる多くの人がタレイアに恩があるからこその拍手です。これがどういうことか、さすがの貴方でも分かりますよね?」
世界中の国賓がジェローム様の行動を肯定した。
それによって皇帝とその騎士たちの士気が地をついたが目に見えて分かった。
皇帝は青白い顔をしながら、一言も喋らなくなってしまった。否、喋れなくなってしまったというのが正しいか。
師匠が仕掛けた何かが皇帝の体にとどめを刺そうとしているらしく、皇帝はもはや虫の息だ。
「とはいえここで死なれては後味が悪くなる。……先生、申し訳ありませんが、温情をいただけませんか?」
ジェローム様の視線の先にいる師匠は、少し沈黙した後ふーと仕方のなさそうに息を吐いた。
そして胸元から何かを取り出すと、彼に向かってそれを投げる。
「感謝します」
ジェローム様の手には小さな小瓶。その中身を皇帝に飲ませると青白い顔に少しだけ赤みが差した。
しかし完全に意識を失ったようで、ジェローム様は微動だにしない皇帝の胸元をごそごそと探った後、「連れて行け」と私兵に指示を出した。
皇帝が連れて行かれたことで統率者を失ったネルゾンの騎士たちは、完全に剣を下ろしてしまっている。
「これよりジェローム・ジルベッタがこの国の主人となる。騎士たちよ、私の指示に従ってもらおう」
ジェローム様の采配により、あっという間に事態が収束していく様子をボーッと眺めていると、「リオ!」と私の名前が呼ばれた。
なんだろうと思ってそちらを見ると、ジェローム様が私に向けて何かを投げて来た。
"何か"を受け取ったのはグレイだ。
「ちょっと、グレイ」
「姫様をお守りするのが俺の仕事です」
「今のはどう見ても危なくないでしょう」
そんな事を言いながらグレイの手の中を覗くと、そこには鍵が一つ鎮座していた。
思わずジェローム様を見ると、彼は微笑んでこう言った。
「君はもう自由だ」
その言葉で全てが終わったのだと理解した。
鍵を握り締め感極まっていると、私のもとへやって来る影があった。
「……師匠」
布を纏わない師匠の顔は少し違和感がある。
なんと声をかけたらいいか迷っているうちに師匠は膝をつくと、私に向けて頭を下げた。
「ご無事でなによりです──姫様」
師匠が私に対して敬語を使った。頭を下げた。
衝撃に固まる私の脳裏に、過去の記憶が蘇る。
◇
グレイのもとを去って一週間が経った頃、私は一人見知らぬ土地を彷徨っていた。
身を潜める事を第一としていたため、まともに食事を取ることもできず空腹に喘いでいた私の前にその人は現れた。
「行くところがないのなら付いて来い」
「え……?」
「師匠は薬師なんだぜ!」
気付けば二人について行くことになっていたが、師匠のことは得体が知れない人として出会って間もない頃はかなり警戒していたことを覚えている。
しかしある日を境に、私は師匠に心を開くようになっていった。
──ある日。それは師匠が深夜に私のベッドまでやって来て、何かを呟いた日のこと。
夜更かしをしていたこともあって、その時まだ意識が半分ほど残っていた私は、自分の手を握る師匠の存在に気付いていた。
「──ます」
なんと言っていたのかは聞き取れなかったものの、目を閉じていても伝わってくる師匠の熱に、なぜかは分からないが、この人は安心しても良い相手なのだと理解した。
◇
あの時、師匠がどういう思いで何を言ったのか分からなかったけれど、今なら分かる。
きっとクロッカスと同じようにこう言ったのだ。
──必ずお守りいたします、と。
あの日の熱が師匠が花守りだと教えてくれたから、私は師匠に対して安心感を抱くことができるようになったのだ。
涙腺が緩くなっている。気を抜けばすぐに涙が出て来そうだった。
でも今私がなすべきことは泣くことじゃなかった。
師匠の言葉に込められた想いに、私は応える必要があったから。
「顔を上げて」
私を見上げる青色の瞳。
その目にこれまでの私はどう映ってきたのだろう。
師匠の人生を知るわけではないけれど、きっとそこには愛と、苦しみがあったはずだ。
今や私は花守りにとって唯一の主人。
ならば、示そう。主人としての器を。
「ジーヴル・フィーディ。これまでの貴方の献身に感謝します」
左手を差し出すと、出会って以来何があっても崩されることのなかった表情がくしゃりと歪んだ。
「我が喜びです」
私の手を取って自らの額に当てる師匠。
心の底からの言葉だということは、最早疑う余地もなかった。
なんて綺麗に泣くんだろう。
まさか師匠の泣き顔を見る日がくるなんて思わなかったけど、思ったより違和感がなくて思わず笑いそうになる。
けれど結局出て来たのは笑いではなく、涙で。
私は勢いよく師匠に抱きつく。
驚いた様子でありながらも師匠は私を抱き止めてくれた。
「師匠が、無事で、良かったです」
「……ああ」
主人と仕える者、師匠と弟子。
複雑な関係だけど、お互いが大切な存在であることは変わらない。
師匠とテオは私の大切なもう一つの家族だ。
しばらくの間お互いを抱きしめ合っていると、ふと兄弟子のことを思い出した。
「そうだ、テオは……!」
慌てて師匠から離れると、「テオは花守りが保護しました」とグレイの言葉が聞こえた。
つられて玉座のほうを見ると、見知った顔に介抱されているテオの姿を見つける。
「よかった……」
皆の無事を認識した途端に、ガクリと膝から力が抜ける。
「「姫様!」」
ふらついた体をグレイが抱き止める。
やらなれければならないことは沢山あるはずなのに、襲いかかる瞼の重さに私は抗うことができず、そのまま温かい腕の中で私は意識を失った。




