未来編 そこに至れた理由こそを
本当は子供達の様子を客観的に詳細に描写する方が、そういうのを期待してる人間には面白いのかもしれないが、見る価値があるのかもしれないが、それだと俺としては意味がないんだよな。子供達の普段の様子についてはロボット達が映像で記録してくれている。
だが、そこに映し出された子供達の姿の意味については、他人からは分からないだろう。ただただ仲の良さそうな子供達の他愛ない日常が延々と映し出されているだけだからな。
『なぜそんなに仲が良さそうなのか』
『なぜそんなに無邪気でいられるのか』
それは映像だけだと伝わらない気しかしない。
『仲が良いから仲が良い』
わけじゃないしな。<仲良くいられる理由>があればこそなのに、見ている他人はただただ『微笑ましい』で済ませてしまうだろう。『なぜ』についてはほとんど考えることもしないだろうな。
それでいいのなら俺がこうやって文字として綴る意味もないさ。俺が残しておきたいのは<子供達が仲良くしている姿>だけじゃない。<そこに至れた理由>こそを残しておきたいんだ。
<脚色されたエンターテイメント作品としての物語>としてじゃなく、
<そこに生きていたそのままの人間の言葉>
として。エンターテイメント作品として脚色されたらどうしてもそこに<嘘>や<誇張>や<演出>が入るだろう? それじゃ駄目なんだよ。それじゃ<本質>が伝わらないと俺は思う。実際、<面白いエンターテイメント作品>で描かれているものが本当に現実で活きる事例がどれほどある? 実際に現実に取り入れて有効なものがどれほどある?
『フィクションの中では有効でも現実では使えない』
ものなんていくらでもあるよな。エンターテイメント作品の中の<子育て>を現実にそのまま取り入れて上手くいくか? それで上手くいくなら子育てて悩む親なんていないんじゃないのか?
もちろん面白くないと読んでももらえないだろう。それは分かってる。
だが、『面白くないから読みたくない』と考えるのなら読んでもらう必要もない。
『人間を育てる』
というのは面白いか面白くないかで決めていいことじゃないと思うからこそ。特に子供が来てしまってからはそれこそ面白い面白くないで判断していいことじゃないだろう? 『自分がしたことの責任を負う』というのはそういうことのはずだ。
俺は自分が人間を育てていると自覚するからこそそこで得たものを俺自身の言葉で残していきたいんだよ。誰かを面白がらせるためにしてるわけじゃない。




