未来編 むしろ自然な気が
俺はそうやって他者を敬い気遣い慮ることを心掛けてる。これについても、
『周りにいるのが立派な人間ばかりだからできてるだけだろ!』
と言うかもしれないが、だからそういうのは『他人の所為にしてる』と言うんだ。周りにいるのがどんな人間であれ『なるべく一人の人間として接する』ようにしてる。それを子供達はただ真似すればいいだけなんだよ。しかも周囲にいるのも同じように<他者を敬い気遣い慮ることを心掛けてる者達>だから馬鹿にされたりすることもない。
地球人社会にはいただろう?
<他者を敬い気遣い慮ることを心掛けてる者を嘲る輩>
が。まあそういう意味じゃ『周りにいるのが立派な人間ばかりだからできてるだけ』と思いたくなるのも分からなくはない。でも、たとえそうじゃない人間に対しても面と向かって攻撃的に振る舞われたりしなければなるべくはそう心掛けるようにしてたよ。できない場合でも『社交辞令の範囲内で』鷹揚に振る舞うようにしていたし。
光莉の件で精神的に追い詰められていた時期以外は。そうやって俺がしていたことが『できない』『無理』だと思うのならなぜそれができないのか無理なのか自分で考えてみたらどうだ? そこで<他人の所為>にせず<自分がそれをできない無理だと感じてしまう理由>を。
それすら『面倒臭い』『やってられるか』と言うのなら、赤の他人でしかない俺にはもうお手上げだ。それ以上はしなきゃならない義理もない。これが俺の子供達だったら放っておかないにしても、それはあくまで、
『俺の勝手でこの世に送り出した責任がある』
からだしな。その責任が欠片もない見ず知らずの赤の他人なんかどうして自分の子供に掛けている以上の手間を掛ける必要がある? まあ血の繋がりがなくても自身の庇護下にある子供の場合は<その子を自身の庇護下に置くという選択をした責任>はあるにしてもそういうのですらない場合はそれこそ知ったことじゃない。
当人の親が見て見ぬふりをして逃げるのなら好きにすればいいと思う。俺はそんなことをしようとは思わないが。子供がいくつになっても俺にとっては<子供>なんだ。<その子の親になった責任>があるんだ。
親がそういう自分の責任から逃げていて子供がどうして自分の責任と真っ向から向き合えるようになれると思うのかが俺には分からない。他でもない親がそんなことをしているなら子供だってそこまでの責任を負おうという気にはなれないことの方がむしろ自然な気がする。




