未来編 背負ってるものが違う
言われてみれば確かにそうだ。作り物であるメイトギアがどれほどすごいパフォーマンスを見せても、それはフィクションの中で超常の力を発揮するキャラクターがいるのと何も変わらないと俺も感じる。なにしろメイトギアはあくまで<科学技術の塊>なわけで。すべてが『誰かによって作られた』ものでしかない。<メイトギア自身の能力>じゃないんだよ。<才能>でもない。ただの<機能>なんだ。機能だからこそ<再現性>もあって当然だ。
人間は、『生きて』いる。そして動物だ。生きた動物である以上は決して完全に停止することはできない。どんなに止まっているように振る舞おうとしてもごくわずかであっても必ず『動いて』いるんだ。そしてまったく同じ動きを再現することもできない。一回一回必ず<ブレ>がある。人間の体の作りがそうなっているからだ。
実は現在のメイトギアも<不自然さ>を緩和するために関節などには<遊び>を持たせて『揺らぐ』ように作られてるという。しかしそれでも生身の人間よりははるかに高精度なのもまた事実。生身の人間が行う<フィギュアスケート>は、
『失敗するのが当たり前』
であり、それを途轍もない反復練習によって失敗の確率を下げていくのがキモなんだと聞く。だがやっぱり完璧にはなれない。だからこそミスなく踊り切った時には喝采を浴びるんだろう。しかしメイトギアは逆に、
『失敗しないのが当たり前』
なんだ。何度でも同じことを再現できる。もちろんその度に<不確定要素>によって完璧に同じ状態が確保されるわけじゃないものの、メイトギアに搭載された高性能AIはその度に絶妙な補正を行うから何度でも同じことをミスなく行えるんだよ。
そんなメイトギアが見せるパフォーマンスについて、『フィクションの巧みな描写に感心する』のと同じように最初は感心しても、
『ミスなく何度でも同じことができる』
ことに冷めたものを感じてしまうんだ。しかも、それを目的に作られさえすれば工場で製造されてロールアウトした瞬間に金メダリストと同じ演技ができてしまう。そこには何のドラマも背景もない。
ロボットは『努力する』こともないし、『悩む』こともないし、『執念を見せる』こともない。できることはやってみせるしできないことはやらないだけでしかない。
対して生身の人間である<選手>は、死に物狂いの努力をして様々な感情や想いを持ち、膨大な時間を費やしてそこに立ってるんだ。背負ってるものが違うんだよ。




