未来編 理解できると思い込んでるだけ
そう言えば地球人社会では、
『一から十まで丁寧に説明しないと分からない奴が増えてる』
などと揶揄する人間がいたりしたが、俺はその言い方については違和感しかない。それはむしろ、
『いちいち丁寧に説明しなくてもそれくらい分かれよ』
という、
<丁寧に説明する手間を掛けたくない人間の甘え>
としか思えないんだ。確かに<物語>なんかじゃいちいち丁寧に説明していたら冗長になってテンポが悪くなったりもするんだろう。そういうのを好まない人間もいるのは確かだと思う。
でも、
『そうやってテンポを重視する人間は本当に作者が描きたいことを理解できている』
のか? 実際には作者が描きたいことなんて理解できていなくて、
『ただただ自分なりの解釈によってその作品を理解した気になってる』
だけじゃないのか? 事実、そういう人間が自らの解釈を発信するとそれに対して異論を唱えるのが出てきたりするんじゃないのか? つまり、
『どちらかの解釈が正しいとすればどちらかの解釈が間違ってる』
ということになるはず。それはとりもなおさず、
『いちいち丁寧に説明されなくても理解できると思い込んでるだけ』
なんじゃないのか?
『自分なりの解釈を当てはめることで理解できてる気になってるだけ』
なんじゃないのか? だから作者から、
『いや、そうじゃないですけど?』
みたいに言われたらキレたりするんじゃないのか? 作った当人がそう言ってるならそれこそが<正解>のはずなのにそれを、
『作者が勝手に言ってるだけ』
『公式が勝手に言ってるだけ』
とか、あまりにも<傲慢>というものじゃないか? 『お客様は神様だと客側が思い込んでるだけ』ってものじゃないのか?
『すべてを完璧に理解する』なんてことはできないにせよ、せめて、
『製作者側が言ってることが基本的に正解だと理解する』
ことは必要だと思うんだよな。たとえそれが『自分の解釈とは違って』いても。
これは、
『他者の存在を認める』
『他者を慮る』
『他者の考えを理解しようとする』
ことそのものなんじゃないか? そして『自分勝手な解釈を加えることで分かったような気になる』のを予防することに繋がるんじゃないか? さらには、
『自分の解釈と違っているからといって一方的にキレる』
のを予防するのには必要なことなんじゃないのか?
だから俺達は『丁寧に説明する』ことを厭ったりしない。
『丁寧に説明を受けた上で物事を見聞きするという経験を積み重ねればこそ、次第に丁寧すぎる説明がなくても察することができるようになっていく』
と俺は思うんだよ。




