壊れていく密(これが現実か……)
確実な治療法がなかった頃、認知症はその進行を遅らせるしか対処法がなかったそうだ。
それを今、俺達も実感している。
「生活習慣を見直したり、運動療法によって対処したそうです」
シモーヌが解説してくれる。
と言っても、できることは限られてる。それに、当の密自身が人間のようにそれを<治療>だと理解して自発的に協力してくれたりもしない。
本を読んだり、パズルをしたり、会話を楽しむことで脳に刺激を与え、進行を少しでも遅らせるということの意義が彼女にはまず理解できないんだ。
それに、彼女の<認知症>は、脳そのものが活動限界を迎えたかのように急速に委縮することによって生じているものだというのが分かった。
だから、脳そのものに治療を施さないとどうにもならないもののようだ。
「うう…あう…」
密を見た順が、不安げに言葉にならない声を上げる。彼女の様子が異様なことを順も察しているんだろうな。
「お父さん…」
光と灯が俺に声を掛ける。気遣ってくれてるんだ。
「ああ…大丈夫だ…」
と言うか、そう応えるしかなかった。なにしろ、普通は有り得ないくらいに彼女を<長生き>させたことがこれを招いたんだから。
今回のことも、俺の責任だ。
だから俺は、今の密を受け止めなきゃいけない。
だがそんな俺を嘲笑うかのように、密の症状は恐ろしい速さで進行した。
それは、子供達の成長を逆再生して見せられているかのようだった。
昨日までできたはずのことが、今日はできなくなっていた。ということが何度もあったんだ。
自分で開けられていたドアが、開けられない。ドアの開け方が分からないという以上に、そこに<ドア>というものがあるということが分からないらしいんだ。彼女にとってそれはもう、壁と同じだった。
さらには……
「あ、密、そこトイレじゃないよ…!」
灯が慌てたように声を上げたのに視線を向けると、部屋の隅に密がしゃがみ込んで小便をしていた。
これまではちゃんとトイレでしてくれてたのに……
それどころか、その数日後には、ぼんやりと立ったまま、尿を垂れ流していたんだ。
仕方なく俺達は、コーネリアス号に残されていた紙オムツを使うことにした。
しかし、密はそれが嫌なのか、少し目を離した隙に脱いでしまって、結局、床を汚してしまう。
聞くところによると、昔はこれが何年も、下手をすると何十年も続くことがあったらしい。
「昔の人間は、よくこんなことを何年も続けられたな……」
密が汚した床を、セシリアが文句も言わずに綺麗にしているのを見ながら、俺はそんなことを呟いてしまったのだった。