その言葉を、俺はまだ知らないままに
「憂鬱だわ」
つい数分前に食べた食器を洗い終えてから一人愚痴る織村早苗。
これから仕事にいかなけれならないと思うと憂鬱になるのは社会人なら誰だって経験することだしなんならいつも思うことだと思う。ぶっちゃけめんどくさいという気持ちの方がはるかに上なのだ。何が嬉しくてこんな朝早くから片道一時間半の電車に乗らなければ行けないのかをぜひ教えて欲しい。
まあ文句をぐうたら言っていてもしょうがないのでおとなしくバックを片手に玄関まで向かう。
さて今日も今日とて自分の息子が偽の彼氏やってる女の子の一声で一日の最初の活力をもらうとしようと思った矢先、玄関の異変に気付いた。
「あれ? 靴がない」
☆──☆──☆──☆──☆
「確かここら辺って言ってたと思うんだけどな」
春先ということもあり冷たい風が吹く朝五時半、いつもより一時間どころかに時間も早い時刻にジャージで外出中だ。
こんな時間に起きないもんだから知らなかったがちょうど今ぐらいが日の出なんだと知れた今日、なぜ外出しているかというと。
「あ、織村君、きてくれたんですね!」
昨日とはまた別の公園で今俺に向かって手を振っている彼女、現在偽の恋人をしている佐倉さんの早朝ランニングに付き合うためである。
昨日彼女に誘われた時はどうしようかと思ったがインドア派であるが故に運動不足なのは否めない。ので彼女の誘いに素直に乗ろうと思った次第である。
「今日はきてくれてありがとうございます」
「そんなかしこまらなくても」
「いえいえ、こんな早朝に起きてもらったんですからこれぐらいは当たり前です」
いやそれで頭下げられてもこっちが困るから、幾ら何でも律儀が過ぎる。
「ではまずウォーミングアップから」
「走るだけじゃないんだ」
「ウォーミングアップしないと体への負担が大きくなりますからね。運動前にはウォーミングアップ、鉄則ですよ」
との事で公園の端の芝生に腰をついた彼女は早速ウォーミングアップを始めた。それに連れ添うように俺も腰を下ろし彼女の真似事を始める。
自然な動作でストレッチを済ませる彼女に合わせて俺も伸ばした足先に手を伸ばして見る、のだがギリギリ届かない。え、待って届かないのこれ普通に届くと思ってたのに全然届かないじゃん。
「織村君はインドア派なんでしたっけ?」
俺と違いちゃんとつま先まで手が届いてるというかすごい余裕そうな佐倉さんはこちらを見て笑っている。くそう、なんか悔しい。
「だい……たい、はっ!」
ほっ! 届け俺の手! ギリギリ届きそうなんだ! 後数センチお前ならいけるだろ!
「体が硬い証拠ですよ、適度に運動はしておかないと体が固くなったりするのは当然です」
「正論すぎて、ぐうの音も、出ない!」
「まあ時間をかければ時期届くようになりますよ。次しましょう」
淡々と続くストレッチ。当然体が固すぎて彼女のようにスムーズに体は動かない。これがインドアとアウトドアの差とでもいうのか? この差はあまりにも酷過ぎる。
「ワンツー、ワンツー」
半ば食いつくように、彼女の掛け声にギリギリ追いつくストレッチが続く。ストレッチの時点でかなり辛くなってきた。身体中が悲鳴を上げている気すらする。そして横を見ると意気揚々とストレッチを続ける佐倉さん、所々で笑ってくるのが本当に悔しい。
「今日はこの辺にしておきましょうか、やり過ぎると織村さんの体力が持たなそうですから」
「気遣いが辛い」
まだ走ってすらいないのにすでに沈黙寸前ってやばくない? 俺この先生きれる? 大丈夫これ。
「それでは早速走りましょう」
「どれくらい走るの?」
「まずここから川沿いを走って橋を横断して今度は南側の橋を渡ってここに戻ってくる一周コースです。だいたい二キロぐらいでしょうか」
「……思ったより走ってるんだ」
思ってた予想より二倍近く長い距離に少し怖気付きそうになる。小学生とかで経験するマラソンぐらいあるんだけど。それを今の体で? 明日は筋肉痛間違い無いな絶対逝った。
「慣れれば大して苦ではありませんよ?」
「そういうもの? 本当に?」
「そういうものですし本当です。それでは行きましょう」
というわけで二人して走り込みを始めた。
序盤だからなのかそれとも俺に合わせてなのかそれなりに遅い速度でのスタート。意外にもそんなに辛くなくスムーズに行けている気がする。
「そんなにスピード出さないんだね」
「最初から飛ばすのは良くないのですからね。最初は体を慣らすぐらいの速度で走って徐々に上げていくんです」
「そういう意味の速さなんだ、なるほど」
「今回は織村君のこともあってもう少し落としてますけど概ねそんな感じです」
あ、やっぱり落としてくれてたんだ。まあ慣れてるのにこんな速度で走るわけないもんね、なんか申し訳ない感じがする。
「あ、花音ちゃん、おはよう」
「はい、おはようございます!」
走り出してすぐ、俺たちが走っているコースを歩いていたおばあちゃんが佐倉さんに向けて挨拶してきた。当たり前のように挨拶し返す佐倉さんを見る限りよく会う人なのだろうか。
「おはようございます!」
「おはよう!」
「今日はいい天気ですね!」
それからも続く挨拶ラッシュ。挨拶をして軽く手を振るのセットが何回と続いた。全員が全員佐倉さんの挨拶に対して笑顔で返してくるあたり日頃の彼女の行いが見て取れる。そりゃ母さんもああなるわけだ、なんか嫌な納得である。
「いつもこれ一人でしてるの?」
「はい、友達と言える人いませんから」
「悲しくなる言葉はNG」
「話振ったの織村君なのに!? 酷くありませんか!」
「いやなんというか、うん」
「なんですかその頷き!」
「気にしない気にしない」
「気にします! 私気にしますよ!」
「ほらそろそろ橋に着くよ」
「はぐらかしましたね!?」
「いや全然全く」
「否定しすぎじゃないですか!」
ほっぺ膨らませながら睨まなくてもでもいいのでは。
そしてスピードあげるのもやめてもらっていいですかね案外少しじゃ済まないぐらい早くなってますよ佐倉さん。俺も速度を上げるがこれがまたきつい、長距離を走るのにおいてこの速度は結構辛い。
「橋を渡った先のベンチで一旦休憩しましょう。飲み物はありますか?」
「そこ自販機ある? 一応小銭ポケットに突っ込んできたんだけど」
「ありますよ」
「なら大丈夫だ」
ちょうど水分が欲しかったところなのでこの休憩は素直に嬉しい。
橋を渡ってすぐ、彼女の言うベンチが見えた。そしてすぐ横には青い自販機。とりあえずは……スポーツ飲料でいいかな、運動してる時のスポーツ飲料は妙にうまいしな、決定。小銭を入れて魅惑の青ラベルのペットボトルのボタンを押すとガチャン! と音を立てながら落ちてきたペットボトルを拾い上げる。運動で火照った体にこの冷たさはなんとも心地よい。
「よっこいせ」
ペットボトルの蓋を開けつつ彼女の隣に着席すると何故かクスクス笑われた。え、何かした俺。
「なんだかお年寄りみたいですよ?」
「そんなことあるわけが……ない、はず」
「自信無くさないでくださいよ」
「そんなことない、よ?」
「変わってませんよ!?」
なんか彼女に言われると自信がなくなってきた。いやまだ十六だし? なんなら今年で一あがるけどまだ若いんだけどさ、精神年齢って奴は体の老いとは関係ないわけだからなあ……いま気にすることでもないか。
そんなことより飲もうそうしよう。早速先ほど開けた飲料を口をつけてグッと傾ける。すると当然飲料が口の中に流れ込んでくるのだがこれがうまい。いや本当にシャレにならないレベルで。冷たさが、味が、全てが今の火照った体に染み渡る。美味いわこれ、止まらないんだけど。
「ぷはあ!」
そして完飲。まじで十秒あったかわからない速度で飲み干してしまった。まだいけるなこれ、全然いける。こうなるんだったらもう一本分お金持ってきとけばよかったな。
「凄いですね。男の子って感じがします」
「へ? 何が?」
「普通ペットボトル一本を一気飲みなんてしませんよ?」
「……言われてみれば確かにそうかも」
「だから凄いなあって思って」
そういう彼女もどうやら自前の飲料は飲み干した様子。とは言っても入れ物自体小さいものだったので割とすぐだったのかもしれない。
「さて、では後半戦と行きましょう」
「りょーかいです」
「はい、では」
二人とも立ち上がり再度走り始める。
俺のペースに調整してくれてるとはいえ前半とは違い速度を上げたペース。だが先ほどより辛くない気がする。もう体が慣れたのかな? なら嬉しいのだが。
「そういえばいつも母さんと会ってるって話だったけどどこで会ってるの?」
「いつも通りならもうすぐですね……もうすぐ!?」
先ほどまでの笑顔が一転、何かに驚愕したような表情の佐倉さん。何に驚いてんの? 俺なんか悪い質問したか?
「あ、わ、えーっと、ど、どうしたら!?」
「なんでそんなに慌てて……」
「あ、おはよう佐倉さん!」
「おはようございますっ!?」
なんであんな笑顔なんだ母さん、実の息子ですら見たことないぞあの笑顔、輝いてやがる。
「おはよう、母さん」
「あら、快じゃない」
彼女の言う通り、すぐに母親の顔を見ることとなった滅多に見ないスーツ姿の母に違和感。あの息子を嘲笑うような母親がこうもびっしり決めてると誰だってこうなると思う。
「変なこと考えたでしょ?」
「いーえ全然! なんのことかさっぱりです!」
「ああそう。それはそうと佐倉さんと走ってたのね、靴がないからびっくりしたじゃない」
「別に教えるものでもないでしょ? と言うか昨日いなかったし」
「寝るのが早いのよ……どうしたの? 佐倉さん」
「は、はい! 大丈夫です!」
「全然大丈夫そうに見えないんだけど。そもそも何に対しての大丈夫なのそれ」
なんでさっきからそんなに慌ててるんだ彼女。今の関係の話はもう話したって言ってるし特にこれといって慌てる要素が見当たらない。
「……ふーん」
「え、なにそのふーんは」
「いや何も? 乙女心もわからない朴念仁な息子に少し嫌気がさして」
「どう言う意味だ! そんなライトノベルの主人公みたいになった覚えはないぞ!」
「そうね、快は快だものね」
「それこそどう言う意味だ!」
「じゃあ行くわ、元気もらったし」
「話は終わってないぞ!」
「私仕事だから行かないと」
「くそう! ここに来て社会人アピールで逃げる気だ!」
俺の叫びなんかいざ知らずせっせと俺たちを通りすぎる母さん。
だがその際。
「────」
佐倉さんに向けて小言で何かを言い放った。
瞬間顔を真っ赤に染める佐倉さん。それを見て気分が好調になった母は振り返ることもなく駅へ向けスタスタと歩いて言ってしまった。
「何言われたの?」
母が何を言ったにしろ顔を赤くするってことは何かしら変なことを言われたに違いない。ナチュラルに申し訳なさしかない。うちの母がどうもすみません案件である。
「い、いえ、なんでもないです。大丈夫ですので走りましょう。もう終わり間近です!」
「え、ちょっと待って!」
先ほどのスピーディーな走りとは一転、もはや全力疾走でゴール地点まで走り始める彼女に追いつくため俺も全力で走るが、速すぎる。追いつこうにも追いつけない。
結局ゴール地点まで追いつくこともなく終点を迎えた。
先にゴールしていた彼女も全力踏破したせいか肩で息をしている状態だ、あれだけ速く走れば当然である。
「すみません、言うのを忘れてましたがいつも最後はスピードを出すんです」
「そう、なんだ」
「本当にすいません、大丈夫ですか?」
「大丈夫、ではあるんだけど……流石に、疲れた」
久しぶりすぎる長距離にラストは百メートル強を全力疾走したのだ。疲れない方が難しい。
「では今日はこれで終わりにしましょう。また後で!」
それだけ言い残して俺の返事を聞く間も無く彼女は自分の家までまた全力疾走で行ってしまった。
「……結局何だったんだ? 母さんの言葉」
後に残ったのはそんな疑問だけだった。
☆──☆──☆──☆──☆
「ハア……ハア!」
ただひたすらに走った。
いまにも爆発してしまいそうなそれを紛らわせるために持てる自分の力を全て使って走った。
「もう、バレてしまった、なんて」
彼のお母様の言葉が脳から離れない。
これから一体どうすれば、数時間後にはまた顔を合わせないといけないのに今のままじゃ合わせる顔がない。
「どうしましょう……」
ただ今はひたすらに苦悩することしかできなかった。
『快を落としたいなら攻めた方がいいわよ?』




