未来編 清く正しい社会を
『親を殺したいと思うことはあっても実行までは至らなかった』
それと『実際に親を殺してしまった』には途轍もない隔たりがあると思う。人間(地球人)にとって<命の概念>ってのはもはや<呪い>にも匹敵する強大な縛りだろうし。環境によっては獣にとってのそれと同様に<どうでもいいもの>だったりするとしても決して一般的ではないはずだ。
だからこそ敢えてそれを蔑ろにできてしまうには相応の<理由>があるはずなんだ。ましてや<自分の親>をともなれば。なのに地球人の多くは、
<ただの恩知らず>
として切り捨てるだけで済ませようとする。どうしてそこまでの結果に至ったのか<原因>と<理由>を探ろうともしない。
『親を殺せるような奴は自分達とはまるで別のただの怪物だ』
と決めつけて考えることをやめてしまう。俺は光莉の件があればこそ実際に、
『こいつら殺してやりたい!』
と思ったことがある。しかし結果としてはそれを実行できずに逃げることを選んだ。
『自分のそういう感情からも逃げたくて』
かな。俺には<他者の命を奪うというハードル>は越えられなかったんだよ。なんだかんだ言って両親や光莉の顔が浮かんでしまって。
だが同時に思ったよ。
『俺の家族がどうしようもないクズだったら逆に苦しめてやりたいと思ったかもな』
って。
『殺意を思いとどまれたのは思いとどまれるだけの理由があったから』
なんじゃないか? だったらその<思いとどまれるだけの理由>こそに感謝するべきかもしれないな。
『どうせ本当に人を殺すような度胸もないくせにイキんなよ』
だとか言って他人を貶して蔑んでる暇があるのなら。
しかも『どうせ本当に人を殺すような度胸もないくせにイキんなよ』程度なら、
『読んだ人を不快にさせる可能性のあるコメントです。投稿しますか?』
と確認してくるだけなんだよな。<警告>もしないしミュートもしない。それを投稿したことで相手も過剰反応して場が荒れたらまとめて削除されてアクセス禁止になったりする場合もあるものの単発のコメントだけなら禁止はされてない。
そこまでガチガチにAIに管理されてるわけじゃないんだよ。親が軽く子供の手や頭をはたいたりするくらいなら大目に見てもらえてるのと同じで。
実はそれも、
<潔癖な人間が集まってできたコミュニティが辿った末路>
が教訓になっているらしい。かつて、
『正しい人間だけが集まって清く正しい社会を築こう!』
と音頭をとって出来上がったコミュニティがいくつもあったそうだ。




