0話 AD2009の今日、AD1997の明日。⓵
雨が降る。しとしとと落ちる無限にも思える水滴が固いアスファルトを叩く。はじけた水滴はそのまま飛散し、水たまりを作り出す。小さな水滴でも集め集まれば、やがて大きな水たまりを作り出す。そうやって時間をかけてできた水たまりをばしゃっと踏んでしまい、男の靴の中にじんわりと水気が滲んでくる。男はため息まじりに空を見る。
「まるで俺の人生みてぇな雨だな」
時は2009年、7月31日。かつて日本を震撼させた予言の日から10年。世界は何も変わらずいつも通り。あのころ男は15歳の男の子であり、夏休みまっただ中の幸せな時間だった。そして思春期まっただ中の彼には当然、好きな子がいた。今でも思い出す過去の過ち。過ちというには大げさか、関係が壊れるのを恐れ思いを伝えることができず、そしていつの間にか友達ですらなくなった。ただそれだけの、重大なミス。思いを伝えたところで結果は変わらないのはわかっている。その子は当時、彼氏がいたことを男は知っていた。それでも、何もせずに終わるより、行動をした上で終わった方があきらめもつくというものだ。
「あの子アンタのこと好きなんじゃない?」
家に遊びに来て、一緒に勉強したその子を見て、母は男にそう言った。男はいやアイツもう付き合っている奴いるし、と母に言ったが、それはたぶん、自分自身に言った言葉かもしれない。諦めろ、今のまま仲のいい友達でいいじゃないか、と。1998年、中学3年進級し、クラスが別々になったが、その子が男の机に座っていて、男に笑いながら男の鞄を勝手に開けていたこと。部活の大会後の打ち上げで、トイレに移動する男の足を掴んではにかむその子の顔。学校でどんな話をしていたのかはもう思い出せないが、服をめくってお腹を見せられた時はドキっとした。そんな程度のことでなぜ満足していたのか。
「時間が戻ればなぁ」
雨は地に落ちる。地に落ちた雨は大地を流れ川へ…いや、この人の地ではアスファルトを流れ下水道を流れるか。雨がゆく道はいくつかあるが、決して雨は雨のまま天へと昇らない。それは時間がも戻るということ。そして時間の進む道は未来だけ。それはこの世の絶対の理だ。いや、もしかしたら時間は戻っているのかもしれない。2009年のこの男は、たった今2036年から戻ってきたというのは、完全には否定できない。しかし、未来の記憶が無いのであれば、それは戻ったのだとしても、当人にとっては全く関係の無い話だ。未来の知識を持ったまま、過去へと戻ることなんて絶対に無い。そう、無いのだ。
22時。ようやくアパートへと到着した。明日も仕事だ、もう気が狂う。あの頃の、楽しかった中学時代に戻りたい。好きな女の子と仲良くできて、友達もいて、嫌なこともいっぱいあったが楽しいこともあった。インターネットや携帯電話が無いのは辛いが、当時に戻ったなら当時にしかできないこともいっぱいある。もし戻ったらまずは火災報知器を押してみたい。ボタンを押した感触は固いのだろうか、ガチっとしているのだろうか、思いっきり押さないと作動しないのだろうか。今となっては確認する術は無い。子供が悪戯で押すのはちょっと怒られる程度で済むが、いい年こいた大人が押したらどうなることか。
いや!そうじゃない。それもだけど、一番は後悔のない人生を送りたい。こんな社畜として死ぬまで働くなんて耐えられない。当時の男は頭が悪くはなかったはずだ。高校でいろいろあったせいでロクに勉強もできなかったが、今なら対策はとれる。あのころに戻ったら、あの子に気持ちを伝えて、進路をまじめに考えて、それから…
そして男は、考えながら入っていた浴槽の中で意識を失った。疲れているときの入浴するとすぐに寝ちゃうのは仕方のないことだ。
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「あれ…ここは…俺たしか風呂に…って!仕事…………は?」
じんわり濡れた体は、風呂だからではなく、寝苦しい暑さで汗をかきながら寝ていたからか。男はベッドで目を覚ました。無意識にベッドに戻ったのか。よくあることだ。気が付いたら職場に着いていたことなんて珍しくもない。しかしこれは異常だ。無意識に、風呂から上がって、実家の自分の部屋まで戻るだろうか。ましてや、この部屋の見覚えのある構造、そう、男の黄金時代。1997年、男が中学2年のころの部屋だ。当時飾っていた大人気アニメの女の子のポスターがそれを証明している。当時はアスカ派だったなぁ、と懐かしさを感じ、そして考える。
「俺、戻ってきた?まじで?夢じゃない?」
カレンダーの日付は1997年8月1日。夏休みの序盤が終わったころだ。あの初恋の子と仲良くなるのは夏休み明けてからだ。
「俺…また仲良くなれるかなぁ…」