未来編 共感という言葉を使いたがる人間
『経済活動は人間が生きる上で生じる事象の一つでしかない』
それは事実なんだよ。『経済活動とは何か?』という話もあるにせよ<人間(地球人)という種>の歴史において少なくとも<貨幣経済>が生じたのは<ホモ・サピエンス>に限定してもごく最近のことでしかない。
俺達だってようやく<物々交換>という形で経済活動を始めようとしてるが、別に今の時点では必須のものじゃないしな。
『その方がいろいろと便利だ』
というだけでしかない。人間が増えてくればおそらく必要になってくるだろうから今のうちに仕組みを確立させようとしているだけだ。そして様々な経済活動の形についても検証する必要が出てくるだろうな。例えば、
<エンターテイメントとしてのフィクション>
についても、その在り方について色々考える必要もあるかもしれない。さりとて俺の手記が『エンターテイメント作品として成立する』ようなのを望んでいるかと言えばそういうわけでもないが。
フィクションのキャラクターが、
<物語を成立させるために舞台装置として動くことによって出来上がっているもの>
である以上は『結末に向けて決められた通りに動いている』だけだから面倒臭い小理屈なんか必要ないんだろうさ。
ただその一方で、地球人社会でフィクション 作品について語っている人間がやたらと<共感>という言葉を使いたがっていたのは、俺としても当時から違和感しかなかった。
『共感できないキャラクターには魅力がない』
的な言い方がどうにも鼻につくんだよ。そもそも<共感という言葉を使いたがる人間>というのが好きになれなかった。今ならばそれがなぜかなんとなく分かる。要するに<自分>というものがしっかりと確立されていないから<共感>に頼ろうとするんだろうなと感じるんだ。
要するに『群れたい』ってことだな。共感できる相手と群れることで自分の存在感が生まれると感じてる。
そんなとこか。
だが、<群れ>を作るパパニアンやレオンを見ていてもあくまで<生存戦略>として集まっているだけで、実は個々の存在は群れに頼らずとも自力で生きていける能力はほとんどの場合で持っているんだよな。たまに自力じゃ生きていけないのがいるというだけで。
実際、群れに属さず<一匹狼>的な生き方をしている個体も確認されている。まあさすがに完全に個として生きていくのはリスクが高いから長生きはできなかったりするみたいだが。それでも人間のように自然に放り出されたら数日しか生きられないというほどでもない。




